28 声なき慟哭

「お義母さまもそうだけど、ご主人も軽率だったわね。目先の心配にとらわれて、アレットの気持ちを深く考えなかったんですもの」

「夫は想像力が足りないのよ。男の人はいいわよね。十月(とつき)が過ぎるのをただ待っていれば、自分の可愛い子どもが手に入るんだもの。そのあいだ、女がどれだけ大変な思いをしているのか、考えもしないんだわ」

 アレットが抱えているストレスは、すべての妊婦が直面する問題なのかもしれない。フランセットは、夫婦に冷却期間を持たせるために、アレットを一週間くらい宮に留めおくことも考えた。

(でもこれは、時間が経てば経つほどこじれる問題のような気もするわ。アレットのご主人は心優しくてつまを愛している方だもの。つわりになってどんどん痩せていく妻を見て、心配が高じて混乱してしまい、アレットを傷つけるようなことを口走ってしまったかもしれない)

 そういうことであれば、解決策はひとつしかない。
 フランセットは窓の外を見た。雨がやむ気配はないようだ。

「ねえ、アレット。あなたのその気持ちをご主人に全部お話しした?」

「していないわ。だって、それくらい自分で気づくべきでしょう?」

 アレットはくちびるを噛んだ。フランセットは彼女の背を撫でる。

「わたしもそのとおりだと思うわ。でも、お義母さまには自分の気持ちをはっきりと伝えたのよね。お義母さまは、あなたの気持ちをきっとわかってくださったと思うわ」

「……そうね。わかってくださったようだったわ。わたしが屋敷を飛び出して馬車に乗り込んだとき、目に涙を溜めながら謝ってくださったもの」

「そうでしょう? だから同じことをご主人にもしてみたらいいと思うの。きっとすぐにわかってくださるわ」

「夫には自分で気づいてほしいのよ」

「ええ、そのとおりね。でも、男性にそこまでの配慮を期待するだけ損よ。こっちが疲れてしまうわ」

 言いながら、フランセットはメルヴィンを思い浮かべた。
 彼は、こまやかな心遣いができる部類の男性だと思う。それでもやっぱりすれ違って、夫婦仲がこじれたりもするのだ。

「ご主人をここにお呼びするわ」

「いまは会いたくないの。だからこそここに身を寄せに来たのよ」

「もちろん、ここには何日いてくれてもいいわ。でも、いまの感情をご主人に伝えたほうがいいと思うの。顔を見たくなければ、扉越しでもいい。とにかく一度、早いうちに、気持ちを教えておくべきよ」

 アレットは押し黙った。迷っているようだ。
 フランセットは言った。

「ここに招くのがだめなら、手紙でもいいわ」

「……わかったわ、フランセット。そうね、あんたの言うとおりよ」

 沈痛な面持ちで、アレットはフランセットを見つめた。

「わたしたち夫婦は話をするべきね」

「待っていて。いますぐご主人を迎えに行ってもらうわ」

 アレットの決心が鈍らないうちにと、フランセットはロロを抱えて席を立った。扉を開けると、予想どおりメルヴィンが、廊下の壁に背をもたせて待っていた。

「アレットさまはどうだった、フランセット?」

「ご主人との仲がこじれているようなので、いますぐにでも二人で話をさせたいのです。使いを出していただいてもいいですか? ご主人のご予定が詰まっていなければいいんですけれど……」

「馬に乗って行けば早い。僕がご主人を迎えに行ってくるよ」

「いいのですか? でも、王太子殿下を使いの代わりにするなんて――」

 戸惑うフランセットに、メルヴィンはいたずらっぽく笑った。

「突然の訪問で相手に言うことを聞かせるには、僕が出向くのがいちばん効果的だよ。王太子からの呼び出しに勝る先約は、この王国には存在しないに等しい。重たいばかりの権力は、こういうときに有効活用しないとね」

