08 二度目のキス

 ヴァルは正面からローゼを見下ろして、わずかに眉を寄せた。

「体が冷えているな」

「そ、そうでしょうか」

「春とはいえ、海上は風が強い。中に入ろう」

 ヴァルに促されるまま船室に入る。ローゼとヴァルの部屋は分かれていたが、彼はなんの躊躇いもなく自分の船室へローゼを通した。

 ヴァルの部屋は二階にあり、ローゼや父たちの個室より一回り小さかった。竜王である彼が、ローゼたちによりよい部屋をあてがってくれたことが分かる。

(わたしのことだけでなく、お父様や叔父様のことも丁重に扱ってくださっているのだわ)

 ヴァルに勧められて、ローゼはソファに腰掛けた。ヴァルはサイドボードの上で、温かい紅茶を淹れてくれている。

 彼の赤銅色の髪や、男らしい首すじ、広い背中を、ローゼはぼうっと見つめていた。ヴァルが動くたびに、首飾りやアンクレットがしゃらんと鳴る。
 ヴァルがトレイの上にティーカップを二つのせて戻ってきた。テーブルに置いてソファに座る。

 一連の所作はやや無造作で、人間の紳士――たとえばレイのように、優雅であるとは言いがたい。けれど無駄のないシンプルな動きを、ローゼは綺麗だと思った。

(それに、ヴァル様はとても無口だわ)

 お礼を言って、紅茶を口に含む。ふくよかな香りを楽しみつつヴァルをそっと覗うと、すぐに目が合った。彼は嬉しそうに微笑みを浮かべる。

(ヴァル様は確か、三十六歳になられると。レイ叔父様と同い年だわ)

 けれどレイとヴァルは、醸し出す雰囲気がまったく違う。竜は人の姿を取れるが、人ではない。人間の尺度で比べることはできないと思うけれど。

(世の三十代の男性を、わたしはレイ叔父様しか知らないから)

 失礼だとは思いつつ、ついレイと比べてしまうのだが、レイの世慣れた感じをヴァルからは受けないのである。どこか純粋なのだ。

 かといって頼りなげというわけではない。広い肩と隆々とした胸筋は野性的で、透明感のある色合いの双眸は理知的だ。世界最高峰の種(しゅ)、竜族の王にふさわしく、強靱で美しいとローゼは思う。

「どうした、じっと見て」

 ヴァルが優しく言った。ローゼの頬が熱くなる。

「い、いえ。なんでもありません」

「そうか。けれど俺は、ずっとおまえを見ていたい」

 彼の大きな手がまた、リーゼの頬に触れた。どうしてそんなに愛おしそうに見るのだろう。そんな目をしないでほしい、鼓動がどんどん早くなってしまう。
 ローゼはたまらなくなって、目をそらした。

「あの。人間の男性は竜大陸に宿泊できないと聞きましたが、本当ですか」

 ヴァルは不意を突かれたような顔になったが、すぐに答えてくれた。

「ああ、原則的にはそうだな。けれど安心してくれ。おまえの侍女たちなら竜大陸へ連れてきて構わない」

「なぜ男性は宿泊してはならないのです?」

 ヴァルは沈黙したのち、かすかに笑った。

「竜は竜の番いを奪(と)らないが、人間の男は平気な顔をして奪っていく」

 ローゼは目を見開いた。

「心を奪っていく場合は、まだマシなケースだ。人間の中には『竜の花嫁を自分のものにした』ということをトロフィーのように考える者がいる。そういう男は、番いの花を乱暴に踏みつけ、散らすことをする」

「それは……ええと」

 戸惑うローゼに、ヴァルは苦笑した。人差し指で、ふにっとローゼの唇を押さえる。

「たとえば、嫌がるおまえをおさえつけて無理やり口付ける。そういう行為だ」

 その意味をローゼは数秒考えて、顔色を変えた。彼の指が唇から離れていく。

「人間の男は力弱いが、言葉巧みに番いを拐(かどわ)かし――もしくは竜の目をかいくぐって力ずくで番いを奪う。過去に何度か例があり、それ以降、人間の男を竜は警戒するようになった」

「そのようなことが、あったなんて」

 ローゼは言葉を失った。人間の男の所行に、多大なショックを受けた。

「おまえはまだ正式に俺の花嫁になったわけではない。それは分かっている。けれどローゼ、おまえが他の男に奪われることを想像するだけで、身が引き千切れそうになる」

 切なく眉を歪めて、ヴァルは言う。

「おまえが心から惹かれる人間が現れたのなら、まだ……いや、それも苦しいが……それよりもおまえが望まないことで傷つけられでもしたら」

 碧玉の双眸が、昏く燃えるようだった。けれどヴァルは、それを押し込めるように目を閉ざした。

「ローゼ」

 開いたのち、気遣うように、ローゼの頬に片手を添える。

「おまえを怖がらせるような話をしてしまった。そのようなことには決してさせないから、安心してくれ」

「……はい」

「すまないローゼ。怯えさせてしまった……」

 頬に添えられていた手が、後ろ頭に移る。そのまま広い胸に抱き寄せられた。

 このままだと、ヴァルの肌の感触を覚えてしまいそうだ。頬に押し当てられる胸板を感じながら、ローゼはそう思った。同時に心臓が早鐘を打ち始める。

「愛してる、ローゼ」

 ヴァルと初めて出会ったのは今日の午前中のことだ。この数時間で、ローゼは何度この言葉を贈られただろう。視界を横切るように回された腕には、亜麻布が巻かれている。ローゼの胸がきゅっと締め付けられた。

 ローゼ、と掠れた声で呼ばれて、顔を上げる。すると、ヴァルが少しだけ顔を傾けるようにしてローゼと唇を重ねた。