第三章 こちらの防御力はほとんどゼロです
からまりきった感情を抱えながら、シュゼットは朝を迎えた。
目の下の立派なクマを侍女に驚かれつつ着替えをすませ、よろよろと階段を降りていく。すると、玄関ホールがにぎやかになっていることに気づいた。
首をかしげながらそちらへ足を向けて、シュゼットは、見えてきた光景にぎょっとした。思わず柱のかげに隠れてしまう。
「わざわざ足を運んでもらってすまないね、フィン君」
「まったくあの子ったら、自分の扇を馬車に忘れてくるなんて。お手間を取らせてごめんなさいね」
謝りながらも、どこかうれしそうな両親の声である。
そこにまざるのは、晴天の朝にぴったりの、さわやかな青年の声だ。
「こちらこそ、事前に連絡もなく突然押しかけてしまって申し訳ありません。きっと探しているだろうと思ったので、すぐにでも届けて差し上げたくて、先走ってしまいました」
「そんなことはいいんだ。ところで、よかったらいっしょにお茶を飲んでいかないか?」
「いえ、さすがにご迷惑なので」
「あら、迷惑なんかじゃないわ。ご予定がないなら、ぜひごいっしょしてくださいな。あの子も呼んできますから」
母レオノーラの言葉に、フィンは自嘲気味に笑った。
「では、ご厚意に甘えて――、ああでも、恥ずかしいな」
「まあ、どうして?」
「すぐにおいとまするつもりだったのですが、ほんの少しでもご息女のお姿を見ることができたらという下心もあったのです。それがまさか、いっしょにお茶をいただけるなんて考えもしなかったから動揺してしまって」
レオノーラは、目を丸くしたあとくすくすと笑った。
「初々しいこと。けれど、フィンさんの社交界でのご評判は聞き及んでおりますのよ。うら若きレディたちの心を鷲づかみにされているとか。我が家の娘はひどく奥手なので、もの足りないのではなくて?」
「まいったな」
少々いじわるなレオノーラの言葉に、フィンは困ったようにほほ笑む。シュゼットは、これ以上をたえられなくて柱のかげから姿を現した。
と同時に、フィンの優しげな声がホールに響く。
「ご息女は僕の初恋です。彼女に愛想をつかされないためにはどうすればいいのか、そればかりを考えて、夜も眠れないほどなのですよ」
「なっ――」
思いきって出てきたはいいが、予想外の先制攻撃をくらってシュゼットは硬直した。
三人の、きょとんとした視線がこちらに集まり、まずはレオノーラがあきれたような顔つきになる。
「まあシュゼット、なにをつったっているの。早くこちらへ来て、フィンさんにごあいさつなさい」
「……ハイ」
シュゼットは、ぎこちなくフィンの前まで歩を進めて、それからドレスをつまんで礼をとった。
「……おはようございます、フィンさま」
「おはよう、シュゼット」
フィンの金髪と青い瞳が、朝陽にキラキラと輝いていて非常にまぶしい。
彼は、うれしそうにほほ笑みながら、シュゼットの手をとり甲に口づけた。いまは手袋をしていなかったので、じかにふれた熱にどきりとする。
「会えてうれしいよ。会いたかった」
「……昨日、お会いしたばかりですよ」
これ以上に鼓動が高鳴ると困るので、シュゼットはわざと視線を逃がしてそっけない言いかたをする。
するとそこへ、バーナードが口を挟んできた。
「シュゼット、そのような態度は失礼だろう。それに、いまはもう十一時だ。朝のあいさつというより、昼に近い時間だぞ」
「お寝坊な娘でごめんなさいね。昨日の疲れが残っているようなの」
そう言いながらも、両親の目は心配そうにシュゼットを見ている。
(ああ、そうだ。わたし昨夜に、『フィンさまにはほかの女性がお似あいだ』みたいなことをお父さまたちに言ってしまったんだっけ。だからお父さまたちは、わたしとフィンさまがうまくいかなかったと思ってるはず)
それなのに今朝、突然フィンが訪ねてきて、いったいどうなっているのかと両親は気が気ではないのだろう。
