第二章 彼の想いと、よみがえった記憶
翌々日のことである。
フィンは、自身が所属している紳士クラブに出かけた。樫の扉をひらけば、紫煙たなびく空間が広がっている。
同年代の貴族男性が集うここは、彼らにとって格好の社交の場だ。椅子に腰かけ情報交換にいそしむ彼らのあいだを縫って、フィンは友人の姿を探した。
「フィン!」
呼ばれて、フィンは振り返る。くだんの彼は、窓際のテーブルでコーヒーを飲みつつ手招きをしていた。
「シェイン、おはよう」
「おはよ! 社交界一の貴公子から呼び出しの手紙がくるものだからびっくりして、昨夜はぜんぜん寝つけなかったよ」
シェイン・ベイカーは冗談めかして笑う。
彼はひとつ年下の幼なじみだ、子爵家の三男で、栗色の髪と明るい笑顔が印象的な青年である。
フィンは、彼の正面の椅子を引いた。
「突然呼びだしてすまない。おまえに話したいことがあるんだ」
「あ、そうそう、俺もある! お礼を言わせて、フィン。この前は、伝言を請け負ってくれてありがとう」
シェインは、フィンの両手をがっしりとつかんだ。
「これで十年来の初恋にも踏んぎりがついたよ。フィンが、俺の代わりにジーナに告白してくれて、本当によかった」
「おまえがそう感じているならよかったとは思うけど、自分で伝えなくてよかったのか?」
「もちろん! だって俺、目の前でジーナに振られたら、その場で泣き崩れる自信あったもん」
「そういう状況は、友人としても心が痛む」
フィンは肩をすくめた。運ばれてきたコーヒーカップを持ち上げつつ、口をひらく。
「まあ、俺としても伝言を請け負ったおかげでいいことがあったんだ。だから、こちらからもお礼を言いたいくらいだよ」
「へえ?」
シェインが興味を引かれたように身を乗りだしてきた。
フィンとシェイン、そしてジーナは、三人そろって幼なじみのあいだ柄(がら)だ。ふたりより年上のフィンは、兄のような役割でもってふたりと友情を育んできた。
けれど、シェインがジーナにいつのまにか恋心を抱くようになってしまった。ジーナには想い人がいるからあきらめろとフィンは言いきかせたが、そうなるとますます燃えるのが若い恋というものだ。
シェイン自身もジーナが自分を見てくれていないということは充分承知していたようだった。けれど、きっぱり振られないと踏んぎりがつかない。でも、自分で告白する勇気はない。
そこでシェインはフィンに、愛の告白を代わりに伝えてほしいと懇願してきたのである。
シュゼットと初めて会った夜、フィンは、シェインからの告白をジーナに伝えていた。予想どおりジーナには好きな男がいたので、フィンは断りの伝言をジーナから受け取ったというわけだ。
「なあフィン、いいことってなに? なにがあったの?」
「ご想像にお任せするよ」
「この前の舞踏会で、フィン、女の子連れてたよな? もしかして、あの子がらみ?」
フィンはまばたきをした。
「シェインも、あのときホールにいたのか」
「うわ、ひどい。目にも入れられてなかったなんて」
「ごめんごめん、ぜんぜん気づかなかったよ」
「それほど、目の前の女の子に夢中だったんだ?」
シェインはうれしそうに目を輝かせた。
「すっごくかわいい子だったよな。フィン、その子のことやけに熱っぽい目で見つめたけど、狙ってるの?」
「もちろん」
あっさり答えると、シェインは色めき立った。
「珍しいなぁ! 珍しいというか、初めてじゃない? 自分から女の子を口説きにいくなんて、いままでなかったよな?」
「そうだったかもしれないね」
「ついに、不動の貴公子に想い人が! 何人のご令嬢が泣くことやら」
それでもシェインはうれしそうにしている。
