07 純粋培養の姪っ子が心配×100

第二章

 大きな客船の甲板にローゼはいた。船尾だから、風は後ろから吹き抜けてくる。流れる髪を片手で抑えながら、波の音を聞いた。潮の香りには、鼻がもう慣れてしまった。

(都の港が、もう見えなくなってしまったわ)

 客船は一路(いちろ)、竜大陸を目指している。明日の午後には辿り着く予定だ。

 竜大陸には、定期船が月に二度訪れる。それにはたくさんの商人たちと、番いの家族が乗船している。この時期、番いは商人から都で売られているような品物を買ったり、家族とのひとときを楽しむのだという。

 ローゼは今、そんな定期船に乗っていた。わざわざ不便な船の旅を選ばずとも、ヴァルが竜化して、巨大な背にローゼと家族を乗せて飛行すれば一日も経たず竜大陸に到着できるらしい。
 けれど鱗が苦手なローゼに、それは無理な話だった。だからヴァルが海路を提案してくれたのである。

 すぐ横の手すりに、男の手が掛かった。叔父のレイだ。

「やあ、ローゼ。兄さんは落ち着いているよ、表面上はね。今は船室で仮眠を取っている。本当に眠れているかは分からないけど。ローゼは蛇の鱗が苦手だから、数日で絶対に帰ってくるって自分に言い聞かせているみたいだ」

 ローゼは表情を曇らせた。

「ごめんなさい。竜大陸に行きたいだなんて、わがままを言ってしまって」

「俺はいい傾向だと思うけど。ローゼが兄さんの庇護から飛び出すのは正しいことだよ。兄さんだって心の底でそう感じていると思う。だからこそ、ローゼの真剣な願い事を無下(むげ)にしなかったんじゃないか?」

 父には絶対に反対されると思っていた。だから「お試しで竜大陸に一度住んでみたい」とお願いし、それが了承された時、ローゼは本当に驚いたのだ。ハンネスは馬の足に押しつぶされている真っ最中のような表情をしていたのだが。

 しかしローゼは、ただ一つ、ヴァルに心惹かれ始めているということだけを、どうしても言うことができなかった。

「わたしは親不孝な娘だわ。お父様に申し訳がない」

「この親子は困ったものだな」

 レイはクスクス笑った。

「ま、ローゼの蛇嫌いは根強いし、それに結局のところ重度の父親っ子だからね。もって二週間だと俺は踏んでるよ。社会見学だと思って、気楽に行っておいで」

 ローゼは曖昧に笑みを返す。

「そうそう。竜大陸の中心部は、人間の都とそっくりの造りをしているそうだよ。番いを安心させるために、人間の街に模して造られている。街では落ち着けないタイプの番いのためには、森の近くにカントリーハウスも用意しているらしい。人間の建築士を呼び寄せて造らせるんだ。竜は番いのために生きている」

 それは有名な話だった。竜は、番いがかの地で不安にならないよう、心を砕くという。

 そのための財源は、竜の皮だ。竜の皮は千の銃弾を耐えうる貴重なものである。人間はそれを、喉から手が出るほど欲するのだ。
 竜の皮は、欠損してもすぐに新たな皮が張る。だから竜は、愛しい番いのためなら、喜んで皮を裂き彼女のために使う。

 鱗が苦手なローゼにしてみたら、むしろ怪談に近い話なのだが。

「その関連で聞いた話があってね。なにもかも番いに甘い竜が、けれど一つだけ許さないことがある。どんなことか知っているかい?」

「いいえ」

 レイは口の端に笑みを浮かべた。

「竜は人間の男の滞在を許さない。朝から日暮れくらいまでならいい。つまり定期船の最終便までが、男が竜大陸に留まっていられるリミットだ。番いがどんなに頼んでも、友人や親類はおろか親兄弟に至るまで、人間の男が一泊することを許さない」

「それはなぜ?」

「なぜだと思う?」

 考えてもローゼには分からなかった。レイは笑う。

「俺の思い過ごしならいいんだけどな。竜は番いに執着する生き物だ。番いのためなら涙を飲んで別離を選ぶというのは有名な美談だが、はたしてすべての竜にそれが当てはまるかどうか」

 ローゼは眉を寄せた。

「ヴァル様は、そんなことしないわ」

「用心に越したことはない、ということさ。ヴァルは、おまえが帰ると言ったら帰してくれるかもしれないし、帰さないかもしれない。まあ、リンドヴァルムは誇り高き竜王だから間違ってもそのようなことはないと思うけれど。かわいい姪っ子のことになると心配が先に立つ」

 レイは昔よくしてくれたように、ローゼの頭を撫でた。ローゼは懐かしい温もりに目を細める。

「心配してくれてありがとう、レイ叔父様」

「父と叔父、そろって過保護だとよく笑われたものだけどね。ただ竜は異種だ。慎重になるに越したことはない。なにかあったら手紙で俺に知らせて。定期船の出ない時期でも、船夫を雇ってすぐに迎えに行くから」

 ローゼはうなずいた。レイの気持ちはとてもありがたいと思う。けれどヴァルは、ローゼの気持ちを無視するようなことをしないだろう。

「あー。あと、口うるさくてすまないが、くれぐれも子どもを作る行為だけは避けるんだよ。とりかえしのつかないことになったら大変だからね」

 ローゼは頬を赤らめた。家を出る前に、乳母や侍女から、そして父からも口を酸っぱくして注意されていたことだ。

(子どもを作る行為、つまり閨事――)

 それに関する知識は、一応あった。乳母から教わったのだ。いわく、裸になって男性と抱き合い、下半身を交わらせる行為だと。頭の中でその様子を想像してみたのだが、いまいちピンとこない。

(下半身とは、どの部分のことかしら)

 いや、そんなことよりも。

(裸になる、だなんて)

 男性に肌を見せるなんて、考えられない。なによりも恥ずかしいことだ。けれど世の中の夫婦は皆この行為をして子をもうけるという。だからいつかローゼも、裸で男性と抱き合わなければならない時がくるのだ。

 頬を赤くしてうつむいていると、苦笑交じりのため息が聞こえてきた。ローゼのさらさらした髪を、レイの長い指が梳いていく。

「男手で育てたからか、おまえには多分に無知なところがある。リンドヴァルムはそういう行為を一切しないと約束してくれたが、心配だよ」

「あ、あのね。でも、そのことに関しては大丈夫なの」

 ローゼは顔を上げた。

「出掛け前に、お父様がわたしの下着を――」

「レイ殿」

 ふいに、ヴァルの声が割り込んた。びっくりして振り向くと、彼はなぜか、緊張した眼差しでレイを見つめていた。近づいてきて、そっとローゼの肩を引き寄せる。レイの指に絡まっていた髪が、するりと解(ほど)け落ちた。

「ローゼと話がしたい。お許し願えるだろうか」

「ああ、姪を独り占めして申し訳ない。どうぞ」

 レイは微笑して身を引いた。そのまま船室へ戻っていくのをローゼが見送っていると、ふいに頬を両手で包まれる。温かい、大きな手。ローゼの鼓動が小さく跳ねた。