17 優しい崩壊

 翌朝、ぼんやりした頭で着替えを終えて食堂に行くと、すでにヴァルは起きていて、いつもどおりの笑顔で「おはよう」と言ってくれた。だからローゼも、いつもどおりに返すことができた。

 いつものように近所の番いの屋敷に遊びにいって、昼食を一緒にとり、お茶菓子を作り、そうしてのんびり過ごして、ローゼはすっかり元気を取り戻すことができた。

(竜大陸の人たちは、とても優しくて気持ちがよくて、わたしも前向きな気持ちになれるわ)

 その夜。
 燭台の灯る寝室で、長椅子に並んで腰掛けながら、ローゼはヴァルとはちみついりのホットミルクを飲んでいた。優しい甘さはローゼの心を撫でるように穏やかにしてくれる。けれどやはり胸の奥の痛みを感じて、ローゼはそっと眉を寄せた。

「このホットミルクは、亡きお母上が大好きだったと言っていたな」

 ふいにヴァルが、そんなことを言った。隣の彼を振り仰ぐと、ヴァルは気遣わしげな目でローゼを見下ろしていた。

「だが、これを飲むときのおまえはいつも辛そうな顔をしている。だからいつも疑問に思っていた。本当は、ホットミルクを飲みたくないのではないかと」

 ローゼは目を見開いた。とっさに首を横に振る。

「そんなことないです。これはお母様がお好きだった飲み物で、だからわたしもこれが大好きで、飲むと気持ちが落ち着いて」

 しかし、心の中では違うことを思っていた。 チクチクした胸の痛みをヴァルに見破られたのだ。ローゼは驚くと同時に焦りを覚える。

「だから、辛そうに飲んでいるなんて、ヴァル様の勘違いです」

「母親が好きだったからといって、子どもも好きになるとは限らないだろう。味覚は人それぞれだ。あまり好きではないのなら、飲まなくてもいい」

「違うわ、どうしてそんなことを言うの?」

 ローゼの胸がずきずきと痛んだ。ヴァルの言葉が鋭く突き刺さっているみたいだった。

「わたしはホットミルクが大好きなの。だからそんなこと、二度と言わないでください」

 どうしてここまでムキになってしまうのか、自分でも理由が分からない。一方でヴァルは、心配を深めたようにローゼを見つめている。その視線も、嫌だった。

「どうしてそんな目で見るのですか。わたし、なにかおかしいことを言っていますか」

「ローゼ、ミルクが零れるぞ。やけどをする」

 ヴァルがマグカップを引き取って、自分の分と一緒にトレイに戻した。両方とも、半分ほどしか減っていない。
 
 大好きなホットミルクを手もとから奪われた。それなのに、なぜかローゼはほっと安堵をした。けれどその理由を考えてはいけないと直感したから、フタをした。

「ローゼ。俺は最初におまえの屋敷を訪ねた時から感じていたことがある」

 まっすぐにローゼと視線を合わせながら、ヴァルが言う。ローゼはそれを聞きたくないと思ったから、目をラグの上に落とした。
 それでもヴァルは、真摯な声音で語り続ける。

「おまえは最初、竜の花嫁になるつもりはなかった。婿を取って、ずっとシェイファー家に残ることを希望していた。しかも、鱗が怖くて見ることもできない。それなのに、なぜ竜大陸に来ることを決断したのだろうと、ずっと疑問に思っていた」

 確かにそうだ。自分でも不可解だと思う。いくらヴァルが素敵な若者だろうと、ローゼの望む条件とあまりにも違いすぎている。

 それなのに、初対面から口づけを受け入れてしまった。驚いて言葉も出なかったというのは確かだが、その後船の中で素肌を触れ合わせた理由を説明できない。

(好きになりかけていたから)

 この人を好きになる、という予感があったから?
 本当に、それだけ?

