22 竜王様の恋情の裏側は

 両腕に布を巻くようになってから、二週間が経った。鱗に布が擦れるのを不快に感じていたはずなのに、この亜麻布だけは愛しかった。彼女と出会えた証だから。
 けれどもう、この布もいらなくなる。淋しい気もしたが、それよりも喜びの方が勝っていた。

 二週間前、花嫁捜しの会場へ赴いた時、ヴァルはほとんど期待していなかった。

 十五で独り立ちして以来二十一年間、ただ一人だけをずっと探していた。世界のすみずみまで回ったが、結局見つけることができなかった。
 そして今回も、会場に入った瞬間から、ここに己の番いがいないということは匂いで分かった。

 ヴァルは雑多な匂いと声に囲まれながら、噴水のフチに腰掛けていた。アルコールのグラスを受け取ってはいたが、ほとんど減らなかった。

 番いを見つけた仲間に拍手を送る。この光景も、もう何度目だろう。一生見つけられない竜もいるから、自分もそうなのかもしれない。最近はあきらめの境地に片足をつっこんでいる。

(最初からいなかったと思えば、いっそ楽だな)

 華やかに着飾る女たちを、ヴァルは横目で流し見る。

(けれどどうしても、喉が渇く)

 体の奥底にずっと、渇(かつ)えにも似た衝動がある。探さなければならない、そして見つけなければならない。これが竜の本性(ほんせい)なのだから、もうしかたがないのだ。

 ヴァルはため息をつきながら、視線を噴水へ移した。計算され尽くした落水は見事だが、人間の手による造形物はいつもどこか窮屈だ。

 その矢先だった。ヴァルの鼻先に、甘い香りが漂ったのは。

 ゆっくりだが、こちらへ近づいてくる。ヴァルは視線を向けた。門の方だ。しかし匂いは躊躇するように立ち止まり、しばらくののち、遠ざかろうとする。

 直後、ヴァルの広い背中から、漆黒の翼が広がった。皆が驚きの声を上げてあとすさる。ヴァルの翼は竜族一大きく、美しい。立ち上がり、翼を一度はためかせて彫像の上に乗り上げた。その凛々しい姿に、娘たちからうっとりしたため息が漏れる。

 しかしヴァルには周囲の反応を追う余裕などなかった。匂いが立ち止まる気配がする。門のところで、驚いたような顔をしてこちらを見上げている娘。美しい金髪と、それをわずかに濃くしたような、琥珀色の瞳の。
 ――見つけた。

 そこから先は、ほとんど意識外の行動だった。ヴァルは攫うように娘を腕の中に抱き上げた。地上で男がなにかを叫んだ。娘の背に手を添えていた男だ。面差しは彼女とどことなく似ている。家族か、親類か。いや、この男の目はもっと――。

 ヴァルは反射的に男を睨み下ろしていた。それに怯えたのは、男ではなく彼女のようだった。腕の中の小さな体が強ばったのを感じ、ヴァルはハッとして彼女に視線を移した。

 琥珀色の瞳が潤みを帯び、ヴァルを見つめていた。細い腰に回した腕に、やわらかさが伝わる。甘やかな匂いが立ち上って、ヴァルは眉を歪めた。

(これが番いか)

 愛しいと感じた。かわいい。愛しい。もう離せないとも。それは暴力的な嵐にも似た衝動だった。だからこそ、彼女と離れる時は自分の身が半分もぎとられて永遠にそのままになるのだろう。

 ローゼと会話を重ねて、もしかしたら駄目かもしれないと思った。二十一年間彼女を見つけられなかった原因は、彼女が外界を避けていたからだ。竜の鱗が苦手だと言うから、竜たちが集まるパーティーからもずっと遠ざかっていたのだろう。ローゼに生家から出る意志はないように見えた。

 それがローゼの幸せならしかたがない。彼女を無理やり自分のものにするという選択肢は、ヴァルにはなかった。彼女の愛らしい瞳が、悲しみに染まるのを見たくなかった。守りたいのはローゼの幸せだ。ヴァルは身を引き裂かれるような激痛を必死で堪えながら、覚悟を決めようとしていた。

