第四章
泣かないで、お母さま。
僕が、おそばにずっといますから。
メルヴィンは跳ね起きた。
寝室には薄闇が漂っている。明け方だ。
薄手のガウンがじっとりとした汗を吸っていた。昔の夢を見ていたのだということに遅れて気づいて、震える息を吐き出す。
五感のすべてが無意識にフランセットを探していた。普段なら腕の中で眠っている彼女は、いまはヘッドボードに置いた宝石箱の中で寝息を立てている。
ミニサイズのネグリジェを身に纏い、静かに眠る彼女は本当に人形のようだった。胸底がざわついて、指先でフランセットの頬にふれると、彼女は小さく身じろぎをする。メルヴィンはほっとして、それから彼女を見つめた。
昨日、フランセットに胸の内を打ち明けたあとに雨はやみ、青空が広がった。手乗りサイズになってしまったフランセットをポケットに入れて、地面に落ちてしまったロロを拾い上げ、メルヴィンは王太子宮に戻った。
それから王太子としての仕事をこなして夜になり、いつもと変わらない会話をフランセットと交わして、眠った。
なんという女性だろう、と思う。
フランセットは、メルヴィンを責めていい。彼女は我が子を欲していた。それをメルヴィンに相談してもいた。メルヴィンは彼女にどれだけ謝罪しても、足りることはないだろう。
だというのに、フランセットはすべてを受けとめて、いつもどおりに接してくれた。本当に、なんという女性だろう。
一方で、自分のザマはどうだ。
情けない。
こんなことで、よくも、フランセットを護るなどと誓えたものだ。
護ろうとして、両親から遠ざけて、その結果がこれだ。
自責と悔恨のあまり、うめき声が漏れる。
「……くそ」
苦しい。
過去に起こった数々の出来事が、瞬きながら目の前を流れていく。
ひとつ年下の弟エスターは、幼いころ、母親から無視をされていた。それは、国王が愛妾に入れこんで王妃を蔑ろにしていた時期と重なる。
王妃は、長男であるメルヴィンを片時も離さずに溺愛した。一方で、次男のエスターを視界に入れなくなった。エスターが彼女の目に映るときは、メルヴィンがエスターの面倒を見たりいっしょに遊んだりするために、母のもとを離れるときだった。
そういうとき、母はメルヴィンを留めようとするので、エスターが傷つくのだ。メルヴィンは、愛する弟を守るために自身の行動を慎重に制御しなければならなかった。
母の拠り所は、将来的に国王を継ぐであろう長男メルヴィンにあった。自分がウィールライト王家に嫁いできた意味を、世継ぎの生母であることに見出し、そしてほかのすべてがどうでもよくなるほどのめりこんだ。
母に対する自分の態度がそっけないものであることは、フランセットに指摘されるまでもなく自覚している。父に対する態度のほうが、もっとひどいことも知っている。
(冷静になれない。過去が思い出されて、感情的になってしまう。それを抑えようとすればするほど、ああいう態度になってしまう)
一方で、フィーリアにやわらかく接するのには理由がある。彼女はアレンとレイスの母親だ。この不遇な弟たちには、慈愛に満ちた母性がどうしても必要だった。彼らが父親を嫌い、遠ざけているから余計にだ。フィーリアの心が折れてしまうような状況は、アレンとレイスのために、絶対に避けなければならない。
メルヴィンは、フィーリアに対しては打算的に動くことができた。彼女には、弟たちの母であるという役目しか求めていないからだ。
しかし、父はともかく、母に対して感情的になってしまう。そんな自分の幼稚さが、吐き気がするほど嫌だった。
フィーリアと違って、母には役目ではなく、情を求めていたからだ。
弟と平等に愛してほしかった。
王太子としてだけではなく、一人の子どもとして愛してほしかった。
幼いころの自分が、そしておそらくはエスターも、心の奥底でそうつぶやきながら、いまでもうずくまっている。あの頃、メルヴィンは必死だった。父と、母と、弟たちとの仲を取り持とうと、必死に動いていた。けれど、すべては徒労に終わった。その結果の、いまなのだ。
けれど、母も傷ついていた。これ以上ないほどに傷ついていた。大人になれ、とメルヴィンは自分に命じた。
(いつまで囚われたままでいる気だ)
