02 前門の父、後門の叔父

第一章

 ローゼの父は、クラッセンという片田舎を治める男爵である。名をハンネス=シェイファーという。
 彼は一人娘であり亡き妻の忘れ形見であるローゼを、たいへん可愛がっていた。いささか常軌を逸するほど、過保護に。

 ローゼはさながら、屋敷という名の鳥籠に閉じ込められた小鳥だった。ハンネスはローゼの行動を制限する傾向にあった。つねに手もとに置きたがり、ほとんど敷地の外へ出さなかった。

 ローゼは友人もできず、恋人などもちろんできなかった。しかし優しい乳母や明るい侍女たちに囲まれて、すくすくと育った。田舎の屋敷は庭が広い。庭の散歩は許されていたので、太陽の光に不自由することもなかった。

 そして父ハンネスからは、母親の分を補ってもあまりある愛情を一身に受けていた。だからこそローゼは、異常に過保護な環境においても、心根が歪むことなくまっすぐに育ったのだ。

 ハンネスの過保護が目に余るとき、彼を制してくれたのは叔父のレイだった。レイはローゼの兄代わりを買って出てくれた。

 田舎領主の次男として生まれたレイは、他の貴族の家へ婿入りをするのではなく、法廷弁護士として身を立てる道を選んだ。華やかな都で気ままな独身生活を楽しみつつ、週に一度はクラッセンの屋敷に帰ってくる。

 ローゼを街へ連れ出すのはもっぱらレイの役目だった。ほんの短時間、店の者と二言三言(ふたことみこと)かわす程度の外出だったが、ローゼはそれを充分に楽しんだ。

 狭い世界で生きるローゼに、世の中のことを教えてくれるのもレイだった。

「女性は皆、十六になると社交の場へ出るようになるんだ。そこで結婚相手を見つけるんだよ」

 恋愛小説の中でしかロマンスを知らないローゼは、レイの言う世界がまるで遠い。

「ダメだダメだ。ローゼの結婚相手は私が決める。そして婿にこの家を継いでもらう。そうすればローゼはずっとこの家にいられるだろう?」

 ハンネスは必死に主張する。そのたびにレイは呆れ混じりのため息をつくのだった。
 ローゼは父が大好きだったから、それでいいと思っていた。なにより父を悲しませたくなかった。

(それがまさか、こんなことになるなんて)

 目の前の光景が信じられない。ローゼは落ち着かない気分でソファに腰掛けていた。

 ここはシェイファー家が都に所有するタウンハウスである。貧乏な地方貴族なので高価な調度品は置かれていないが、ローゼにとって充分リラックスできる空間だった。

 しかし、今は違う。なにしろローゼの目の前には竜の青年が座っているのだ。リラックスできるはずの我が家に、かつてないほどの緊張感が漲(みなぎ)っているのも致し方ないことであった。

「こ、こ、こういう事情がある。だ、だから私の娘は、嫁にやれない。あきらめてくれ」

 中でも父ハンネスの緊張した様子は突き抜けていた。見ていて可哀想になってくるほどである。

 ハンネスは竜の前に立ち、娘を取られまいと身振り手振りを交えて訴えていた。興奮して説明不足になる部分は、レイが付け足していた。どうやらレイも、今回ばかりはハンネスの味方のようだ。

 竜がローゼを抱えて舞い上がった時、ハンネスは腰を抜かしたとのことだった。彼にとってあまりにも悲劇的な状況に、呻き声すら出すこともできず、ただその場にへたりこんでしまったらしい。

 いきなり初めてのキスを奪われたローゼの方が、腰を抜かしたい気分である。けれど悲しいことに、事態が大ごとになっているため、リーゼとしてもそれどころではなくなった。

 なにしろ議題は結婚である。それも、竜との。
 かつてない混乱を運んできた青年は、真剣な表情でハンネスとレイの話を聞いているようだった。

「なるほど、男爵のご説明は理解した。つまりご息女は一人娘で、嫁に出すと男爵家を継ぐ者がいなくなる。だから竜の花嫁にはさせられないということだな」

「そ、そうだ。分かってくれたか」

 ハンネスはほっと胸を撫で下ろした。ひたいに吹き出た汗をハンカチで拭っている。
 しかし竜の青年は反撃に転じた。

「男爵家の親類筋に、養子にして当主に据えられるような男子はいないのか?」

「ぐ……」

 ハンネスは言葉に詰まった。実は親類筋にわんさかいる。ローゼに面識はないが、少なくとも同じ年頃の男子が五人はいるらしい。

「いるなら、申し訳ないがその者に家を継がせて頂きたい。そしてご息女を私が貰い受ける」

「だ、駄目だ! ローゼを竜のもとにやるなんて……竜大陸に渡らせるなんて、絶対に駄目だ!」

 竜は世界の中央に位置する大陸に棲んでいる。竜の番いは婚姻を了承したら、もれなくそこに移住することになるのだ。
 取り乱す父の様子に、ローゼは胸を痛めた。

(彼には申し訳ないけれど、あきらめて頂かないと)

 父のこともあるが、ローゼ自身にも、竜に対する恐怖感がある。昔経験したことが原因によるもので、かなり根深い。

 そういえば、彼の名前をまだ聞いていなかった。しかしお断りをするつもりなのに、聞いてどうするとも思う。

(けれどさっき、レイ叔父様がこの方のお名前を呼んでいなかったかしら)

 ローゼは首を傾げた。隣に座っていたレイが、言いにくそうに声を上げる。

「あー、兄さん。少し注意を促しておきたいんだが」

「なんだ、今取り込み中だ!」

「それは充分わかっているよ。けれど兄さんの頭に一つだけ入れておきたいことがある。さっきから兄さんはそちらの青年にさんざんな口をきいているけれど、俺の知る限り、恐らく彼は竜王だ」

「だから今は黙っていろと――ん?」

 ハンネスの動きが止まった。ローゼはびっくりして口もとを覆う。