 それから三十分後に、アレットの夫を連れてメルヴィンは宮に戻ってきた。

 あとでメルヴィンから聞いた話なのだが、夫であるグリム卿とは、彼の屋敷に向かう途中でばったりと会ったらしい。乗馬していた彼は、ひどく慌てた様子だったそうだ。妻の逃亡先は王太子宮であると見当をつけ、向かっていたのだという。

 グリム卿は、王太子宮に行く道中、メルヴィンにこう告げたそうだ。

『すぐに妻を追いかけたかったのですが、母が自分も行って謝らせてほしいと言い張って。屋敷で待っているよう説得するのに、時間を取られてしまいました。母も、そして私も、心配のあまりアレットを傷つけてしまったことをとても後悔しています』

 アレットはまず、自分の気持ちを扉越しに夫に伝えた。つっかえながら話したため長くなってしまい、途中でつわりが来てもどしてしまうというというトラブルを挟みつつ、アレットは思いを夫に伝えきった。フランセットは、アレットの側にいて彼女の手を握り続けていた。

 廊下では、一歩下がったところでメルヴィンが見守る中、グリム卿が真剣な表情で何度もうなずきながら、アレットの話を聞いていたらしい。彼は妻の思いを受けとめ、謝罪し、許しを乞うた。

 何度も言葉を伝え合ったのち、ついにグリム夫妻は和解した。和解したというよりも、アレットが夫を許したというほうが正しいかもしれない。

 アレットが、おずおずとした様子で扉を開けた瞬間、グリム卿は彼女を両腕で抱き寄せた。もう離さないとでも言うように、力いっぱい抱きしめた。アレットは、夫の愛情を充分すぎるほど感じたのだろう、涙を零しながら彼を抱きしめ返した。

 夫妻は、謝罪と心からの礼をフランセットとメルヴィンに伝え、屋敷に帰っていった。彼らの母親は、息子夫婦を安堵の涙とともに迎えるだろう。

 フランセットは、身重のアレットを最大限に気遣い、優しく接するグリム卿を見て温かい気持ちになった。そして、アレットに羨ましさを感じた。

 羨望のまなざしに気づいたのか、別れ際にアレットが、フランセットに耳打ちしてきた言葉がある。

『フランセットとメルヴィン殿下が、わたしたち夫婦のような行き違いを起こすことは絶対にないわね。だって殿下は、あんたのことをこれ以上ないほど愛しているんですもの。二人をみていると、そのことが伝わってくるわ。そして、ほかにも殿下から伝わってきた感情があるの。気づいたのは多分、わたしだけだと思うわ』

 アレットはひと呼吸おいて、真剣なまなざしでフランセットを見つめた。

『メルヴィン殿下はおそらく、妊婦に対して――というよりも、妊娠に対して、複雑な感情をお持ちになっている。以前は、あの印象的な黒い瞳でいつでもまっすぐにこちらを見てくれていたけれど、今回だけは違ったもの。不自然なほどぎこちなく、わたしから目を逸らしていたわ。わたしの心配のしすぎだということを祈るけれど、もしかしたら殿下は、子をなすことを望んでいないのではないかしら』

 アレットたちの馬車が見えなくなった。雨はまだ降り続いている。傘を差したまま立ち尽くすフランセットに、メルヴィンが優しく声を掛けてくる。

「雨脚がまた強くなったね。宮に入ろう、フランセット」

 背を促す手に、フランセットは従うことができなかった。肩に乗っていたロロが、「チー」と鳴きながら、ふわふわした毛並みを頬にすり寄せてくる。

 認めたくはないが、アレットの言い分を証明することは、簡単にできてしまう。

 メルヴィンの周囲に、良好な親子関係は少ない。なかでも、次の二つは破綻間近、もしくはすでに破綻しているようにも見える。

 アレン・レイス兄弟と、国王ロッドの関係。そして、メルヴィン自身と、王妃リヴィエラの関係だ。

 フランセットはまだ目撃していないが、もし、この二つの関係性以外――たとえば、エスターとリヴィエラ、メルヴィンとロッドなど――もすでに手の施しようがない状態であるならば、メルヴィンの親子観は、闇の中に沈んでいると考えられる。