そもそもの発端は父親であり、そして、妃がいることを知りながら妾になることを受諾したフィーリアである。平民のフィーリアには、国王の命令に逆らう術を持たなかったとメルヴィンは思っていたが、最近は考えを改めるようになっていた。
フィーリアは本当に、国王ロッドの求愛を退けることができなかったのだろうか。父はフィーリアに、断るという選択肢を与えなかったのだろうか。
責を負うのは大人たちで、メルヴィンの弟たちに罪はない。当時幼かったエスターには、まだ理解できなかった。母が自分を見てくれないのは、メルヴィンに比べてひどく劣っているからだと信じ、自分を責め続けていたのだ。けれどいまは、エスターも母親が置かれていた状況を理解している。
だからエスターは、母を責めることはしない。しかし、おだやかに接しながらも、心の距離を大きくとっている状態だ。
その理由はメルヴィンと同じものだろうが、エスターの孤独はより深いだろう。この弟は、フィーリアには気を許しているように見えて、確実に一線を引いている。フィーリアも、そしてリヴィエラもそのこと気づいていて――だからこそ、リヴィエラはエスターを気にかけるのだ。過去の行いを悔い、エスターに謝罪し続けている。エスターはそれを、笑顔でかわしている。
ウィールライト王室に巣食う愛憎は、蜘蛛の糸のように絡み合い、ほどくことは不可能と思われる。
しかし、あきらめてしまったらいずれ、不信と不安に全員が食い荒らされてしまうだろう。
フィーリアとその息子たちを含めた自分たち家族は、新たな関係性へと駒を進めなければならない。残骸を撤去し、土をならして、草木を植えて、育んでいかなければならない。
誰も置いていかない。誰のことも排斥しない。
王国にとって、メルヴィンにとって、そして弟たちにとって、この三人の大人たちは許しがたい存在であるが、一方で、それぞれに必要な存在でもあるからだ。
綺麗事であることはわかっている。けれど、憎しみは苦しみしか生まないことを、全員が身に染みて理解している。
新たな関係性に家族を先導するのは、長男である自分の仕事だ。
「――しっかりしろ」
己を叱咤する。
いまやるべきことを、自分はやらなければならない。
「お出かけになるのですか、メルヴィンさま?」
部屋に運ばせた朝食を前に、フランセットは首をかしげた。彼女の本日の装いは、ラベンダー色の清楚なドレスだ。白いレースがあしらわれた生地を纏うフランセットは、見とれてしまうほど愛らしかった。
メルヴィンは、自分の朝食を切り分けて、ミニサイズの食器の上に置いていく。そうしながら、彼女の問いに答えた。
「うん、フィーリアさまの屋敷に行ってくるよ。申し訳ないんだけど、フランセットはここで待っていて。今日はアレンが来る予定だから、あの子といっしょに過ごしてくれるかな」
「……それは構いませんけど。お一人で大丈夫ですか?」
「心配してくれるのは嬉しいけれど、大丈夫だよ。僕としては、目を離した隙に無茶なことをフランセットがまたしてしまわないか、そっちのほうが心配だよ」
朝食を食べ終わり(ロロも籠の中で完食した)、メルヴィンは別室でスーツに着替えた。やって来たアレンにフランセットを任せて、馬に乗りフィーリアの屋敷に向かう。
屋敷にいたのは彼女一人だった。レイスは街に出かけているとのことだった。
「来てくださって嬉しいです、メルヴィンさま」
いつものようにフィーリアはおだやかに迎えてくれたが、薄紫色の瞳には翳りがあるように見えた。
応接間に通されて、ソファに腰を下ろす。テーブルを挟んで座ったフィーリアに、メルヴィンは告げた。
「今日はフィーリアさまにお話ししたいことがあってお訪ねしました」
「……はい。なんなりと」
フィーリアは、長い睫毛を伏せて小さく言った。彼女は、いまからなにを問われるのかわかっているのかもしれない。
「中和薬を隠し持っているのは、レイスではなくあなたですね、フィーリアさま」
静かな問いに、ドレスの上で重ねられたフィーリアの手が震えた。メルヴィンは重ねて言う。
