「フィン――ごめんなさい。ごめんね、フィン」
「シュゼット?」
心配そうな声で呼びながら、フィンはシュゼットの顔を両手でそっとはさんだ。青い瞳に見つめられる。
「どうしたの、シュゼット。階段を走ったら危ないよ」
「フィンに会いにいこうと思ったの。謝りたくて――」
「謝る?」
フィンの親指が、シュゼットの涙をぬぐう。
「なぜ? きみが謝る必要のあることなんてなにもないよ」
「お父さまが婚約を保留にしちゃったから……、お父さまはフィンに、ひどいこと言わなかった?」
「なにも言われてない。手紙で、俺の父|伝《づた》いに、回答を保留したいと教えられただけだ。大丈夫だよシュゼット。きみは心配しなくていい」
気遣うように、フィンの指がシュゼットの涙を何度もぬぐう。シュゼットは首を振った。
「いちばんだめだったのは、わたしだったの。わたしが不安に感じていなければ、お父さまもきっと、フィンを疑うことはなかったから」
「……。シュゼット、きみが不安になっているのは、もしかしたら」
「わたしがばかだったの。フィンは、わたしのことを好きでいてくれてるって、わかってた。わかってたよ。ごめんね。好きだよ、フィン」
「……っ」
息をつめたあと、フィンは、両腕をシュゼットの体にまわしてきつく抱きしめてきた。
「俺もきみが好きだよ、シュゼット」
「不動の貴公子だなんて。冷たい人間だなんて、ひどい。フィンはこんなにも優しいひとなのに」
フィンの体が小さく震えたような気がした。直後、強い力で、さらに胸の奥深くへ抱き込まれる。
「シュゼット……」
いとおしさをこめたようなささやきが耳にふれて、シュゼットはじんと胸を熱くした。
(ずっといっしょにいたい)
このひとと、いつまでもずっといっしょにいたい。
それが、結婚したいということなのだろう。
フィンが、出会ってから――初めて体をかさねてからずっと、言い続けてくれたことだ。
「こんなに泣いて」
シュゼットの濡れた頬に片手を添えて、フィンはかすれた声で言う。
「きみを絶対に泣かせないと言ったのに、すまない」
くちびるが重なって、ふれあったところから甘やかなしびれが広がった。シュゼットの頬をなでながら、フィンは、静かにキスをし続ける。
体内があたたかさに満ちていくように感じて、シュゼットは目を閉じた。ずっとこうしていたいと思って、けれどそのとき、大きなせきばらいが背後から聞こえてきた。
「おまえたちは、いつまでそうしている気かね」
「!?」
シュゼットが我に返るより先に、フィンが、慌てた様子でキスをほどいて体を離した(とはいっても、腰を片腕で抱かれたままだったが)。
彼を見上げると、わずかに耳が赤らんでいる。
「……すみません」
フィンは、珍しく弱ったような声をだしてバーナードに一礼した。
「申し訳ありません。お屋敷の庭園でご息女にふらちなまねを……。どうかお許しください」
あの程度の口づけでふらちなまねになるのなら、実際のところをバーナードに知られたらフィンはどう謝罪をするつもりなのだろう。
父親に恋人とのキスシーンを目撃されてしまったというどうにもならない状況を前に、シュゼットは、ななめに状況を見ることで混乱と恥ずかしさを乗り越えようとした。
(べろちゅーでさえなかったんだから、フィンにしてみたらあの程度のキスは、手をつなぐくらいのもののような気がするんだけど。だから大丈夫。キスを見られたって、平気平気)
しかし、父は苦い顔である。そのうしろには、「あらあら」といった様子の母が控えている。状況はまったく平気ではなかった。
「フィン君」
「はい」
「謝罪するというなら、まずは、私の娘からその腕を離してくれないかな」
「……。申しひらきもありません」
ひどく気まずそうに、フィンはシュゼットから腕を離した。ぬくもりが消えて、シュゼットは、そんな場合ではないとわかりつつも少しさみしい気持ちになってしまう。
フィンは、三秒ほど目を伏せたのちに顔を上げた。その表情にはもう、動揺は残っていなかった。
「突然の訪問をお詫びいたします。ロア卿にどうしてもお会いしたかったのです。いま少し、僕にお時間をいただけないでしょうか」
「それは、娘との婚約のことかね」
「はい」
まっすぐな声音でフィンは答えた。さらさらした金色の髪が春の風に流れた。
バーナードは、しばらくのあいだしかめ面(つら)をしていたが、やがて肩から力を抜くようにため息をついた。
「承知した。こちらの対応も、いささか礼を失していたことは自覚している。理由も言わず回答を保留して、申し訳なかった」
「いえ。たいせつなご息女の一生にかかわることですから」
静かな声を返すフィンに、バーナードは、口の端に笑みを浮かべたようだった。
家令がやってきて、フィンを客間へ案内していく。シュゼットが、いっしょについていっていいものか迷っていると、バーナードに頭をぐしゃぐしゃとかきまぜられた。
「なっ、なにするのよお父さま」
「なにするのじゃないだろう! まったくこのはねっ返りめ。庭で堂々と男に抱きつくなど、レディとしての自覚がなっとらん」
バーナードが渋面を作って見下ろしてくる。シュゼットは、はしたないことをしたという自覚がある分立場が弱い。
「で、でも、もとはといえばお父さまがひどいことを言うから……」
「たとえそうだったとしても、白昼に外で男と口づけを交わす淑女がどこにいる! もっと恥じらいを持て!」
「……はーい」
どう考えても正論なので、シュゼットは、これ以上の反論をあきらめた。
レオノーラがやれやれといったため息をつく。
「シュゼットもシュゼットだけど、あなたもあなたよ、バーナード。確かにわたしは、シュゼットが公園でいやな思いをしたらしいということをあなたに教えたけれど。でもまさか、あなたが、当時の状況をお友だちに聞きまわるようなことをするなんて想像もしなかったわ。血まなこになってフィンさんのよくないうわさをかき集めて、ここ最近あまり眠れていないわよね?」
妻からの突然の暴露に、バーナードは目に見えてうろたえ始める。
「わ、私はただ、シュゼットが心配で」
「それにしては大仰よ。まるで、ほかの男のもとへ愛娘がいってしまうのを必死でとめようとヒステリーになっているように見えたわ。あれほどシュゼットが結婚することを望んでいたのに、これだから父親という生きものはどうしようもないわね」
「お、おい、レオノーラ!」
「わたしはこの婚約に賛成よ。不安にもなるわよ、だって恋をしているのだもの。あたりまえのことだわ。ねえシュゼット?」
レオノーラがこちらを見てほほ笑んだ。シュゼットはどきりとする。
「恋をしているからあたりまえなの?」
「ふふ、そういうことも知らなかったの? これはフィンさんに申し訳がないわね」
レオノーラはくすくす笑った。
「し、知ってるわ。知っているけれど、不安に耐えきれなくなるときだってあるもの」
「そうね。耐えきれなくなったとき、どうすればいいか知っている?」
「……。泣く」
ベッドにつっぷして泣くのが、前世からシュゼットの定番だ。
レオノーラは肩をすくめた。
「ちがうわ。恋人に甘えるのよ」