「なぜ竜大陸までついてきてくれたのか。俺の押しが強かったことは自覚している。けれどそれだけでは、大切な父親を残し、鱗が怖いのを押し殺してまでついてくる理由に足りない。ローゼを迎えてからこの二週間、おまえはよく笑うようになった。シェイファー家にいたころは、ろくに外出もしなかったという話だったが、今は番いの友人を作り、馬に乗ったり料理教室やお茶会を楽しんでいる。とても生き生きと、外の世界を楽しんでいるように見えるんだ」

「それは……、外出を禁止されていないから」

「禁止していたの父君(ちちぎみ)だろう? 少し意地悪な質問をしよう。母君は、父君に外出を禁止されていたか?」

 ローゼは眉をひそめた。落としていた視線を上げて、ヴァルを見上げる。

「いいえ。そんなことはなかったと思います。ああでも、お母様は昔から体が弱くいらっしゃったらしいの。だからあまり外に出なかったって。家の中で刺繍や読書をするのがご趣味だったらしいわ」

「外出を好まず、寝る前に飲むホットミルクが好きだった。ではその他に、ローゼ。おまえと母君の共通点は?」

「え……?」

 ヴァルはローゼの目尻を親指でそっと撫でた。言い聞かせるような、優しい声音で告げる。

「もしかしたら母君は、蛇が苦手だったのではないか?」

 ローゼは愕然と、目を見開いた。
 直後、父親の慟哭が脳内に大きく弾けた。

 ああローゼ! 
 神よ、どうか娘をお救いください!
 イリーネ、頼むイリーネ。ローゼを連れて行かないでくれ。ローゼを連れて行くなら、その代わりに私を殺してくれ。
 なぜこんなことに。なぜ毒蛇なんかに。
 ああ、イリーネなら。
 イリーネなら、こんなことにはならなかったのに。
 蛇嫌いのイリーネなら、決して藪の中になど入らなかったのに!

「……!」

 ローゼはとっさに自分の両耳を塞いだ。足もとから震えが立ち昇る。

(お母様なら)

(蛇が嫌いなお母様なら、あんなことにならなかった)

 わたしがお母様ではないから、お父様が泣いている。
 だから蛇は、怖がらなくちゃいけない。
 ホットミルクを好きでいなきゃいけない。
 外出もせず、恋人も友人も作らず、お父様と一緒にこの屋敷でずっと暮らさなければならない。
 お母様が生きていたら、きっとそうするだろうから。

 あの時の父親の言葉を、今の今まで忘れていた。どうして忘れていたのだろう、分からない。
 あの言葉の直後、ハンネスを殴りつけて怒鳴ったのはレイだった。

『いい加減にしろ! 兄さんはローゼをなんだと思っている!』

 ローゼを、なんだと。

「わたし、は」

 ローゼは首を振る。

「わたしは、お母様の」

「ローゼ」

 温かいてのひらが両肩に置かれる。亜麻布が巻かれたそれに、縋りつきたかった。でも全身が強張っているせいで、できなかった。

「ローゼ。俺はおまえの幸せを一番に考えたい。おまえがどうしたら、心を楽にして毎日を楽しく過ごせるのかを」

 それは、何度もヴァルがローゼに伝えてきたことだった。

「俺のそばに幸せがないというのならあきらめよう。シェイファー家にいることが本当の安らぎなら、おまえをその場所へ送り届けよう。けれどそうじゃないのなら、おまえを手放すことはできない。わざわざおまえを苦しめる場所へ帰すことは、絶対にしない」

 愛していると、ヴァルは言ってくれたのだ。
 |ローゼだけを《・・・・・・》まっすぐに見つめて、言ってくれた。

 その言葉は、父からもたくさん与えられてきたものだった。幼い頃から何度も、ハンネスはローゼを抱き上げ、愛しげに頬ずりをしながら伝えた。

 ローゼ、愛しているよ。大切な私の娘。
 愛しいイリーネの、忘れ形見。

「父君のお気持ちは痛いほど分かる。妻に先立たれるのは、本当に苦しいことだ。けれど俺は、今ここにいるローゼを守りたい。ローゼが苦しいなら、その原因を取り除いてやりたい」

