05 嫁に来てくれるのならなんだってする

「そういうことか。ローゼ、そのままでいろ」

 三秒後、侍女から感嘆の声が上がった。

「まあ! 一睨みで蛇を追い払うなんて、さすが竜王陛下ですわ!」

「本来なら俺の前に姿を現すことなどないはずだがな。なにも分からないような子蛇だったから、逆に誘われたか」

 とにかく蛇は逃げていったらしい。ローゼは震えるように安堵の息を吐いた。それからやっと、今の自分の現状を認識する。

 ヴァルの両腕にしっかりと抱き込まれ、さらにぎゅっと力を込められている。ローゼの両腕は縋るように彼の首もとに回っていた。

(わ、わたし、なんてはしたないことを)

 ローゼは顔を赤くした。しかしそれより気がかりなのは、蛇が苦手だということをヴァルに知られてしまったことだ。
 竜は大蛇とも例えられる。だからこそ、彼に知られないようにしていたのに。

 あなたが苦手ですと聞かされて、傷つかない人などいるわけがない。ローゼは彼に謝罪しようと、顔を上げた。
 そして、見てしまった。
 整った彼の顔立ち、その日に焼けた頬の一部分に、白銀の鱗がうっすらと光っているのを。

「きゃあああッ」

 ローゼはまたしても叫び声を上げた。
 その上ヴァルを思い切り突き飛ばし、涙目で振り仰いだ。鱗の部分は目に入れないようにして、半ば叫ぶように訴える。

「ごめんなさい、わたし、鱗が苦手なのです! 怖いのです!」

「う、鱗が?」

「だから、お父様のことがなくても、あなたと結婚できません。本当に本当に、ごめんなさい!」

「ち、ちょっと待て。これは気が昂ぶると出てしまうだけだ。普段は滅多に出ない。今はおまえがだっこをねだってきたから――ではなく、蛇を追い払った時に少々気合いを入れたから」

 彼の腕がこちらに伸ばされる。そこにも白銀の鱗が張られているた。ローゼは顔を引き攣らせる。

「ごめんなさいヴァル様、ごめんなさいー!!」

 ヴァルの制止を振り切って、ローゼは全速力で逃げ出した。屋敷の階段を駆け上がり、自分の部屋に逃げ込んだのである。  
 乱れた息を吐きながら、ローゼは扉に背を預けた。混乱しきった頭を抱える。

(最低だわ)

 ローゼは自分のダメさ加減に絶望した。

(本当に最低だわ)

 そのままずるずると座り込む。両膝を引き寄せて、顔をうずめた。
 自分が嫌になる。
 ローゼは、もともと蛇が苦手なわけではなかった。四歳のころ、庭の林で噛まれたことがきっかけだ。父と叔父と三人でピクニックを楽しんでいた時のことである。

(藪へ入ったわたしの不注意だったから、蛇に罪はないのだけれど)

 運の悪いことに噛んだのは毒蛇で、ローゼは三日三晩高熱に苦しんだ。
 ひどく取り乱したのは父である。当時ハンネスは、三年前に最愛の妻を熱病で亡くしたばかりだった。まだ精神的に不安定で、いつも黒い服を着て喪に服していた。

 高熱に苦しむ娘の姿を、末期の妻と重ね合わせたのだろう。レイが慰めたり励ましたりしても、ハンネスはまったく落ち着かなかった。

 ローゼは父の取り乱しように大きなショックを受けた。それ以来、蛇が苦手になった。噛まれたときのことや、父の混乱したさまを思い出して、体が震えてしまうのだ。

(でもそれは……ヴァル様には、なんの関係もないことだわ)

 ヴァルはなにも悪いことをしていない。むしろローゼを守ってくれたのだ。

(あんなにまっすぐに、想いを伝えてくださったのに)

 ローゼは歯を噛みしめた。彼の声や微笑みを思い浮かべただけで、胸の奥が苦しくなる。

(お父様が祝福してくださったら――そして、鱗が怖くなかったら)

