二人きりは駄目だ、という父の意向を入れて、ローゼはヴァルを中庭へ連れ出した。遠くに園丁の姿もあるし、五歩後ろでは侍女がそっと付き添っている。
(自分で提案してみたはいいものの、これまでお父様とレイ叔父様以外の男性と二人きりになることなんてなかったから)
ついローゼは緊張してしまう。
それをやわらげるように、春の庭には花の匂いが立ちこめていた。
(きちんとお伝えしないと)
ローゼは勇気を奮い起こした。とりあえず、当たり障りのない話題から出してみる。
「この花の種は、わたしが去年植えたものなのです」
「そうなのか」
ヴァルは長い足を止めて、花壇を見下ろした。色とりどりのチューリップが咲いている。
「とても綺麗だ」
ヴァルは笑みを浮かべた。雄々しさばかりが目を引く容貌も、相好を崩せば甘く優しい。
晒された上半身から立ち上る男らしさと相まって、ヴァルの魅力を引き立てているようにローゼは感じた。つい、頬が熱くなってしまう。気づかれたくなくて、ローゼは視線を地面に落とした。
「あの……いつもそのようなお召し物を?」
「ああ、腰布のことか。上衣を着ると翼を出すときにいちいち破れるからな。鱗(うろこ)が出た時、布地が擦れるのも気持ちが悪い」
鱗、の言葉にローゼの顔から血の気が引いた。
「そ、そうですか」
「どうした? もし衣服を着た方がいいならそうするが」
ローゼは慌てて首を振る。
「いえ、着る必要のないものを着なくとも。 気になさらないでください」
「そうか。しかしこのことに限らず、気になることはなんでも言ってくれ。おまえの望みなら、なんだって叶えたい」
彼の双眸は微熱を含んだように光っている。形のいい唇は、先ほどローゼのそれと重ねられたものだ。あの時ローゼは混乱しきっていた。突然の事態に恐怖も感じていたと思う。
けれど不思議なことに、嫌だとは思わなかったのだ。愛していると告げたヴァルの、まっすぐな眼差しが先にあったからかもしれない。
(違うわ、駄目よ)
ローゼは小さく首を振った。意を決して、長身のヴァルを見上げる。
「申し訳ありませんヴァル様。わたしはヴァル様の花嫁にはなれません。家のことが気がかりですし、父を一人残していくこともできません。本当に、申し訳ありません」
ローゼは頭を下げた。しかしヴァルからは沈黙が返るばかりだ。
「あの、ヴァル様……」
顔を上げてから、ローゼは胸をつかれた。ヴァルは深く傷ついたような表情で、ローゼを見つめていた。
目が合うと、ふいに彼は微笑んだ。けれど痛みは瞳に残ったままだ。
「ローゼは親思いのいい娘(こ)だな」
ローゼの胸がずきんと痛んだ。父親のことは確かに最も気がかりだ。求婚を断る理由は、これが一番と言っていい。
けれど、本当はそれだけではない。
だからローゼは、ヴァルに嘘をついている。
「安心してくれ」
彼の声は深く優しい。
「竜族は番いの幸福を一番に考える。番いの幸せが竜のそばにないのなら、その手を放すこともする」
竜は結婚を無理強いしない。有名な話だったから、ローゼも知っていた。
「むりやり攫うようなことはしない。番いの悲しみは、竜にとって耐えがたいからだ」
だとしたら竜は、なんという愛情深い生き物なのだろう。
竜が番いを求めるのは本能である。忌憚(きたん)のない言い方をすれば、生殖活動のためだ。竜は雄しか生まれない。そして竜の子は、番いしか産むことができない。
けれど竜は、生殖本能を裏切ってでも、番いの幸福を願うのだという。
(自分の親のことばかり……自分のことばかり考えているわたしと、全然違うわ)
ローゼは唇を噛んだ。するとヴァルの手が伸びて、そっとそこを撫でた。
「やめてくれ。傷がつく」
胸が切なく締め付けられる。ローゼから、ヴァルは静かに手を放した。彼の目は、痛みをこらえているように揺れていた。
「往生際が悪いと思うが、これだけは聞かせてほしい。もしお父上のことがなければ、おまえは俺のところへ来てくれたか?」
ローゼは答えられなかった。
(お父様のことがなかったら。たとえばお父様が、笑顔で祝福してくださったら)
けれどローゼは、|竜が怖い《・・・・》のだ。
いや、もっと正しい言い方をすれば――
その時ふいに、カサカサと草の擦れる音が地面から聞こえてきた。視線を下げたローゼの視界に、細長くうねうねしたものが映り込む。それは右手前方、距離にして一メートルの近さで蠢いていた。
「……?!」
ローゼは顔を引き攣らせた。あの形状は、そしてあのヌラヌラ光る体表は、紛れもなく。
「きゃあああっ」
「ロ、ローゼ?!」
ローゼは恐怖に我を忘れてヴァルに抱きついた。たくましい腕で彼女を抱き留めつつも、ヴァルは混乱している様子だ。
「どうしたローゼ。なにがあった?!」
「あ、あ、あ、あれ、あれが」
「あれ?」
「お嬢様、大丈夫ですか?!」
控えていた侍女の声が飛び込んでくる。ローゼはヴァルの胸から顔を上げることすらできない。足が地面に触れていると|あれ《・・》が足首を擦りそうで、ローゼは彼の首もとに腕を回した。瞳を潤ませて、必死に訴える。
「だ、だ、だっこしてください、ヴァル様」
「だ……?!」
「お願いですヴァル様、だっこ……!」
「だ、だっこ、だっこか、わ、分かった」
ヴァルは首まで赤くしながらローゼをたてに抱き上げた。背の高くたくましい体躯は、ローゼの体重をものともしないようだ。
地面から足が離れて、ローゼは彼の首もとでほっと息をついた。するとヴァルの体がびくんと震えた。どうしてだろう。
またしても侍女の声が聞こえてきた。
「申し訳ありませんローゼ様、蛇よけの薬を撒いておいたはずなのですが。ああもうあの蛇、まだ逃げていかないわ」
ということは、あれはまだ近くにいるのだ。ローゼは震え上がって、再びぎゅうっとヴァルの首もとにしがみついた。
「へ、蛇?」
ヴァルが動揺しきった声を上げる。
「ローゼは蛇が怖いのか?」
ああ、悟られてしまった――。しかしこんな失態を犯してしまったら、露見するのも当然と言えよう。ローゼは絶望するとともに、ぎこちなくうなずいた。
(細長くて、にょろにょろ動いて、真っ黒な目をして、そしてなにより)
あのヌラヌラした鱗(うろこ)。
複雑な色合いで、なめらかに光を弾く。あの鱗が、ローゼは何よりも苦手なのだ。
(だから、竜も怖い)
竜は人の姿を取っている時も、なんらかのきっかけで鱗が表皮に現れるという。
ローゼにとって、それはなによりも怖ろしい現象だった。