それはまるで、プロポーズのようだった。
いや、実際にそうなのだろう。シュゼットの思考回路は、予想をはるかに超えた事態に停止してしまう。
彼は、甘い微笑を浮かべながらも、情熱的な光をはらむ瞳でシュゼットを見つめた。
「好きだよ、シュゼット」
「す、す、すきって、」
「きみが好きだ」
ひたむきな声で告げられて、シュゼットの頬がいっきに赤く染まる。
信じられない。
昨夜会ったばかりの男性から告白されるなんて、つい昨日まで考えもしなかったことだ。
しかも相手は、こんなにすてきな男性である。
(前世では振られ続けてばかりだったのに)
しかし、その直後、シュゼットの脳裏に昨夜のできごとが弾けた。
舞踏会場の庭、茂みの向こう側で交わされていた会話が思いだされてくる。
あのとき彼は、想い人に振られていた。
(このひとは、失恋したばかりのはず)
それを思いだした瞬間、シュゼットの気持ちは急速にしぼんでいった。
(ああ、なんだ。そういうことか)
昨夜寝たのも、こうして愛を告げるのも、すべて失恋の痛手を癒すためだろう。
はけ口にされただけだ。
前世となにも変わらない。
(やっぱり恋愛なんて大きらい)
シュゼットはくちびるを噛みしめる。彼から目をそらすようにうつむいていると、しばらくの沈黙ののち、彼が身動きをする気配がした。
「返事は急がないよ」
顔を上げると、彼はベッドから降りてガウンを着ているところだった。思いのほかたくましい胸筋に、シュゼットの顔がまた赤らんでしまう。
(ときめいちゃだめ。このひとは、ほかの女で失恋を癒したいだけなんだから)
よく考えなくても、この男性のしたことは最低だ。
「そのかわり、イエスという返事がもらえるまできみを口説き続けるけれど」
窓から降りそそぐ日差しに、彼の金髪がきらきらと輝いていた。
透きとおるような青い瞳も、聞き心地のいい涼やかな声も、彼を構成するすべてを魅力的に感じてしまう。見た目だけでなく、やわらかな言葉遣いや優しげなまなざしにもときめいてしまう。
(だめ。最低男を好きになったって、先が見えてるから絶対だめ!)
「とりあえず朝食にしないか? きみの好きなものを用意させるよ」
――逃げなくちゃ。
このままずるずると流されていったら、前世のような痛い目にあう。
シーツの上をじりじりとあとずさって、上掛けを体に巻きつけたままシュゼットはベッドから降りた。
(この部屋から――このひとのところから出て、家に帰らなくちゃ)
彼と視線が重なって、それから沈黙が落ちる。
自分の表情がひどくこわばっていることは自覚していた。
やがて彼は、ほほ笑んだ。
「その姿のままではだめだよ」
こちらの気持ちを見透かすように言いながら、扉のノブに手をかける。
「メイドにドレスを用意させるから、ここで待っていて。姉のドレスしかなくて申し訳ないけれど。着替えが終わったら、いつでも逃げるといい」
「わ、わたしは、あなたの告白は信じない。だっておかしいじゃない。わたしたちは、昨日会ったばかりなんだよ」
やっとのことで、それだけを主張する。しかし、彼はほほ笑みを消さなかった。
「いまはそれでもいいよ。俺は急がないと言ったろう?」
そう言われてしまうと、シュゼットはなにも返せなくなる。
「きみが振り向いてくれるのを待つのに、生涯をかけたっていい」
――なんてことを言うのだ、このひとは。
シュゼットが完全に言葉を失っていると、ふいに彼は、やわらかな面差しに淡い影をよぎらせた。
「ただ、ひとつだけ謝らせてほしい。きみが初めてだと気づかないまま抱いてしまった」
初めて。
その言葉に、シュゼットは息を飲んだ。
(そうだ。前世はともかく、今世のシュゼットはまだしたことがないんだった)
すっかり失念していた事実に、がく然とする。
彼は、静かな声で続けた。
「きみの反応のひとつひとつが、初めてだとは思えなかったんだ。きみには過去に想う相手がいたようだし、そのことに俺はみっともない嫉妬を抱(いだ)いたわけだけど――すまなかった。優しく抱いたつもりだけど、初めてのきみには荒々しく映ったかもしれない。怖い思いをさせていたら、ごめん」
(でも、昨夜のことはなんにも覚えてないし――)
そんなことより、シュゼットにとっては、すでに処女でなくなってしまったことのほうが衝撃だった。
この国は、性に奔放な女性は好まれない。
男女の行為は、夫となる男性としかしてはならないとされている。
「きみは昨夜、俺の名を何度も呼んでくれたけれど、きっと忘れているだろうからもう一度伝えておくよ。俺の名前はフィンだ。覚えておいて」
「フィン……」
反射的につぶやいた名は、確かに体に馴染んでいるような気がした。
「後日、手紙を送るよ。またきみに会いたい」
ぼう然と立ちつくすシュゼットを背に、彼は静かに部屋を出ていった。
ごていねいに彼は――フィンは、帰りの馬車も用意してくれていた。箱馬車に記された家紋を見て、シュゼットは腰を抜かしそうになった。
(これって、ブルーイット家の――侯爵家の家紋じゃない!)
