16 転生令嬢の陥落(1)

 帰り道、ふたりきりの馬車のなかで、彼はジーナの名をふたたび口にすることはしなかった。
 シュゼットは、そのことに深い安堵を覚えた。あと一度でも、フィンの声で彼女の名を告げられたら泣いてしまうだろうと思っていたからだ。

「シュゼット」

 ジーナの名を呼ぶ代わりに、フィンは、シュゼットを優しく呼んだ。
 となりに座る彼の指が、シュゼットの髪にふれる。

「次に会うときは、公園を散歩しようか。花は好き?」

「……。好き」

 小さく答えると、フィンはうれしそうに目を細める。

「よかった。明日の朝、迎えにいっても?」

 もう会うべきじゃない。
 そうわかっているのに、シュゼットは断ることができない。どうしても、「もう会いたくない」という言葉が喉から出てきてくれない。

「シュゼット?」

 フィンの声に、わずかな不安がにじんだ。
 完璧な――不動の貴公子と呼ばれるほど完璧な男のひとが、シュゼットの返事を待っている。心を揺り動かされている。その現実が、シュゼットには信じられない。

(たとえばフィンが、名門ブルーイット家の嫡男じゃなくても。ものすごくイケメンじゃなくても、不動の貴公子なんてものじゃなくても、わたしは)

 気づいたらシュゼットは、顔をうつむけるようにして言葉を返していた。

「……うん。行きたい」

 安堵したような吐息が、フィンから落ちた。

「じゃあ、また明日に迎えにくるよ」

 馬車がとまる。窓にカーテンが引かれているので確認できないが、シュゼットの屋敷についたのだろう。
 車輪の音が消えて、箱のなかが静かになる。シュゼットの手をとって、フィンは、手袋越しに口づけた。

「きみにまた会うのに、朝を待たなければならないなんて」

 シュゼットはいま気づいた。フィンのせつない声に、自分はひどく弱い。
 弱くされてしまった。

 フィンは、顔を上げてシュゼットの頬をてのひらで包んだ。その熱に身を引きたくなるけれど、彼の青い瞳に縫いとめられてしまう。

「ずっと、一日中シュゼットといたいよ」

「く、口説きには、乗らないんだから……」

 反論する声に、力を込めることができない。あいまいにそらした視線の先で、彼の手にとらえられた自分の手が映る。
 ふいに、フィンのくちびるが頬にふれた。

「……っ」

「だめだよ、シュゼット。そんな顔をしていたら、いますぐにでもきみが欲しくなってしまう」

 シュゼットをとらえているのとは別の手で、フィンは箱の扉を押しひらいた。まぶしい陽光がさし込んでくる。
 またね、とフィンは笑って、シュゼットを送った。

 要するに、自分はフィンに敵わないということだ。
 ドレス姿のまま自室のベッドにぱたんとうつぶせて、シュゼットは、長々とため息をついた。

 会ってしまったらどうしても惹かれてしまう。
 ならば、会わないほうがいい。

「一度オーケーしたのに申し訳ないけど、断りの手紙を書こう……」

 のろのろと起き上がり、ライティングデスクに向かう。ペンを持つ手がひどく重い。

(もう会わない、と決めることがこんなにもつらいなんて)

 シュゼットは、ペンをぎゅっと握りこんだ。
 ――けれど、まだ大丈夫のはずだ。
 まだ、それほど深くない。深く入り込まれてはいないはずだ。

 シュゼットはその日のうちに、従者に言って手紙をブルーイット家に届けてもらった。今日のエスコートのお礼と、『もう会いません』という文言を綴った手紙だ。

 会わない理由はあえて書かないでおいた。書かないことは卑怯だとも思ったが、フィンには「恋愛はしたくない」と何度も伝えてあるから、きっと悟ってくれるだろう。

 その夜のうちにフィンから返事が届けられた。上質な便せんに書かれていたのは、『中央公園の大花壇の前で待っている』という言葉だった。

 ――花は好き?

 フィンの言葉が頭をめぐっている。まったく眠れない夜が明けて、バルコニーの向こう側には春の青空が広がっていた。
 シュゼットは、ベッドの上に身を起こして空を見上げた。それからしばらくして、眉をゆがめた。

 会いたい。
 フィンに会いたい。

「……もう」

 ただ会いたいという想いひとつだけで、胸の奥からこみあげてくる涙が苦しかった。

「もう、手遅れだったんじゃない」

 シュゼットは顔をうつむけた。毛布の上にひと粒の涙をこぼしてから、ぐいっと頬をぬぐう。
 目を上げて、ベッドから降りて、外出用のドレスに着替えるために、呼び紐を引いて侍女を呼んだ。

 馬車から降りて、日傘を広げ公園に入る。
 春の日の午前、おだやかな時間をこの場所ですごすひとびとは多い。乗馬やお茶を楽しむ貴族だけでなく、平民の子どもたちも遊びに駆けずりまわり、思い思いの時間をすごしている。

 大花壇の前まで侍女に付き添ってもらって、そこから先はひとりで行くことにした。
 パウダーブルーのドレスの内側で、痛いくらいに高鳴る胸を押さえながら、シュゼットは大花壇のある広場を見わたす。