 優しいヴァルの声に、ローゼは震えながら首を振った。

「いいの、いいんです、もう放っておいてください」

 声が、震えてしまう。
 これ以上踏み込まれたくない。
 踏み込まれたら、見えてしまう。
 ローゼの視界にも、映ってしまう。

(お父様が愛しているのは、お母様にそっくりのわたし)

 亡き妻のドレスを着せて。
 亡き妻のように、外出をしないよう言い聞かせて。
 亡き妻のように、眠る前にホットミルクを飲むよう勧めて。
 そして亡き妻にように、ずっと自分のかたわらに置き続けて。

 ローゼは、イリーネではないのに。

「ちがう、ちがうの、いや……」

 視界が霞んだ。涙が零れて、それをヴァルの指に拭われる。
 深く優しい、碧玉の瞳。

「わたし、お父様を嫌いになりたくない……ちがうの、そうじゃない。お父様は夢を見ているだけなの」

 最愛の妻が、まだ手もとに在(あ)るという夢を。
 ローゼを通して、そんな儚い夢を、見続けている。

「お願いヴァル様。わたしからお父様を、奪わないで」

 娘をなによりも深く愛してくれる父を。いつもローゼを心配してくれて、いつでも優しく手を差しのべてくれる、大好きな父を。
 ローゼは失いたくないのだ。

「ああ、分かっている。分かっているよ、ローゼ。おまえは父君を愛してる。そして父君の愛情も、ちゃんとおまえの中にある。それはかけがえのない、決してなくならないものだ」

 ヴァルは、とめどなくこぼれ落ちるローゼの涙を何度も拭って、彼女の顔を覗き込むようにした。

「けれど、だから竜大陸へ来たのだろう? 初めて会ったばかりの俺のところへ来たんだろう? 俺がおまえを愛していると言ったから。あの家から外へ連れていくと言ったから」

 父の語る『愛している』は、違った。
 彼はいつもローゼの向こう側に、もう一人の姿を見ていた。

 けれどヴァルは、ローゼだけを初めからまっすぐに見つめてくれたから。
 それがローゼの心を大きく揺らしたのだ。

 ヴァルの両腕がローゼの背中に降りて、そのまま優しく抱き寄せた。涙で湿った頬が、彼の胸に擦れる。

「俺はそれに気付いたとき、たまらなくなった。ローゼ、おまえは本当にがんばっていたな。親思いのいい子だ。父親を思いやれる、優しい子だ」

 背中を優しくさするてのひらが、どうしようもなく温かい。

「父君は妻を亡くした。けれどおまえも、母を亡くした。ずっと何年も、寂しかっただろう」

 ――母親を。
 自分は亡くしていたのだということに、この時初めて、本当の意味でローゼは気付いた。

 寂しかったのだろうか、自分は。
 寂しかったのは、父だけではなかったのだろうか。

「叶うならば、おまえの寂しさをすべて埋めたい。なんの悲しみもなく、ローゼがずっと、笑っていられるように。そのためなら俺は、なんでもしよう。なんにでもなろう」

 鼓膜を震わせる低音に、安心感が打ち寄せてくる。体の力が抜けて、けれど目の奥が熱くて、ローゼは喉を震わせた。

「……ヴァル様」

 両腕を伸ばして、彼の首に縋る。

「ずっと、そばにいてください。どこにもいかないでください。ずっとわたしを、愛してください」

 子どもみたいなわがままを、涙を含んだ願い事を、ヴァルは優しく抱き止めてくれた。

「ああ。ずっとおまえとともにいよう」

 ヴァルの腕に力がこもった。ローゼは彼をぎゅっと抱きしめて、声もなく涙を零した。

「……二晩続けて、泣かせてしまったな」

「ヴァル様が、優しいからです」

「優しいだけでは芸がない」

 ローゼの髪を梳く大きな手。それを感じながら、ローゼは笑った。

「好きです。大好き」

「――」

 ヴァルが息を詰めた気配がした。それからさらに強く抱きしめられる。

「ああ、俺も。おまえが好きだよ。なによりも愛している」