22 ゴール直前ほど気をつけてください

 そのあとの話しあいは、結果的にうまくまとまった。
 レオノーラに暴露されたバーナードが、完全に覇気を失っている状態だったということもあるが、フィンによるところも大きかったようにシュゼットには思えた。

 凛と背すじを伸ばし、まっすぐなまなざしで言葉を紡ぐフィンは、絶対にこの婚姻を許してもらうのだという意志に満ちていた。シュゼットは、そんな場合ではないのに、彼の横顔にみとれてしまったくらいだ。

 バーナードは最終的に、白旗を揚げるように笑みをにじませた。

「わかった。婚約の申し入れをお受けしよう。保留にしたいという手紙を送った翌朝に、身ひとつで乗り込んでくるような情熱を示されてしまったら、父親としてなにも言えない。シュゼットを頼んだよ、フィン君」

 バーナードは、近く両家が顔をあわせる場をととのえることを約束した。
 シュゼットは胸をなでおろしつつ、帰りの馬車のところまでフィンを見送りにでる。

「なんとかまとまって、よかったぁ……」

「俺は、なにがなんでもまとめる気でいたけどね。シュゼットをあきらめるという選択肢は、最初から持ってない」

 馬車の前でフィンはシュゼットを振り返り、ほほ笑んだ。シュゼットは赤くなる頬をごまかすように話題を変える。

「ええと……。わたしのお父さまはこれで大丈夫だと思うけど、フィンのおうちのほうは大丈夫なの? ブルーイット家からしたらロア家はだいぶ下に見えると思うし、第一わたしは社交界で変わり者って思われているらしいから……」

「俺の父親なら問題ないよ。もともと色恋方面に口をだしてくるような性格のひとじゃないし」

「結婚となると話は別にならない?」

「二つ返事で了承していたよ。ロア家は歴史の古い良家だし、代々の当主殿の評判もいい。それでも心配?」

「うん……。ブルーイット家は、すごく立派な家柄だからやっぱり心配」

 フィンが苦笑しつつ、シュゼットの頬をなでた。

「確かに俺の父親は厳しいひとだよ」

「や、やっぱり……!」

「でも、厳しいのは跡取りである俺にだけだ。いい意味で……といったら語弊があるかもしれないが、男性優位の考えを持ったひとでね。俺の母や姉もふくめて、女性の行いに目をとめて口をだしてくることはない。だから安心して」

「ああ、そういう男のひといるよね……。なら、フィンは厳しく躾けられたりしたの?」

 だからこそ、社交界一スマートな紳士に育ったのかもしれない。
 フィンは、困ったようにほほ笑んだ。

「うーん、そうだね。思いだしたくもないほど厳しかったかな」

「そんなに?」

「うん。でも、そのおかげで侯爵家の跡を継ぐのに不安はないよ。俺の姉は王室に入る。王族とのかかわりも増えるだろうから気が抜けないし、難しい折衝ごとも増えてくるかもしれない。だからこそ、さまざまなことを頭と体にたたきこんでくれた父親には、いまとなっては感謝してるかな」

「そうなんだ……。教育パパかぁ。たいへんだったんだね。よくグレなかったね、フィン」

「ぐれ……?」

「ええと、性格がねじ曲がって育たなくて、偉いなぁって思って。フィンは、誠実だし優しいし、イケメンだし、フィンと自分が結婚するなんてまだ信じられなくて」

 するとフィンは、シュゼットの髪を手にとって、黒くつやめくそれに口づけてきた。いとおしげなそのしぐさに、シュゼットの鼓動が跳ね上がる。

「フィン?」

「ありがとう、シュゼット」

「えっ、わたし、お礼言われるようなことした?」

「きみと結婚できることが夢のようだと思っているよ」

 フィンのくちびるが、今度はシュゼットのくちびるにふれる。
 やわらかい余韻を残して、それはゆっくりと離れていった。

「シュゼットが好きだ」

「フィン……、っん」

「好きだよ、シュゼット……」

 いくつもの淡い口づけを与えられ続けて、シュゼットは、大好きな腕のなかで、とけてしまいそうな幸せに包まれた。

 そんなシュゼットが、これ以上ないほど苦々しい顔をした父親に「おまえというこは、庭でまた、男と口づけなんぞをして……!」と非難されたのは、夢見心地で屋敷に戻ったあとの話である。

「ジーナ?」

 うららかな昼下がりのことである。仲のよい幼なじみの姿を、中央公園の片隅で見つけたフィンは、彼女に声をかけた。

 シュゼットの父親から婚約の申し入れを保留されて、いてもたってもいられずシュゼットの屋敷に押しかけた日から、二日を数えた日のことである。

 求めてやまなかった少女が、やっとこちらを振り向いてくれた。その奇跡と幸運に、フィンはガラにもなく浮かれきっていた。
 彼女の生家、ロア家と婚約についての話しあいの場を一週間後に控え、近侍をつけずひとりで馬に乗り、ゆっくりと春の日差しを楽しんでいたところだった。

