31 ほどけない糸はありません

「チーッ!」

 フランセットが後ずさった瞬間、ロロが背後から飛び出てきて、蛇に噛みついた。

 すると蛇は、体を大きくくねらせてロロを振り回し、壁に叩きつけた。ロロは「ギャッ」と鳴いてうずくまり、動かなくなった。

「ロロ!」

 駆け寄ろうとしたフランセットの視界に、蛇が鎌首をもたげるのが映る。とっさに飛びのくと、そこに蛇の頭部が突っ込んできた。あのまま動かなかったら頭から食われていただろう。フランセットの全身に鳥肌がたつ。

 父親や子どもたちが、勇敢にも次々に蛇に飛びかかっていく。しかし蛇は、ロロにしたように彼らを壁に叩きつけていく。

 蛇は、この状況を楽しんでいるように見えた。すぐに捕食することをせず、痛めつけて弱らせようとしている。

(弱いものをいじめて楽しむ輩は、どの世界にもいるのね……!)

 フランセットは歯をくいしばった。蛇のターゲットが、寄り添い合う母親と赤ちゃんにかわったのがわかったからだ。

 母親は、怯えて震える赤ちゃんをかばうように腹のうちがわにくるみこみ、牙をむき出しにしながら蛇を睨み上げている。渾身の威嚇も、しかし蛇には余興にすらならないようだった。

 鎌首を大きく持ち上げ、シューっと音を鳴らす。地獄からの使者のような恐ろしげな様子にを背後から見ていると、フランセットの両脚が震えた。この蛇は、フランセットの三倍ほどの大きさがある。立ち向かっても絶対に勝てないだろう。

 けれど、それはほかのロロットたちも同じだった。この蛇には勝てない、それをわかりながらも、ロロットたちは蛇に襲いかかり、そして壁に叩きつけられていった。
 今度は母親の番。そしてその次は、赤ちゃんだ。

(そんなことを許してはだめよ、フランセット)

 フランセットは、震える両脚を叱咤した。全身に力をこめて、それから走り始める。

 蛇が、ゆらゆらさせていた頭部をピタリと止めて、それからものすごいスピードで母親めがけて攻撃してきた。限界まで開かれた口と、鋭い牙。フランセットは、それと母親のあいだに身を滑りこませた。

(わたしの怪我なら、メルヴィンさまが治してくれる)

 メルヴィンは動物を治せないが、人間の怪我なら治せるのだ。

「チー!」

 上ずった鳴き声は、ロロのものだったと思う。
 フランセットは、体に牙が食いこむ痛みを覚悟して、両目をぎゅっと閉じた。そのときだ。

 バン! と耳をつんざくような破砕音がした。
 直後、土の天井が吹き飛ばされて、視界に夕焼け空が広がる。
 フランセットを含め、ロロットたちと、そして蛇までもが、茫然と動きを止めた。

(いったいなにが起こったの――)

「フランセット!」

 明瞭な声が耳を打った。
 それが誰のものなのかを瞬時に察して、フランセットは両腕を伸ばす。

「メルヴィンさま……!」

 大きな両手がフランセットを包み、掬い上げた。ロロットたちは慌てた様子で母親と赤ちゃんの周りに固まり、蛇は一目散に逃げ出していく。

「フランセット、大丈夫? どこも怪我をしてない?」

 切羽詰まった声でメルヴィンが言う。彼の手の中で、フランセットは泣きたい気持ちで笑った。

「はい、無事です。メルヴィンさまが助けてくださったので」

「よかった――」

 メルヴィンは安堵の息をついた。指先でフランセットの頬にそっとふれる。

「土だらけだ。綺麗な肌なのに」

「一時的に、ロロの家族の一員になっていました」

「一時的にでもだめだよ。あなたは僕の奥さんなんだから」

 メルヴィンは、ロロたち一家に視線を落とした。

「きみたちの家を壊してしまってごめん。フランセットを誘拐していった罪と、これで相殺にしてくれないか」

 ロロは「チー」とひとこと鳴いて、それから家族を振り返った。赤ちゃんを支えつつ、みんなで茂みの向こうへ消えていく。最後にこちらをちらりと向いたロロに、フランセットは「さようなら、ロロ」とつぶやいた。

「あなたは本当に、いっときでも目が離せないな」

「メルヴィンさま。わたし、あなたに伝えたいことがあるんです」

 漆黒の優しい瞳に向けて、フランセットは言う。

「メルヴィンさまのお嫁さんになれて、わたしはとっても幸せ者です。だから新婚期間は長ければ長いほどいいかもしれないと、思い始めたんです」

「フランセット?」

「だから、わたしたちの子どものことは、自然に任せましょう。いろいろな問題は、無理をせず、すこしずつ、いっしょにほどいていきましょう」

 メルヴィンは絶句したようだった。
 やがてゆっくりと強ばりが溶けていく。

「……ありがとう、フランセット」

 フランセットの頬を優しく撫でて、メルヴィンは頭のてっぺんにキスをした。

「ありがとう。これまでも、これからも、ずっとあなたを愛しているよ」