(このひとはものすごく油断ならない……!)
舞踏会場にて、手慣れたしぐさで優雅にエスコートをしてくるフィンを横目で見つつ、シュゼットは、その思いを新たにする。
よほど心をしっかり持たないと、あっというまに流されてしまうだろう。箱馬車内という密室で、キスを許してしまったことがいい例だ。
(キスを許したというか――わたし、ちゃんと抵抗したよね)
やめてという意思表示をしたはずだ。それなのに聞き入れられず、甘い言葉をささやかれて抱きしめられてしまった。
(しかも、さっきからほかの男性とぜんぜん踊らせてもらえないし)
舞踏会において、おなじパートナーと何度も踊ることはマナー違反にあたる。
しかしフィンは、シュゼットの腰に腕をまわしてがっちりとガードし、ほかの男性が誘いにきても、笑顔であしらってしまうのだ。
たとえば、こんな感じである。
「このように可憐なご令嬢をひとり占めするとは、ずるいなフィン。はじめまして、レディ。もしよろしければこの私と一曲お相手をしていただけませんか?」
「ああ、すまない。彼女は二度目の舞踏会でとても緊張しているんだ。そっとしておいてあげてくれないか」
「緊張なら、私がほぐして差し上げて」
「バルコニーへ涼みにいこう、シュゼット」
そうしてシュゼットを、男性の目から隠してしまう。
(な、なんなのいったい)
失恋の痛手を癒すためというには、がんばりすぎではないだろうか。これでは、会場にいるひとたちにフィンとシュゼットは恋人同士だと誤解されてしまう。
フィンと一曲踊って――ため息がでるほど完璧なリードだった――、シュゼットは、彼のすすめで壁際によった。
「シュゼットは、こういう場はあまり好きではない?」
フィンは、給仕からグラスを受けとってシュゼットに手わたしてくる。酔わせてまたお持ち帰りをするつもりなのかと訝(いぶか)ったが、グラスの中身はフレッシュジュースだった。
フィンはあくまでも紳士なのだ。あの一夜を除くかぎりは。
「好きではないというか、苦手なのです」
グラスを受けとりながら、シュゼットは答える。
きれいな音楽やダンスは好きだ。男性を紹介されたくないから、社交場から逃げまわっているだけなのである。
フィンは、ワインを口にふくみつつ笑みを浮かべた。
「そう。それはよかった」
「よくはないと思いますけれど」
「俺は、きみをこんなところに連れてきたくはなかったからね。手順を踏むために、父君に申し入れたというだけだよ。心の内では、いますぐにでもシュゼットを馬車に押し込みたい衝動と戦ってる」
さわやかな顔でとんでもないことをまた言いだした。シュゼットは動揺しつつ応戦する。
「でっ、でも、こういう場を得意とするほうがいいにきまっています。社交の場でスマートに振る舞える女性は、一目置かれますもの」
「これ以上目立ってどうする気なの、シュゼット?」
フィンは、笑みを深めながらシュゼットの髪に指をからめた。彼の体温が頬をかすめて、肌がざわめいてしまう。
「欲ばりだな。この場にいる独身男のほとんどが、きみをダンスに誘いたくてそわそわしているというのに」
「それは、フィンさまの勘ちがいです……!」
そうは言うものの、シュゼットもじつは、この舞踏会で男性の視線を――それが好意的なものかどうかは別として――もっとも集めているのは自分ではないだろうかと思って恐々としていた。
黒髪・黒瞳(こくとう)と白い肌のコントラストが、悪目立ちするのだ。ドレスを淡い色のシンプルなものしてしまったことも要因かもしれない。華美に着飾る貴婦人たちのなかで、シュゼットの静かな雰囲気はあきらかに浮いている。
(というか、わたしが目立ってるいちばんの理由はフィンさま、あなたですから……!)