 けれど、ひとつ気付いたことがある。生家に囲われるローゼは、決して幸せな暮らしを送っているわけではないのだと。

 亡き妻の幻影を娘に見る父親は、過剰に娘を溺愛し、行動の端々に制限を掛けているようだった。ローゼはそれを甘受しながら、不自由さと心の痛みを感じているように思えた。

 ――それならば、と。
 昏(くら)い歓びを感じなかったといえば嘘になる。その時ヴァルは、彼女の幸せを壊してまで連れ去ることはしないと語る奥底で、自分がいったい何を考えていたのかを思い知った。

 彼女は俺の番いだ。手放す選択はありえない。

 どろどろとした熱い塊が腹の奥にあった。それとは逆に、脳は冷えて冴え渡り、どうしたら彼女を手もとに攫えるかを考え尽くしていた。

 やり方はいくらでもある。汚い方法だってもちろんある。
 けれど様々な思惑は、ローゼを前にすると一瞬で霧散してしまう。かわいいローゼの笑顔が見たい。ヴァルはその思いに突き動かされるように、彼女が幸せになれるよう、悲しむことのないように、心を砕き続けた。

 抱き寄せればふっくらした頬を染め、純度百パーセントの本心を囁けば琥珀色の瞳を潤ませる。ローゼは宝石だった。なにものにも代えがたい、やわらかく光を纏う唯一だった。

 だからこそ、ローゼの裏に亡き妻の影を追い続けるクラッセン男爵に対して、怒りを抱いたこともある。けれど妻に先立たれるという現実に蝕まれた彼を、ヴァルは真に怒れなかった。男爵もまた、自身の現実と必死に戦っているのだろう。

 一方でレイ=シェイファーは、ローゼが得ることのできなかった父性や母性、その他のすべてのものになろうとしているように見受けられた。母、父、兄、友人、そして恋人。ローゼが迷ったり悲しんだりした時、レイは必ず彼女の手を引いて、ローゼの本心を聞き出し、たくさんの言葉を掛けていた。

 レイは船上でローゼに、ヴァルに対する注意を喚起していたこともある。竜王はローゼを返す気がないのではないかと。優れた聴覚でヴァルがそれを耳にした時、ヴァルの口の端に笑みが零れた。
 ――よく分かっている。

 妖精のように可憐なローゼが、これまで誰の手垢もつかず過ごしていられたのは、恐らくこの叔父の功績だろう。父親が注意深く囲っていたとはいえ、愛らしい花が咲きこぼれ始めれば、周囲が放っておかないのだから。

 たとえばローゼが泣いて嫌がったら――ヴァルのそばでは幸せになれないと訴えてきたら、ヴァルは手を離したかもしれない。番いの嘆きは、竜にとって暴風のような衝撃だ。息もつけないほどの苦しさに覆われて、彼女の笑顔を取り戻すならなんでもすると必死になる。だから竜は、番いを手放すこともする。それはヴァルも例外ではない。

(だから絶対にこの手で幸せにする)

 時機を見て、この上なく慎重に丁寧に、彼女の身に巻き付いた呪縛を解いていった。鎖のように絡みついたそれは、ほとんどが父親からもたらされたものだった。

 ぎちぎちに締められた鎖を解く時、きまってローゼは苦痛に呻いて涙を零した。ヴァルは彼女を抱きしめて、話を聞いて、涙を拭うことしかできなかった。それがとてつもなくつらかった。痛々しい鎖の後に口づけを落とし、もうこれ以上ローゼが傷つけられないよう、胸の奥に固く抱き込んだ。

 そのローゼは今、やわらかい春の朝陽の中で、ぐっすりと眠っている。昨夜の情事を残した目尻はうっすらと赤らみ、唇はほんの少しだけ開いて、その奥に小さな舌が見えていた。ブランケットは中途半端に腹部に絡まっていて、乳房は零れ出ている。淡雪のように白くふっくらしたその肌には、鬱血の痕が散っている。
 ヴァルはそれを指で辿った。ぐっすり眠っているローゼは、少しだけ眉を寄せ、また穏やかな寝息を立てた。