レオノーラは、表面上は明るく聞こえる声で続けた。
「さあ、お茶の準備をしますので、客間でしばしお待ちくださいな。シュゼット、フィンさんを案内してさしあげて」
「昨日会ったばかりだから、今日も会いたいと思うはずがないと思った?」
ふたりきりになった客間で、フィンがいたずらっぽく言った。
扉を閉めたシュゼットは、その場所で彼を振り返る。
「扇を届けてくれてありがとう。でも、使いの者をよこしてもらってもよかったんだよ」
「会いたかったんだ」
気づいたら、フィンがすぐ目の前に来ていた。下ろしたままだった黒髪を長い指にひとふさ取られて、するすると梳かれる。
「きみに初めて会ったあの夜から、十日も会えなかった。昨夜やっと会えて――でも別れたあとのひと晩が、おそろしいほどに長かったよ」
彼の指のあいだから、シュゼットの髪がさらさらと落ちていく。焦がれるような恋情に染め上げられた青い瞳に見つめられて、体温が上がってしまう。
シュゼットは、扉に背を貼りつけるようにしながら必死で口をひらいた。
「そんなふうに、く、口説いてきたって、フィンが嘘をついてるってわかってるんだから」
自分でも、こんな言いかたはナシだと思う。あまりにも子どもっぽくて、情けなくなる。
「嘘?」
彼が、片方のひじから先を扉に押しつけた。シュゼットの顔のすぐ横だ。
距離が縮まって、シュゼットの鼓動が痛いくらいに早くなる。
「興味深いな。俺のどのあたりが嘘っぽく聞こえるの?」
少し怒らせてしまったかもしれない。彼の端整な顔が、わずかにしかめられている。
シュゼットは、おそるおそる答えた。
「どのあたりというか――」
「うん」
「全部」
「ふうん」
フィンは剣呑に笑った。
その表情を目にして、まずいかもしれないと思った直後、彼のもう片方の腕が扉に押しあてられた。
完全に囲われてしまって、シュゼットの血の気が引く。
「ところで、あの夜のことは思いだした?」
「えっ」
とっさに表情が引きつってしまった。フィンはそれを見逃してくれない。
「思いだしたんだ」
「ええと……うっすらと」
「俺は覚えているよ。こまかいところまで全部」
フィンのまなざしに色香が乗って、シュゼットはどきりとする。
「フィ、フィン。お茶の準備ができたころだと思うから、部屋を出て」
「忘れられるものか。あの夜から俺は、もう一度きみを抱きたくてたまらないんだから」
ささやかれながら耳朶に口づけられて、シュゼットの肩がはねる。
「きみを俺のものにして、今度こそ、子を孕ませたい」
このひとはまた、とんでもないことを言っている。しかも、そのカンのよさでもって、シュゼットが妊娠しなかったことを察しているらしい。
(フィンがなにを考えているのか、ぜんぜんわからない。あのきれいな女のひとに振られてさみしいからって、この家にまで来るなんて)
彼の胸を押し返そうとしたが、少しも動かない。シュゼットが泣きそうになると、怯えを察したのか、フィンはふいに力をゆるめた。
「――ごめん」
眉をよせつつ目を伏せる。きれいな色をした瞳が見えにくくなる。
「ごめん。へんなことを言った。ちがうんだ。俺はただ、きみに会いたかった」
少しだけ体をして、その薄い空間に、彼は、気を落ち着かせるように息を吐いた。
「声を聞けるだけでも、よかったんだ……」
そのかすかなつぶやきに、シュゼットの胸がしめつけられた。
(フィンはずるい)
むりやり動きを封じてきながら、こんなことを言うなんて。
どうしていいのかわからなくなる。
「あの夜、ほんの少しでもシュゼットは俺を愛してくれた?」
少しでも惹かれていなかったら、あんなことできなかった。
「きみの気まぐれで、俺は抱かせてもらえたのかな。恋愛はしたくないと言って、ほかの男をチラつかせて――、俺は、きみの手管にすっかりからめとられてしまったよ」