「あなたはレイスが薬を持ち出したことを知っていて、けれどそれを咎めなかった。まさかそれをレイスが人に使うことはないだろうと思ったのかもしれないですね。けれど、そのあと僕が訪ねてきて、中和薬を渡してほしいと言ってきたから、あなたは驚いた。そして、レイスが薬をフランセットに使ったのだと勘づいた。そして、息子の意思をとっさに守ろうとしてしまった」
フィーリアはうつむいたまま黙っている。それは肯定したも同然だった。
メルヴィンはひと呼吸置いてから続けた。
「フィーリアさま。僕は、アレンとレイスを産んでくださったあなたに感謝しています。エスターにも優しく接してくださった。それはフィーリアさまの人格が優れているからだと思っています。けれど、あなたは弱い。自分へ向かってくる想いを跳ね除けることをしない。それが倫理に外れた道だとわかっていても」
「……おっしゃるとおりです。王妃殿下や王太子殿下には、申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「ずっと前からわかっていました。あなたは父を愛していない」
フィーリアが顔を上げた。整った面立ちが、苦しげに歪む。
「気づいていたのは僕だけじゃない。王妃殿下も気づいていらっしゃった。だからこそ余計に僕の母は苦しんで――そしていまも、苦しんでいる」
夫を愛していない女に、夫を奪われた。
これほどつらいことはないだろう。
フィーリアは、か細い声で告げた。
「わたしは、拒めなかったのです」
メルヴィンは、フィーリアの生い立ちを知っている。貧しい家に生まれたため、三歳で道端に捨てられた。そこを通りかかった曲芸団に拾われて、その美貌とダンスの美しさを武器に、必死で自分の居場所を確保した。
際立った容姿はフィーリアを助けたが、同時に孤独にもした。男から好色な目で見られ、女からは嫉妬されて嫌われた。
「あんなふうにまっすぐにわたしを欲してくれたお方は国王陛下だけでした。だから、わたしはロッドさまのことを恐ろしいと感じながらも、受け入れてしまったのです。国王陛下は……妾になるかならないか、わたしに選択肢を与えてくださいました。わたしはこの王国から逃れることもできた。けれど、そうしませんでした。わたしを欲してくれるロッドさまを、拒むことができなかったのです」
やはりそうだったのか、とメルヴィンは思う。
だからといって、父の罪がなくなるわけではないけれど。
「僕はあなたに道徳観を説く気はありません。ですからこれだけをお伝えいたします」
メルヴィンは、静かにフィーリアを見つめた。
「父とともにフィーリアさまは、僕の母親を不幸にした。それをしっかりと認識していただきたいのです。あなたは、王妃殿下をはじめとした社交界から陰湿ないじめを受けたかもしれない。けれど、被害者ではありません」
フィーリアの顔が蒼白になる。メルヴィンは容赦なく続けた。
「ただの被害者ではない。あなたは加害者だ。母に謝罪してほしいとは言いません。母も望まないでしょう。けれど、その認識をつねに心に留めておいてください」
「……はい。はい、わかりました、メルヴィン殿下」
薄紫な瞳から涙がこぼれた。メルヴィンの言葉を、彼女はすべて受けとったのがわかった。
「あなたを苦しめるために言ったわけじゃない。僕は、僕の弟たちと、そしてフランセットのために申し上げました」
過去の罪は上書きできず、愛憎もまた澱(おり)のように過去にとどまったままだ。
それらの清算は、自分たち息子世代の仕事ではない。
「僕は、僕が護りたい人たちのために動きます。父とも、そして母とも話します。これまでずっと避けてきたことを、いましなければならないのです」
涙に濡れた瞳を上げて、フィーリアが尋ねた
「ずっと避けてきたのに、どうしていまだと思われたのですか?」
「フランセットが、気づきを与えてくれました」
メルヴィンは、ここで初めて表情を和らげた。
「僕は妻を愛しています。ウィールライト王家の過去に、彼女を巻きこみたくはありません。フランセットの笑顔を護ることが、僕の望みです」
「そうなのですね」
眩しいものを見るかのようにフィーリアは目を細めた。
「フランセットさまはとても幸せなお方ですね。メルヴィン殿下のようなお方に愛されているのですもの」