数ある名家のなかでも、名門中の名門だ。
「フィン……フィン・ブルーイット……?!」
走りだした箱馬車のなかで、シュゼットは蒼白になった。
記憶が曖昧だが、たしかブルーイット家の長男がそのような名前だったのではないか。
「嘘でしょ……」
シュゼットの生家であるロア伯爵家は、名家とまでは呼べないまでも、他家と比べてさほど見劣りするような家ではない。
けれど、ブルーイット侯爵家となると話は別だ。何代か前の当主が王室の出で、さらに現当主の娘(おそらくフィンの姉だと思われる)は、王太子の婚約者のはずである。
(そんな大物が……社交界でもトップクラスの貴公子が、どうしてわたしにプロポーズしてくるの)
どう考えてもありえない。なにしろ、昨夜の出会いは淑女として失格だったはずだ。
前世の記憶と酔いに任せて、ベンチに立ち上がってベラベラとしゃべりまくり、話し終えてすっきりしたら酔いつぶれて寝てしまったのだ。その前提としてあるのが、茂みに逃げ込んで彼らの会話を盗み聞きしていたというはしたなさである。我ながらひどい。ひどすぎる。
(もしかして、フィンさまは相当なゲテモノ好き……?!)
ひとしきり混乱したあと、シュゼットは結局、いつもの考えにたどりつく。そうしてやっと落ち着きを取り戻すことができた。
つまり、自分はモテないし最終的にはかならず振られるという事実である。
心地よい馬車の振動に揺られながら、シュゼットは、肩から力を抜いて背もたれに身を預けた。
「そうだよね。そもそも、本気であんな男のひとがわたしにプロポーズしてくるわけないよね」
高貴な紳士による一夜のお遊びだろう。あの容姿にあの立ち居ふるまいだ。女性にモテないわけがない。
(傷心の場にたまたたま居あわせたのがわたしだったってことだよね。きっと、だれでもよかったんだ)
前世のパターンを今世でもたどっただけだ。このことはさっぱり忘れてしまおう。
けれどシュゼットは、フィンの指摘するとおり初めてだったのだ。
――すまなかった。
真摯な声で謝罪する彼を思いだして、シュゼットは眉をよせる。
彼の謝罪は、シュゼットの処女を奪ったことに対してのものではなかった。シュゼットが初めてだということに気づかず、心遣いができなかったかもしれないことに対して謝っていた。
(だからつまり――わたしを抱いたこと自体には、後悔はまったくないってことで)
それを堂々と主張するあたり、彼はくせ者だ。
女性に振られた直後にシュゼットを抱いて、その翌朝に、あんな甘い言葉をいくつも紡ぎ続けるなんて。
あんなふうに情熱的な瞳をして、好きだよとささやくなんて。
「ああ、もう! これ以上思いだしたらだめ!」
シュゼットは、首を振って頭の中からフィンを追いだし、それからため息をついた。
結局のところ、シュゼットに残されたのは、処女ではなくなったこの体ひとつだ。
(記憶が少しもないから、実感がわかないな)
でも、下肢の奥のしびれるような疼きは、確かに処女を散らしたあとの感覚だと思われた。
(だれとも結婚するつもりはなかったから……それでも、いいけれど)
この国が貞操観念に厳しくても、結婚しないのであればなんの問題もない。
そう思いながらも、シュゼットは、自分がうっすらと傷ついていることに気がついた。フィンの姉のドレスだという上質な生地を、無意識に握りこむ。
(優しいひとだと、思ったのにな)
フィンは、自分を振った少女を気遣っていた。彼女に罪悪感を持たせないよう、今後にしこりを残さないよう、最適な言葉と態度で彼女を見送っていた。
(わたしは、前世であんなふうに振る舞えなかった)
高校時代、思いきって告白したクラスメイトに、「ごめん、きみの友だちが好きなんだ」と断られたときのことだ。その後(ご)、友だちと彼は付きあい始めた。
当時はがんばって祝福しようと思ったが、頬が引き攣っていたことに気づかれていただろうし、しばらくその友だちの顔を見るたびに胸がしめつけられてつらかった。
ふたりの仲のよさに嫉妬して、友だちにそっけない態度をとってしまって自己嫌悪に陥ったこともある。
だからこそ、あのような気遣いを見せることのできるフィンはすごいひとだと思った。優しいひとだと思った。
そんな彼が、さみしさをにじませて想い人の背中を見送っている姿は、とてもせつなく感じられた。振られたときの気持ちは痛いほどわかるのだ。
(それなのに、こんなことをするなんて)
フィンが、昨夜どんなふうにこの体を抱いたのか想像もつかない。
たぶん、ひどくはされなかった。着替えのときに確かめたが、痕をつけられるようなことはされていなかったし、むりやり割りひらかれたような痛みもなかったからだ。
「でも、やっぱり……最低だよ」
箱馬車の壁に頭を預けて、シュゼットはぽつりとつぶやいた。