 水仙やブルーベル、チューリップにプリムローズ。春を告げる花が咲き誇り、散歩する皆の目を楽しませている。
 そのなかで、フィンの姿はすぐに見つかった。

 フィンの、すらりとした長身と輝くような金色の髪はとても目立つ。五メートルほど離れた黄水仙の花壇のところに、こちらに背を向けて彼はたたずんでいた。

 ――本当に、待っていてくれている。
 シュゼットはまた泣きそうになってしまった。あわてて涙をこらえて、歩を進めたときだった。

「フィンさま!」

「フィンさま、ごきげんよう」

 小鳥のさえずるような複数の声が聞こえて、シュゼットは立ちどまった。フィンの見ていた方向から、三人のレディが足早に近づいてくる。
 シュゼットとおなじ歳ごろの少女たちだった。可憐なドレス身を包んで、キラキラと輝く瞳でフィンを見つめている。

 最初のあいさつは、声がはりぎみだったから聞こえてきたものの、そのあとの会話はシュゼットの耳まで届かなかった。
 しかし、少女たちの、上気した頬とうれしそうな表情を見るだけで、彼女らがフィンに恋をしていることが伝わってくる。

 そして、こちらに背を向けているフィンが、ほほ笑みながら相手をしていることも想像できた。

(フィンがモテるってことは、わかっていたはずじゃない)

 シェインもそう言っていた。だから、こんな光景はあって当然のことなのだ。
 けれど、シュゼットの足は地面に貼りついたみたいに動かなくなってしまう。

「あら、シュゼットさん」

 少女たちのひとりの目が、こちらに向いた。シュゼットはどきりとする。
 フィンがこちらを振り向いて、驚いたように目を見開いた。

「――シュゼット」

 きれいな低音で呼ばれて、きゅっと胸がせつなくなる。
 自然と彼のほうへ歩みかけたところで、別の少女の声に割り込まれた。

「シュゼットさん、ごきげんよう。本日はお散歩かしら?」

「侍女もつけずに、おひとりで? あいかわらず、変わり者でいらっしゃるのね」

 揶揄するような言葉に、残りのふたりはくすくすと笑った。シュゼットはひるみかけたが、ぐっと足に力をこめた。

「侍女はすぐ近くに控えております。今日は、フィンに――フィンさまに、お会いしにきたのです」

 シュゼットの言葉に、フィンがなにかを言いかけた。しかし、それより先にフィンの前に少女たちが出て、口をひらく。

「フィンさまにお会いしにきたということは、まさか、あのうわさは本当のことだったのですか?」

「フィンさまが、社交場から逃げ続けているシュゼットさんと恋仲だと」

「信じられませんわ。社交界の花であるジーナさまならともかく、あなたとだなんて」

 またしても、彼女の名前が出てきた。どうやらジーナは、社交界の花と呼ばれるにふさわしいレディであるらしい。
 少女たちの言うとおり、シュゼットは、恋愛したくない一心で社交場から逃げ続けてきた。だからこそ、こういったことがわからないのだ。

(ジーナさまならともかく――と言われるくらい、フィンとジーナさんはお似あいなんだ)

 そしてふたりは、恋仲になってもおかしくないほど親密な関係でもあるのだろう。
 けれどシュゼットは、昨日のようにこの場から立ち去ろうとはしなかった。日傘の柄をぎゅっと握りしめながら、少女たちをまっすぐに見つめ返す。

「わたしには、あなたたちにこんなふうに悪口を言われる理由がないわ」

 はっきりと口にすると、少女たちはひるんだ様子を見せた。

「あなたたちがフィンさまにお話があるのなら、わたしはしばらく別の場所をお散歩してきます。それでは失礼しますね」

 シュゼットは、折り目正しく礼をとりその場を立ち去ろうとした。少女たちはひるんだままでいたようだったが、そのなかのひとりがくやしげな表情でこちらへ近づいてきた。

「悪口だなんて。よくも、フィンさまの前でわたくしたちを悪者にしてくださったわね」

 口もとに扇を広げ、シュゼットにだけ聞こえる声で、怒りをぶつけてくる。

「あなたみたいな方、フィンさまからまともに相手にされるわけないわ。あなたなんて、すぐにあきられて捨てられるに決まっているのよ。いい気にならないで」

 頬をはられたような衝撃を受けた。
 すぐにあきられて捨てられる。
 そんなこと、わかっている。わかっていたはずだった。

(わたしは、どこまでいっても二番目でしかない)

 いちばんにはなれない。なれたことがない。

(けれど、――それでも)

 シュゼットをばかにするように笑う少女を、シュゼットは見つめ返した。

「あなたの言葉は聞かない。だってあなたはフィンじゃないもの。話なら、フィンから聞くわ」

「な、なによ……! 変わり者のくせに、生意気な口を――」

 少女が声を荒げたとき、唐突に、シュゼットの腕が強い力で横から引きよせられた。はずみで手から日傘が落ちて、けれどそれを追う間(ま)もなく抱きよせられて、シュゼットは目を見開く。

「ここまでだ、レディ」

 きれいに響いたフィンの声に、少女が息を飲んだようだった。あとずさる彼女に、フィンは、あくまでもおだやかな声音で忠告する。

「この子は――シュゼットは、俺のもっともたいせつな女性だ。シュゼットには、淑女らしいふるまいで接してくれないか」

 声音とはうらはらに、青色の瞳には怒りがこもっている。
 シュゼットの頬が熱を持った。
 かばってくれた、それだけで泣きそうになる。

 ほかの少女たちもこちらに駆けよってきたが、フィンの雰囲気にのまれたように棒立ちになっていた。
 ふと、フィンは肩から力を抜いた。ほほ笑みを浮かべて彼女たちを見る。

「これからは気をつけて。まだ俺に用が?」

 少女たちは一様に首を振って、逃げるようにこの場をあとにした。