社交界一の貴公子に、がっちりと囲われながらエスコートされているのだ。目立たないわけがない。
「俺が、そういう男たちを何度追い払ったと思っているの。でも、今日できみに手を出そうとする者はいなくなったと思うよ」
それに関してはたぶん、フィンの勘ちがいではないだろう。
最初こそ、シュゼットをダンスに誘ってくれたり、会話を交わそうとしてくれたりした男性がいた。けれど、いまではとだえてしまっている。
「あの、フィンさま」
「ん?」
「もしかして、そのことも狙ってわたしを舞踏会に連れてきたのですか?」
「ああ、それはもちろん。前回、俺がきみを真っ先につかまえることができたのは、まったくの偶然だったからね。幸運だったよ。もし、あの時間に俺が庭に行かなかったら、ほかの男にきみが連れさられていた可能性もあるわけだから」
「そんなことするのはフィンさまくらいだよ」
シュゼットが思わずあきれた口調で言うと、フィンはうれしそうに笑った。
「きみの、そういうくだけた言葉遣い好きだよ」
「フィンさまはモノ好きですね?」
「ついでに、『さま』をとってくれるともっとうれしいんだけど」
「だめです。年齢もちがうし、家柄だってぜんぜんちがうし」
「いいじゃないか、そうしてほしいって俺が言っているんだから」
優しくほほ笑んで、フィンは言う。壁燭のあかるい光に金色の髪がつやめいて、彼の、色香をはらんだ魅力をいっそう引き立てていた。
(イケメン有罪、見つめてちゃだめだ)
シュゼットは、意思に反して高まる胸をごまかすために、グラスに口をつけつつ視線を横にそらした。
すると、長く伸びた黒髪をつんと引っぱられる。
「シュゼット?」
この甘い声もだめだ。
やっかいにすぎる。
そろそろと視線をフィンに戻すと、彼は、きれいな顔立ちに砂糖をまぶしたような笑みを浮かべた。
(もう、なんてうれしそうな顔をするの!)
目があったらうれしそうに笑うなんて、ずるいことこの上ない。
「フィンって呼んでごらん」
「……」
「ほら、シュゼット」
「……。フィン」
シュゼットはついに負けてしまった。
心のなかで敗北感にうちひしがれていると、フィンが、いきなり頬に軽くキスをしてきた。
「――!?」
「ああ、ごめん」
飛び跳ねてあとずさるシュゼットを見て、フィンは、悪びれもせずに笑う。
「シュゼットがあんまりかわいかったから、つい」
「ついじゃなくて! ここ、ひとがたくさん!」
「周囲は、俺たちのことを恋人同士だと思っているわけだから、多少のことは大丈夫だよ」
「キスが多少のことなの?!」
「なんなら、どこまで大丈夫かためしてみる?」
彼の腕がするりと腰に巻きついてきたので、シュゼットはまたしても飛び上がった。
「だ、だめ! だめです!」
「ふふ、忘れっぽい子だねシュゼットは。俺に敬語はいらないと言ったろう?」
抱きよせられて、耳もとでささやかれる。シュゼットは慌てた。
「わかったから、フィン……! 敬語も使わないし、フィンって呼ぶから!」
「耳まで赤くして、かわいいな。雪のような肌だったのに、いまは林檎みたいだ」
いったいなんなのだろうか、この事態は。
シュゼットは、腕をつっぱってフィンを引きはがした。
「もう、この女ったらし!」
「ひどいな」
あっけなく体を離して、フィンはくすくすと笑う。
「そんなことを言われたのははじめてだよ」
「あんまり軽い言動をしてると、不動の貴公子の名が泣きま――泣くよ」
「へえ。その呼び名、知っているんだ」
ふいに、フィンの気勢が削がれたような気がした。
「わたしの父がそう言っていたの」
「ああそうか、そういうことか」
「気にさわったのならごめんなさい」
本人の気に入らない二つ名だったのかもしれない。しかし、フィンは軽く肩をすくめた。
「気にさわってなんかいないよ。社交界に疎そうなきみから出た言葉に、ちょっとびっくりしただけだ」