「フィン……」

 ジーナは、儚くきらめく緑色の瞳を涙に潤ませながら、馬上のフィンを見上げてきた。フィンは、ジーナの様子に眉をよせた。馬から下りて、彼女に近づいていく。

 四つ年下の幼なじみは、ひと目につかない木陰にひっそりとたたずんでいた。周囲を見わたしても侍女の姿はない。まさか、侍女を馬車のところに置いてきたのだろうか。

「ひとりなのか、ジーナ。軽率なことをしてはだめだ。危ないだろう」

「ごめんなさい……」

 兄にしかられた妹のように、ジーナはうなだれた。

「ごめんなさい、フィン。でも、とっても落ち込むことが起こったから、どうしてもひとりになりたかったの」

「それでもだめだよ」

 フィンはため息をつきながら、木に馬をつないだ。

「ルガード伯爵が心配する。彼とは、やっとのことで婚約をとりつけることができたんだろう? きみを愛してくれている男性を、心配させるようなことをしてはいけないよ」

 ジーナは、神妙な顔をしてうなずいた。フィンは、ひとつ息をついたあとほほ笑む。

「ひさしぶりに会ったのに、すぐにお説教をしてすまない」

「いいの。フィンの言うとおりだと思うから」

 ジーナは表情をゆるめた。

 彼女をしかるときにルガート伯爵の名を――近く、ジーナとの婚約発表を控えている男性である――だしてしまったのは、自分の恋人がもし、供をつけずひとりで公園にたたずんでいることを想像したら、心配でしょうがなくなってしまったからだ。

 シュゼットは実際に、侍女をつけずに公園の花畑へ来て、貴族の令嬢たちにからまれたことがある。
 あのときは、あとさき考えずシュゼットをかばいたい衝動に突き動かされそうになったが、体中の理性をかき集めてこらえた。

 いっときの感情で動いて、彼女を社交界にいづらくさせてしまったらどうしようもない。そして、シュゼットなら、意地の悪い令嬢たちを黙らせるくらいのことは言ってのけるだろうと信じたからだ。

(こういうところが、合理的で冷たいと評されるゆえんなのだろうけどな)

 自分が気にかけたひとにとって、よりよい言動をとるように瞬時に計算して動くクセがフィンにはある。
 そのときの、周囲からの評価はまちまちだった。ありがたいと感謝されたときもあるし、冷たくて人間味がないと責められたときもあった。

 そのたびに、自分はまちがっているのか正しいのかわからなくなり、深く考え込んだものだった。結局答えは出なかったけれど、いまはもう、周囲の評価は流れに任せておけばいいと考えるようになっている。

(たったひとりに受け入れてもらえれば、それでいい)

 初めて会った日の夜、貴族の子女らしくない自由な言動でこちらを惑わせて、その上くったくのない無防備な笑顔で、シュゼットはフィンに語りかけてくれた。

 彼女はフィンを、優しいと言った。その言葉はきっと、たとえば「正しい」とか「適切だ」とか、そういった言葉でも置き換えることができたのだろう。
 けれど、シュゼットは「優しい」という表現をとってくれた。それがフィンにとって、なによりも救いになった。

 フィンの父は、褒めることをしないひとだ。ただ厳しいだけの父だ。だからこそフィンは、他人から百の賞賛を得ても、一の中傷を受けることによって自分の正しさをたやすく見失うことが多かった。

(自分の、確固たる中心がなかった)

 その場にあわせたほほ笑みという仮面をかぶり、表向きの意味での不動の貴公子でい続けていた。それがどれほどむなしいことかということを――これこそが孤独だということを、理解しながら。

「ごめんなさい、フィン」

 ジーナの声に、フィンは思索から引き戻された。
 見ると、ジーナは悲しみをいっそう深めた表情をしている。

「どうしたの、ジーナ」

 フィンは、ジーナがもっとも落ち着いて聞けるトーンに声を落として尋ねた。
 最近は、どんなことでもシュゼットにつなげて考えてしまうから、周囲への気配りが欠けてしまっているような気がする。

 これからシュゼットと婚約をするのだから、ブルーイット家との婚姻に不安を感じているシュゼットをちゃんと守れるよう、気を引きしめていかなければならない。

「ジーナ。悩んでいることがあるなら話して。力になれるかもしれない」

「ええ……」

 ジーナはしばらくうつむいていたが、やがて顔を上げた。

 フィンにとって、ジーナは妹のような存在だ。弟分のシェインもふくめて、たいせつに感じている。
 けれどその思いは、シュゼットに向かう感情とはまったくちがうものだった。

 ジーナが、ルガート伯爵とともに幸せになることは、フィンにとって喜ばしいことである。しかし、シュゼットが、自分以外の男のとなりにいることは耐えがたい。

「あのね、フィン。ルガート伯爵が……アランが、自分とわたしが婚姻を結ぶのは、わたしのためにならないと言いだしたの」

 ジーナの弱々しい声を聞いて、フィンはため息をついた。

「またか。その考えを何度くり返せば気がすむんだ、ルガート卿は」

「アランは、最初の奥さまを亡くしているでしょう? お子さんも三人いて、だからこそ、わたしが後妻になるということを気に病んでいるようなの。アランがわたしより十五も年上だということも気になるみたい。きみにはもっとふさわしい相手がいるはずだと、泣いていたの。わたしはアランが大好きなのになにも言えなくて……。どうすればいいの、フィン」

 フィンは、舌打ちしたいのをぐっとこらえた。

 世の中は、アラン・ルガートのような腰抜けを「人間味がある」だの「相手の気持ちによりそっている」だのと評するのである。フィンからしたら、首根っこをひっつかんで「いい加減にしろ」と一発殴りつけたい種類の男だ。

 けれど、ジーナが彼に心底惚れているのだから、(シェインには悪いが)兄貴分としてはその気持ちを尊重しなければならない。

 実際、たおやかそうに見えていざというときにはたくましさを発揮するジーナと、地位と権力はあるけれど心根の繊細すぎるアラン・ルガートは、どう考えてもぴったりの組みあわせであった。

「ジーナ。ルガートはもともとそういう気性の男だ。だからこそ、きみも彼に惹かれたんだろう?」

 ジーナはハンカチで涙をぬぐいながら頬を染めた。