「俺、ずっと心配してたんだ。フィンは冷めてるから、自分から口説きにいくことは絶対にないって有名だったし。『動かなくてもよってくる女性に、自分から働きかけるのは非合理的だ』とまで言ってたそうじゃないか」
合理主義者で、冷めていて、それゆえ色恋に関して自分からは決して動かない。
不動の貴公子というあだ名は、じつは、こういった皮肉もこめられたものだった。シュゼットの父のように、皮肉だということを知らないひとたちも多い。
フィンは苦笑をにじませた。
「非合理的って、それは俺が言ったんじゃないよ。そういう噂が勝手に流れているだけだ。女性に対して合理性をふまえた言動をとっているつもりはないけれど、でも、そういううわさが流れるということは、そう見えるということなのかな」
「あ、そうだっけ。ごめん、へんなこと言って」
恐縮するシェインに、フィンは首を振った。
「いや、いいよ。おまえも知っているように、俺の父親はとても厳しかったからね。俺には、できる限り理性的かつ効率的に、ものごとを進めていくくせがある。もしかしたら、人間味に欠けるのかもしれない」
「……それ、悩み?」
「まあね」
自嘲の笑みを浮かべて、それからフィンは、話題を断ちきるように言った。
「それで、話をもとに戻すけれど」
「あ、うん」
「俺はいま、彼女に振り向いてもらおうと必死なんだ。でも、誤解を与えてしまって、まったくうまくいってない」
「えっほんとに? フィンが落とせない女の子なんて、存在するんだ……」
フィンは肩をすくめた。
「困ったことに、このままじゃ振られてしまいそうなんだ」
「えええ!」
「だから、彼女の誤解を解く必要がある。そうなると、シェインの片思いについて彼女に話さなくちゃならない。おまえの名前を出さずに話すことはできるけれど、俺の友人といったら、真っ先にシェインの名前が出てくると思う。だから、必然的におまえの片思いが彼女の知るところになるというわけだ」
「ええっ、俺、他人に知られるのいやだよ!」
とたんにシェインの顔色が変わった。この反応は予想済みだったが、フィンは再度押してみる。
「どうしてもいやなのか?」
「だって振られてるし! 頼むから言わないでくれよ!」
シェインは半泣きになっている。フィンは、あきらめまじりのため息をついた。
「まったく、面倒なことになったな」
シェインのことをシュゼットに話さずことを進めることが、はたしてできるだろうか。
すぐ横の窓に目をやりつ、フィンは考える。
(とはいうものの、いまの時点でこのことをシュゼットに話しても、信じてはもらえないだろうな)
彼女の男性不信――いや、恋愛不信はそうとう根深いように見えるからだ。
腰を据えていくしかない。フィンは、ほろ苦いコーヒーを喉に流し込んだ。
その日の夜のことである。
シュゼットは、寝苦しさに何度も寝返りをうっていた。
(寝つけない……)
昨夜も、その前もあまり眠れなかった。つまり、フィンといっしょに舞踏会に出かけて以来、まともに眠れていない。
目を閉じると、フィンのほほ笑みや涼しげな声、優しいまなざしや頬をなでてくるてのひらなどを思いだしてしまう。そのせいで胸の鼓動が早まって、眠れなくなるのだ。
(もう、最悪)
シュゼットは、侍女を呼んでブランデーを持ってきてもらった。アルコールにはいやな思い出があるけれど、三日も睡眠不足が続けば酒の力を借りるしかない。
水で割ったものをゆっくりと呑んで、アルコールの熱が体に染みわたるのを待った。意識がとろみを帯びてきたので、シュゼットはベッドに戻り目をつむる。
(今度こそ眠れそう……)
窓から流れてきた春風が、シュゼットの頬をなでる。意識が混濁していき、そのまま眠りに落ちていった。
しかし、酒による強制的な眠りは、シュゼットに過去の夢を見せた。
それは忘れてしまったはずの、フィンとすごした一夜だった。