シュゼットは、フィンをうかがった。
「でも、ちょっぴり気にしてるんだよね?」
「いや。気にしていない」
「うそ、気にしてる。いつもの軽口が出てこないもん」
「こら」
ふに、と彼のひとさし指がくちびるに押しあてられた。
「あんまりしつこいと、ここにキスするよ」
シュゼットはあとずさった。
「ひ、卑怯だよ、フィン」
「なんとでも。さあ、もう一曲踊ろうか」
引いた腰をふたたび抱きよせて、フィンはさわやかにほほ笑む。新たに流れはじめた曲を耳にしながら、シュゼットが白旗を揚げかけたときだった。
「おやおや、これはシュゼット嬢ではないですか」
ろれつのまわっていない男の声が、割り込んできた。シュゼットは、どきりとしてそちらを見る。
おそらくアルコールによって頬を赤らめた男性が、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。
フィンよりもいくつか年上だろうか。立派な身なりをした男性だが、どこかで見覚えがある。
男性は、決して上品とは言えない笑みをにじませながら、シュゼットを、上から下までなめるように眺めた。
「あいもかわらず可憐なお姿だ……」
下卑(げび)た声にぞくりとする。
とっさに身をひいたら、フィンがシュゼットの前へ一歩出た。
「申し訳ありません、卿。彼女は社交デビューを果たしたばかりで、あまり男性慣れしていないのです」
「もちろんそれは存じ上げている。なにしろシュゼット・ロア嬢と私は、十日ほど前の舞踏会でめぐりあったのだからね」
シュゼットは、フィンの背後で息を飲んだ。
そうだ、思いだした。彼は、前回の舞踏会の際、シュゼットにしつこくダンスを申し込んできた人物だ。
男性と関わるのがいやだったので、その場でお酒をがぶ呑みして「酔いました」と言って庭に逃げこみ、そのままフィンにお持ち帰りされた。だから、この男性と踊ることはついになかった。
(それなのに、『めぐりあった』って。おおげさな言いかたのような気がするんだけど……)
彼は、フィンをもじろじろと眺めまわしたのちに鼻で笑った。
「ブルーイット家のご長男か」
とんでもなく感じの悪い態度だ。シュゼットはむっとして、思わず前に出ようとしたが、フィンに片腕で制された。
フィンは、平静な態度で返答する。
「ええ、フィン・ブルーイットと申します。貴殿はクライトン伯爵とお見受けいたしますが――」
「私はシュゼット嬢とふたりきりで話がしたい。きみは控えてくれ」
フィンの言葉を遮るように言って、男は、フィンの背後から彼をうかがっているシュゼットをじっとりと見つめてきた。
その粘つくような視線に、シュゼットは恐怖を覚える。
(なんだか、このひと――)
無意識にシュゼットは、フィンのタキシードをつかんでいた。そのしぐさが、男の気にさわってしまったようだった。
「シュゼット嬢。前回、私のダンスの申し出をすげなく断ったことをお忘れか」
「覚えています。あのときは、ひどく酔ってしまって……申し訳ないと、思っています」
シュゼットが返事をすると、男の双眸が歓喜に沸き立った。
「であれば、すぐにこちらへ。私とともにダンスを楽しみましょう。もしよろしければ、ふたりきりでお話もさせていただきたい」
「あの、でも、わたし、今日は――」
「また断るというのですか? なんという無礼なお方だ」
歓喜の表情が、一瞬で憤怒に変わった。彼の心情が理解しがたくて、シュゼットはさらに怯えてしまう。
「ごめんなさい」
ぎゅっとフィンの上着をつかむ手に力をこめながら、シュゼットは首を振る。
「お話はできかねます。すみません」
だれとも恋愛をしたくないということ以前に、この男性とはふたりきりになりたくない。シュゼットが弱々しく断ると、男は激昂した。
「なんだと!」
シュゼットはびくりと肩を縮める。
周囲がわずかにざわめき始めた。