 もしそうだとしたら、自分は彼の手を迷いなく取っただろうか。
 それを考えることが、怖かった。自分は今、とんでもなく大きなものを失う瀬戸際にいるのかもしれない。その現実を直視することができない。

 けれどさっき自分がヴァルにひどいことをしてしまったのは事実だ。ローゼはゆっくりと顔を上げる。

「ヴァル様に謝りにいかないと」

 もつれる足で立ち上がり、ドアノブに手を掛けた。しかし彼の腕に張られた鱗を思い出して、足が竦んだ。本当に、情けない。

 その時控えめに扉がノックされた。続いて「ローゼ」と呼ぶヴァルの声が聞こえてくる。ローゼはハッと目を見開いた。

「顔の鱗は引いた。さっきは怖がらせてすまなかった。もう大丈夫か?」

 こちらを気遣うような優しい声だ。ローゼは罪悪感でいっぱいになりながら、そっと扉を引き開けた。

 高い位置にあるヴァルの顔から、確かに鱗は消えていた。彼は扉を開けたローゼをびっくりしたような顔で見つめたが、すぐに真剣な表情に戻った。
 ローゼは深く頭を下げる。

「先ほどは、申し訳ありませんでした」

「いや、気にしないでくれ。俺の方こそ配慮が足りなかった」

「そんなことはございません。ヴァル様は少しも悪くありません」

 ローゼは顔を上げる。その時、彼のたくましい両腕に布が巻き付けられていることに気付いた。竜族には、上半身に布を身につける風習がないはずだ。
 ローゼの視線を感じたのか、ヴァルは腕の布をさすった。

「すまない、腕の鱗はまだ引いていないんだ。鱗はまず腕に出て、引くのも腕が一番遅い。だから布を巻いておいた。亜麻布(あまぬの)なら分厚くて丈夫だから、鱗が透けて見えることもないだろう」

 ローゼは茫然とした。次いで、胸がいっぱいになる。
 彼は、鱗が布に触れることを、気持ち悪いと嫌がっていたのに。
 彼に失礼な振る舞いをしたのは、ローゼの方なのに。

「ありがとうございます……本当に」

 胸に詰まっていた苦しみが、ゆるゆると溶けていくようだった。目の奥が痛んで、涙が零れそうになる。けれど泣いたらきっとヴァルが困ってしまうだろう。ローゼは琥珀色の瞳を潤ませながら、微笑んだ。

「本当にヴァル様は、お優しいですね」

 ヴァルはゆっくりと目を見開いた。それから苦しげな表情になり、うつむくようにローゼから目をそらす。

「そんなふうに微笑まないでくれ。あまりにかわいくて……」

「え?」

 ヴァルはなにかを振り切るように顔を上げ、まっすぐにローゼを見た。碧玉の熱さに、ローゼはどきりとする。

「未練がましくてみっともないが、やはりまだあきらめきれない。鱗が怖ろしいならこうして隠すことができる。クラッセン男爵を説き伏せることの努力もしよう。なにか他にできることがあるなら、その方法を考えるから」

 彼の一言一言に、心を揺さぶられた。情熱的な瞳に、男らしい低音に。
 そうだ。初めて庭園でヴァルに見つめられた時、ローゼは確かに思ったのだ。
 心をわしづかみにされたと。

「ヴァル様……ヴァル様。わたし、蛇が苦手なんです。鱗を見ると、もう駄目なのです。嫌いというわけではなくて、ただ怖いのです。ごめんなさい」

「ああ、大丈夫だ。謝らなくていい。おまえは悪くない」

 亜麻布に包まれた彼の腕が伸ばされて、そっと抱き寄せられる。日に焼けた肌は心地いい体温をしていた。まばたきをすれば、なめらかな首飾りに睫毛が触れる。

 この人には、誠実でいたい。
 ローゼは彼から体をそっと離した。そして自分の心のままに、過去にあったことを打ち明けた。蛇に噛まれたこと、高熱が出て三日三晩苦しんだこと、父が亡き母のことを思い出し、ひどく取り乱したこと、すべてを。