 親子関係に幸福を見出せない。
 だから、子を持つことを恐れているのだとしたら。

(メルヴィンさまは、お世継ぎを望んでいない――)

 その考えにたどりついた時、自分がいまどこに立っているのかすらフランセットはわからなくなってしまった。手から傘がすべり落ちて、髪や頬や肩先が雨粒に打たれても、気づきもしなかった。

「どうしたの、フランセット」

 メルヴィンの傘がフランセットの上にかざされる。傘のほとんどをフランセットのために使ってしまったためか、彼の左肩がみるみる濡れていく。

 フランセットはメルヴィンを見た。彼の綺麗な漆黒の瞳に心配そうな色が揺れていて、フランセットだけを映している。

「フランセット……?」

「メルヴィンさまは、ご存知ですよね。つい最近、わたしはあなたに相談したもの」

 こんなにも冷たい声をメルヴィンに向けることができるなんて、このときまでフランセットは思いもしなかった。

「お世継ぎは不要ですか。わたしが妊娠することを、メルヴィンさまは望まないのですか。だから妊娠しやすい日を避けるなどして、計画的にわたしを抱いていたのですか」

 メルヴィンは愕然と目を見開いた。
 傘を持つ手が震えて、彼の全身がこわばるのがわかった。

「やっぱりそうなのですね」

 フランセットは笑った。メルヴィンの目には、歪んだ笑みに映っただろう。

「やっぱりそうだったんだわ。メルヴィンさまはすべて計算していたんですね。わたしが悩みを打ち明けたとき、はぐらかしたのはそういう理由だったのですね」

「フランセット、違うんだ。僕は」

 メルヴィンは、そこで言葉を切った。苦しげに眉を歪めて、それでも懸命にフランセットを見つめる。

「あなたと体を重ねるとき、そんなことは考えなかった。フランセットのことだけしか考えられなかった。計算なんて、一度もしたことがない。誤解だよ」

「じゃあどうして、わたしがお世継ぎの話をしたときにはぐらかしたのですか」

「僕も――子どもはほしい」

 悲痛ともいえるような、震えてかすれる声だった。

「あなたと家族を作っていきたい。温かい家庭を築きたいんだ。家族全員が信頼しあえて、屈託なく笑い合える、そんな空間を形作ることができればどんなに幸せだろうと思う。あなたは気づいているでしょう? 僕がどれだけ、そういう家族を切望しているかということを」

 胸が締めつけられるのを、フランセットは感じた。
 メルヴィンの言うとおり、彼が、愛情にあふれた家庭をどれほど欲しているかを自分は知っていたからだ。

 篠突く雨が、傘の中に自分たちを閉じこめているようだった。メルヴィンは、体の奥底から苦痛を絞り出すように言った。

「それなのに、ほしいと望めば望むほど、その光景はあいまいになっていく。ぼやけて、かすんで、消えてしまう。僕のような人間が子を授かっていいのか。母親と弟たちを守ることのできなかった僕が、その腕で赤ん坊を抱いていいのか。――わからないんだ。フランセット。すまない。僕たちのあいだに子ができないのは、僕のせいだ。以前の母上は、僕だけを異常なまでに溺愛し、エスターを慈しむ余裕を持てなかった。エスターも、そして母上も、痛くて苦しくて泣いていたのに、僕は二人を救えなかった」

 フランセットの肩の上にいたロロが、雨を弾くように身震いをした。フランセットは、ひとことも声を出せなかった。

「僕は母を、弟たちを愛していた。生まれたばかりのアレンが、僕の指を握って笑った。それを愛しいと思った。けれど母にとってそれは罪悪だった。愛しいものを愛することが、僕には許されなかった。母が悲しむから。母が悲しむのは、彼女が被害者だからだ。それじゃあ最も悪いのは誰なんだと、審判が始まる。父なのか、フィーリアさまなのか。僕ら兄弟の内でも、立場によって見方は変わる。僕が――僕たち兄弟が、愛するものを愛していると言えない、その元凶はどこにあるのだと」