 昨夜、初めての行為に翻弄されたローゼは、気絶するように眠りに落ちた。彼女にそれ以上の無理を強いることもできず、ヴァルはそのままローゼを抱きしめて朝を待った。眠ることはできなかった。

 愛しい彼女と初めて体を繋げた興奮が、まだ体内に燻っている。ローゼの体内は甘く心地よく、これまで感じたことのないような快楽をヴァルに与えた。彼女に触れるごとに愛しさが増し、声を聞くたびに本能のまま犯し尽くしたい衝動にかられた。

 子を作るような行為はしないとクラッセン男爵と約束したが、昨夜の情事はギリギリのグレーゾーンだ。一度吐精しただけでは、番いが妊娠することはない。けれど男爵の危惧は行為そのものを含んでいるだろう。

 一発や二発殴られてもしかたがない。妻の影を娘に見ていたとはいえ、彼が大切に育んできた花を手折ったのだから。
 そしてこれからも、彼のもとへ返さず、自身の腕の中で愛で続けるのだから。

「ローゼ」

 名を舌に乗せるだけで、ヴァルの体内に甘やかさが広がる。彼女の首の下に敷いた腕はそのままに、もう片方の腕で細い腰を引き寄せた。
 彼女は昨夜、鱗を怯えなかった。ヴァルはその瞬間感動し、そしてひどく欲情した。

 花びらのような唇に、自身のそれを重ねる。温かいやわらかさに、腹の奥の熾火が煽られる。
 あれだけでは足りない。昨夜の分だけでは、まだ飢えを満たせない。

 自分の獣性を、ヴァルは知った。このまま彼女を組み敷いて無理やり起こし、昨夜の白濁が残っているであろう潤った膣内に、自身の欲望をねじ込みたい。このやわらかい肌に、口づけの痕だけでなく、噛み痕も残したい。自分が彼女に刻み込めるすべてを与えたかった。

 理性の枠外で、徐々に口づけが深くなっていく。ふっくらした唇をなぞるだけだった彼の舌は、ローゼの温かい口腔内に入り込み、彼女の舌を愛撫し始めた。ぴくんと彼女の肩が揺れて、唇の端からくぐもった声が零れ落ちる。

 それだけで、信じられないほど欲情した。やわらかな弧を描くローゼの乳房に手を這わせようとして、しかしヴァルは、彼女の腹部に巻かれたブランケットを握り込む。

 ――これまでは、ちゃんと我慢できていたはずだ。
 昨夜の情事に疲れ果てて眠り込むローゼを、無理やり起こして貪ろうとするなど論外だ。

 ヴァルは眉を歪めて口づけを解いた。熱く凝る欲望を、意志の力で抑え込む。ローゼは温もりが離れたことに気付いたのか小さく鼻を鳴らすようにして、また深い眠りに入っていく。

 まだ十六歳。あどけない少女の愛らしさと、初々しい色香が入り交じった面差しをヴァルは見つめる。

 しばらくそうしていると、こつこつと何かが窓を叩く音がした。視線を移すと、ガラスの向こう側に、深緑色の羽をした小鳥が嘴を打ち鳴らしていた。目が合うと、小鳥はちゅんと鳴いて、青空へと飛び立っていった。

 今は何時頃だろう――。ヴァルは再び、穏やかな寝顔へ目を移す。

 身を焦がすような恋情も、彼女だけに向く飢えも渇えも、それらが生まれるのは彼女がここにいるからだ。二人で過ごす穏やかな時間を過ごせるのも、空が晴れ渡るような笑顔が見られるのも、すべてローゼがここにいるからだ。
 ヴァルにとって、それは奇跡だった。

 絶対に失えない。終(つい)の時が訪れるまで、あらゆる悲しみからローゼを護ろう。ヴァルは彼女を胸の奥へ抱きしめた。