01 貴公子の失恋の現場(?)に出くわしました

第一章

 逃げ込んだ中庭で、このような事態と遭遇してしまうなんて、シュゼットは予想さえしていなかった。

 ここは、絢爛たる舞踏会がひらかれている大ホールの外だ。夜闇に沈む中庭の、茂みを背にしたベンチにシュゼットは隠れていた。

 社交界デビューをすませたばかりのレディであるシュゼットがこのような場所になぜこそこそかくれているかというと、男性と会話をしたくないからである。

(舞踏会は、別名『お見合いの場』だもん。冗談じゃないよ。男のひととお見合いなんて絶対にしたくない)

 付添人である叔母の監視をふりきって、シュゼットは大ホールの中庭まで逃げてきた。
 男のひとと関わったらろくなことにならない。それは、過去(・・)の経験から得たもっとも重要な教訓である。

 男性と関わる。正しくは、男性と恋仲になる。
 これが、シュゼットにとってもっとも避けたい事態であった。

 恋愛から全速力で生涯逃げつづける決意を固めているシュゼットである。
 だからこそ、なぜこのような場面に遭遇してしまうのかと自分の運命を呪わざるをえない。

「ということは、こちらの気持ちに、きみは応えられないということだね」

 茂みの向こう側から聞こえてくるのは、春の夜風にそよぐような、涼しげな声だった。
 おそらくはまだ年若い青年に受け答えるのは、おなじく若い少女の声である。

「ええ、そうなの。ごめんなさい……」

 青年とはちがって、少女の声には申し訳ないという気持ちがにじんでいる。

(ど――どうしよう)

 白い塗料が塗られた優美なベンチの上で、シュゼットは動揺しきっていた。ドレスの内側にいやな汗をかいてしまう。

「ごめんなさい。好きじゃないわけではないの」

 少女の声は、か細くたおやかだった。
 このふたりは、シュゼットの存在にまったく気づいていないようだ。

(いま、男のひとが女のひとに振られてる真っ最中……なんだよね?)

 恋愛ごとが苦手なシュゼットは、たいして強くもないのにお酒をたくさん呑んでいた。その上で「酔ってしまったから夜風にあたってきます」と言い訳をし、ひとりきりでこの庭へ逃げてきた。
 それなのにまさか、他人の失恋現場に居あわせてしまうなんて。

 シュゼットは、少女の次の言葉にいよいよ硬直した。

「わたしにはもう、好きなひとがいるの」

「うん」

 青年は、かすかに笑ったようだった。

「知っていたよ。だから気にしないで」

「でも――」

「ただ、伝えておこうと思っただけなんだ」

 少女の言葉をさえぎるように、青年はやわらかく言う。
 彼の声と言葉に、シュゼットの胸がずきりと痛んだ。

(ああ、もう、この感じ)

 これだから、恋愛はいやだ。
 深く傷ついて、死んでしまうかもしれないと思うくらい悲しくて、うずくまって泣き続けることしかできなくなる。喉が痛くなって、目の奥がどんどん重く熱くなって、それでも悲しみが消えてくれないから、涙があふれ続けてしまうのだ。

「きみが彼をずっと見つめ続けていることを、俺は知っているよ」

 しかも、もっともつらい失恋のパターンではないか。刺されるような胸の痛みを感じて、シュゼットはてのひらでそこを押さえた。
 自分の過去を――正確に表現すれば『前世』を、いやでも思いだしてしまう。

(相手にはすでに想うひとがいて、それを知りながらも、ほんの少しの望みにかけて告白して、結局振られるっていう、いちばんつらい失恋のパターン――)

 だからきっとこの青年も、いまこのときに、ひどく傷ついていることだろう。
 慣れないアルコールの影響もあって、シュゼットの瞳には涙さえにじんできた。
 名も知らないこの青年と自分を、重ねあわせてしまう。

「わたしの気持ちに、あなたは気づいていたの……?! だったらどうしてこのようなことを――」

 少女はがく然としたようだった。その後(ご)、気まずげに沈黙してしまう。
 茂みの裏側で、シュゼットはくちびるを噛んだ。

(そんなふうに言ったらだめ。気まずそうに黙り込むのはもっとだめだよ)

 彼女の反応は、彼の心をいっそう傷つけるものだ。
 彼は今後、いつもどおりの会話を彼女とすることができなくなるかもしれない。少なくともいまは、この場から無言で立ち去ってしまってもおかしくないとシュゼットは感じた。

 けれど、この予想ははずれた。
 これまでと変わりないおだやかな声で、青年は告げたのだ。

「うん、気づいていたよ。きみはとてもわかりやすいから」

 それはもしかしたら、彼が彼女をずっと見つめていたから気づけたのかもしれない。

「だから、きみの想いはもっともいいかたちで彼に伝わると信じているし、それに彼も応えてくれることを願ってる。ジーナ。きみの幸せを祈っているよ」

 少女の名を呼ぶ彼の声がとても優しくて、シュゼットは、驚くとともに胸がせつなくなった。
 彼女にも、彼の気持ちが伝わったのだろう。気まずげな雰囲気が溶け消えて、安堵したような声が聞こえてきた。

「ごめんなさい。ありがとう」

「さあ、そろそろホールに戻って。彼がきみをきっと待っているよ。俺は、時間をずらして戻るから」

「ええ。ではまたあとで」

 少女の立ち去る足音がして、彼女の気配が消えた。
 夜の庭に静けさが降りて、庭に配された大燭台の光が闇を薄めている。
 シュゼットは、茂みのあいだから青年をそっとうかがった。彼の横顔が見える。