 審判。
 その無慈悲で悲しい響きに、フランセットは戦慄する。
 雷鳴が轟いた。メルヴィンは言う。

「アレンとレイスは、父を糾弾し、王妃を責める。母の愛を得られなかったエスターは、誰に対しても心を閉ざすことを決めた。フィーリアさまは己の運命をただ嘆き、父上はフィーリアさまと彼女の生んだ二人の息子を愛するも拒絶され続けている。母上は、愛憎に呑まれた過去の自分を悔い、身動きがとれなくなっている。そして僕は」

 メルヴィンは言葉を切った。
 漆黒の瞳が揺らめいて、そんな自分を律するように、きつくまぶたを閉ざす。

「以前、父上に諫言したことがある。母上を蔑ろにし、フィーリアさまを寵愛するのは、父上が弱いからだと。あなたのやり方はだれも幸せにしないと。僕は、あなたのような人間には決してならないと。――フランセット。あなたと初めて出会った夜のことだよ」

 フランセットは目を見開いた。
 あの夜は、近隣諸国の王族が集う舞踏会が催されていた。そこで初めて出会ったメルヴィンから、フランセットは求婚を受けた。

 そのときメルヴィンは父親に――超大国ウィールライトの国王に、そのようなことを言ってのけたというのか。

「父上は、怒りも悲しみもしなかった。父はわかっていたんだ。自分のしたことの罪深さを。それでも止められなかった己の恋情の愚かしさを。父は、死ぬまでずっと、得られることのない愛を追い求め、疲弊していくだろう。フランセットも気づいているでしょう? フィーリアさまは、父上をおそらく愛していない。彼女はただ、自分の運命を受け入れただけだ」

 蜘蛛の糸どころではない。
 メルヴィンの、闇色をした瞳を見つめながらフランセットは茫然としていた。
 底なし沼だ。

 自分の認識は甘かった。ウィールライト王室が沈む沼の深さを、見誤っていた。
 メルヴィンの優しさと、エスターのほほ笑みと、アレンの明るさに、惑わされていた。

 激しい雨が傘を叩く。メルヴィンは、苦痛に顔を歪めている。

「子ができないのは、僕のせいだ。それとなく侍医に聞いてみたことがある。そういう魔法があるそうだよ。受精を防ぐ魔法だ。僕は無意識にそれをあなたにかけていたかもしれない。計算なんてしていない。あなたとのあいだに子ができたら、夢のように幸せだろうと思っていた。いまでもそう思っているよ。なのに、僕はそれをできずに、あなたをただ傷つけてしまった。本当に、すまない。ごめん、フランセット――」

「メルヴィンさま」

 フランセットは両腕を伸ばして、メルヴィンを抱きしめた。
 毎晩の情交のあと、メルヴィンは必ずフランセットを強く抱きしめていた。切なくなるような声で「愛しているよ」とささやきながら。

「大丈夫です、メルヴィンさま。大丈夫。話してくれてありがとうございます」

 メルヴィンの体は、痛々しいほど硬く冷えていた。

「これから先のことは、二人で考えましょう。安心してください。なんとかなりますよ。大丈夫です」

 メルヴィンの手から傘が落ちて、フランセットの体に両腕が回された。きつく抱きすくめられながら、フランセットはメルヴィンの背を撫でた。

「フランセット」

 引きしぼるような声で呼ばれて、フランセットの瞳から涙がこぼれる。

「あなたを愛しているよ、フランセット。あなたなしでは、僕はもう生きられない」

 くちびるが重なる。
 雨に濡れて冷えたそれを温め合うように、互いの体温を分け合った。

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