(きれいなひと……)

 シュゼットより年上の、二十代前半だろうか。思わずため息がこぼれてしまいそうなくらい、整った顔立ちをした青年だった。

 すらっとした長身を上質なテイルコートで包み、燭台の光のなかでたたずむ姿は、まるで一枚の絵画のようだ。彼は、理知的な瞳をわずかにすがめるようにして大ホールの入り口を見つめている。

 彼女の行く先を、思っているのだろうか。
 シュゼットがせつなくなると、ふいに彼が、肩から力を抜くように小さく息をついた。そのとき、きれいな横顔にさみしげな微笑が乗る。

「そうか。あの子ももう、子どもじゃないんだな――」

 夜に染み込むような声で彼が言うものだから、シュゼットは、もうがまんできなくなってガバッと身を起こした。

「ちょっといいですか!」

「えっ?」

 青年は、びっくりしたような顔でこちらを見る。

「すみません突然! 少しお話しさせてもらってもいいですか!」

 酔いに加えて前世のことを深く思いだしてしまったせいで、言葉遣いが前世っぽくなってしまっている。が、この際かまうものかとシュゼットは思った。

「ちょっとだけお話させてもらってもいいですか、イケメンさん!」

「い、いけめん? まあ、うん……話をするのはいいけれど。きみはいったい――」

 彼は、シュゼットの勢いにのまれたようになったのちに、ふと、きれいなかたちをした両目を見開いた。

「ちょっと待った。不自然なくらい目線が高いけれど、きみ、いまベンチの上に立っていたりする?」

「そのとおりです、でも気にしないでください! いいですか、わたしがあなたにお伝えしたいことはですね」

「うん、わかった。話はちゃんと聞かせてもらうから、その前に降りようか」

 足早に茂みをまわり、彼は、シュゼットの目の前に来て手を差しだしてきた。スエードの手袋に包まれた、大きな手だ。

「おいで」

「えっ」

「足をすべらせたら危ないよ」

 少しだけ低い位置から、青年の瞳がこちらを見つめてくる。
 橙色の燭台に照らされているから判然としないが、その色は、澄んだ青色をしているように見えた。

「あ、あの」

「うん」

 彼の瞳とやわらかな声に、なぜか胸が早鐘を打ち始める。

「わたし、ひとりで降りられます」

「そう?」

「はい」

「でもきみ、お酒に酔っているよね」

「なっ、なんでわかるんですか」

「わかるよ」

 彼が、ふいに笑みを浮かべた。思わず引き込まれてしまうほど、きれいな笑みだった。

(ちょっと待って。これ、まずい――)

 青年は、片方の手袋を引き抜いて、素肌になった指先を伸ばしシュゼットの頬にふれた。

「頬がほんのり赤くなって、瞳が潤んでいるよ。くちびるも赤いし、声もどこか甘ったるくて――ああでも、声はこれが地なのかな」

 突然ふれられたことで、シュゼットはびくっと肩を縮めた。彼は、笑みを浮かべたまま指を下にすべらせて、シュゼットのくちびるにちょんとふれる。

「かわいい酔いかたをするね」

「かわ……?!」

 動揺して、思わず逃げ腰になったところで、シュゼットは足をもつれさせた。パンプスがつるんとすべってバランスを崩すと、彼の腕が腰にからんで力強く抱きよせられる。

「きゃあっ」

「はい、いい子」

 広い胸のなかに抱きとめられたのち、足先が芝生についた。そっと下ろされて、けれど彼の腕はシュゼットを支えるようにまわされたままだ。

「大丈夫?」

「だっ、大丈夫じゃないです、あっ、いえ、大丈夫です」

 答えつつも、足もとがふらついている。それを察しているのか、彼は腕をはなそうとしてくれない。男性の、がっしりした両腕のなかに囲われて、シュゼットの動悸が乱れてしまう。

「さっきよりも、顔が赤くなっているように見えるけれど?」

「こっ、これは、酔っているからです。抱きしめられてドキドキしたからじゃないです。だってわたしは、恋愛をしたくなくて――男性から声をかけられたくなくて、この庭へ逃げてきたんですから……!」

 混乱して、よけいなことまで口走っているような気がする。

「きみはおもしろい子だね」

 彼は、笑いをかみ殺すようにして言った。

「それで、俺に話したいことって?」

「あの――ええと」

 混乱したまま、シュゼットはなんとか言葉を絞りだす。

「女性から振られたって大丈夫です、ということを伝えたかったんです」

「振られた……?」

 驚いたように、青年は目を見開いた。
 手応えを感じて、シュゼットはやっと自分を取り戻した。前のめりになって、話を続ける。

「きっとほかにいいひとが現れますよ。あなたほどのイケメンならすぐに見つかります。だから大丈夫です! 元気だしていきましょう!」

「ああごめん。その、いけめんというのは?」

「顔がカッコいいという意味です!」

 勢い込んで答えると、彼は吹きだした。笑いながら言う。

「そうなんだ、どうもありがとう」

「それで、ええと、だから――」

 伝えたい言葉が糸のようにからまりあって、うまく出てこない。すると彼は、優しくほほ笑んで、シュゼットの頬を手の甲でするりとなでてきた。

「うん、聞いているよ。それで?」

 ふれた肌の感触に心が跳ねて、けれど、優しくうながしてくるまなざしに強(こわ)ばりがほどけた。
 だから、シュゼットは自然に笑みをこぼすことができた。

「あなたはとても、優しいひとだから」

「――」

 青年は、どうしてか息を飲んだようだった。シュゼットの頬に手をふれたまま、つぶやく。

「俺が優しい?」