自分の精神的ダメージは、思ったより深刻なものだったらしい。
公園から逃げ帰って以降、十日ものあいだ、シュゼットは部屋にこもって悶々としていた。
(ずっとこもって悩んでいたって、どうしようもないのに)
両親がとても心配しているのはわかっている。けれど、食事のとき以外は部屋から出ない日が続いていた。
出たくないというよりも、出る元気がないと言ったほうが正しいだろう。この十日で二キロくらいやせた気がする。でも、こんなダイエット方法は取りたくなかった。
ソファに両脚を伸ばしたまま、シュゼットはクッションを抱えてため息をつく。
「やっぱり、振られちゃうのかなぁ……」
公園での光景を目撃したとき、シュゼットは混乱しきっていて、「これはなにかのまちがいだ、フィンを信じなければ」とばかり思おうとしていた。
でも、前世のことがよみがえってきて、振られて傷つけられるという恐怖に立ちすくんでしまった。
そして、結果的にその場から逃げだした。
「あのときは、フィンのことを信じなきゃって思ってたけど……。でも、あの状況はどう見ても浮気現場だよね……」
ジーナが、心変わりをして「やっぱりあなたがいい」とフィンに告げたのだろうか。
それを聞いたフィンは、シュゼットとの婚約をとりやめて、ジーナを選ぶことにしたのかもしれない。
心がどんどん重たくなってきて、シュゼットは、クッションを抱えたままソファの上で横向きになった。
ひとけのない場所で抱きあいながら、「フィンが大好き」だの「きみがたいせつだよ」だのとささやきあっていたのだ。これが恋仲じゃなくて、なんなのだろう。
フィンは弁解をしようとしていたけれど、シュゼットは、その場から逃げることに精一杯になっていた。だから、弁解を聞けるような状態ではなかった。
(弁解っていったって……。心変わりの言い訳なんて、ろくなものじゃないに決まってるよ)
また、振られてしまうのだろうか。
前世で振られ続けて、だから今世では恋をしないと誓っていたのに、結局恋に落ちて――振られてしまうのだろうか。
「やだなぁ」
シュゼットは、クッションを抱き込むようにぎゅっと体を丸めた。
胸のあたりがずきずきと痛い。
「やだなぁぁ……」
喉の奥から悲しさがこみあげてきて、目の奥が痛んできた。クッションに顔を埋めるようにして、泣き声が外にもれないようにシュゼットは泣いた。
――フィンがよかった。
大好きだったのに。
ずっとそばにいたかったのに。
(たとえばいま、フィンから手紙がきて、『あれは誤解だから話がしたい』って書いてあったら)
そうしたら、フィンに会いにいってしまうかもしれない。九割がた振られることは決まっているのに――なぜなら前世では十の割合でそうだったからだ――、会いにいってしまうかもしれない。
『やっぱりシュゼットが好きだ』そういう言葉が欲しいという気持ちも、もちろんある。
けれどいちばんは、フィンに会いたいからだ。
あんな場面を見せられてずたずたに傷ついたのに、それでも会いたいという気持ちが、どんなに押し殺しても湧き上がってくる。
最後に逃げだしたあの日から、十日も会っていない。
フィンに出会ってから、こんなにも会わなかったことはなかったのではないだろうか。
(そうじゃなくて、前にも一度、あった気がする)
ふいにシュゼットは思いだした。
『きみに初めて会ったあの夜から、十日も会えなかった』
それは、出会ってほどなくフィンが口にした言葉だ。
『昨夜やっと会えて――でも別れたあとのひと晩が、おそろしいほどに長かったよ』
せつなげな瞳でフィンはそう告げてくれたのに、いまは、おなじだけの時間が経ってもなんの連絡もくれない。
(だからもう、絶対に、振られてしまったんだ)
重苦しく痛む胸を抱えながら、シュゼットは声を殺して泣き続けた。
シュゼットの部屋をレオノーラが訪れたのは翌朝のことだった。
食事もろくに取らないシュゼットをひどく心配しているだろうことは、彼女の顔を見ればあきらかだ。
「体調はどう、シュゼット?」
「ん……。ごめんなさい、心配かけて」
シュゼットは、ソファに座って刺繍をさしていたところだった。こういう単純作業に、いまは救われている。少し前まではこれすらできなかった。
レオノーラは、ティーセットの乗ったトレイをテーブルに置き、となりに腰かける。
「いっしょにお茶でもと思って。カモミールティー、好きでしょう?」
レオノーラがそそいでくれたティーカップを、シュゼットは受け取った。清涼感のあるしとやかな香りが鼻をくすぐる。
「ありがとう、お母さま」
「どういたしまして。さあ、あなたからいろいろと話を聞かなくちゃ。お父さまが、気が狂わんばかりに心配しているわよ」
「うん……わかってる。ちゃんと話したいんだけど……」
まだ、フィンに振られたということを口にできる余裕はない。
逆に、フィンのほうから、婚約をなかったことにしたいという連絡は入っていないのだろうか?
正式に婚約を取りつけた段階ではなかったから、そういうこともいらないのかもしれないが……。
シュゼットが言いあぐねていると、レオノーラはほほ笑んだ。
「年ごろだものね。いろいろあってもおかしくないわ。ましてや、フィンさんとはお見合いではなく、恋愛をしているのだものね。けんかや行きちがいのひとつやふたつ、あってあたりまえよ」
「そういうだけなら、よかったのだけど」
「もしフィンさんがだめなら、別の男性を探せばいいじゃない。あなたはすてきなレディなのだから、すぐに新しい恋が見つかるわ」
「……そんなの、見つからないよ」
シュゼットはうつむいた。カモミールティーの湯気がまつげをくすぐる。
「やってみなければわからないわよ。ほら、顔を上げて、シュゼット」
シュゼットがのろのろと目を上げると、レオノーラは、白い封筒をトレイの上から持ち上げた。上質な紙でつくられたそれをかざしながら、いたずらっぽく笑う。
「差出人はおもしろい人物だったわ。あなた、フィンさんにないしょでほかの男性とも交流していたのね。さすがわたしの娘ね」
「ほかの男性? ぜんぜん心あたりがないのだけど」
シュゼットが眉をよせると、レオノーラは開封済みのそれから便せんを取りだした。
「お父さまあてだったから、なかはもう見せてもらったわよ。来週行われる婚約パーティーに、シュゼットのエスコートを申し出たいと書かれていたわ。ええと、どなたの婚約だったかしら」
「婚約パーティー?」
シュゼットの顔から血の気が引いた。
それはもしかしたら、フィンとジーナの婚約なのではないだろうか。
「お、お母さま、その婚約は……あの……ええと……」
知りたいけれど、あまりに怖くて聞くことができない。シュゼットが混乱に陥っていると、レオノーラは手紙をひらいた。
「そうそう、このおふたりだったわ。恋仲かもしれないとうわさでは聞いていたけれど、まさか本当にご結婚するとは思わなかったのよね」
「恋仲かもしれないうわさって、もしかして、そのふたりが幼なじみどうしだから――」
「このおふたり、年が十五もひらいているのよね。しかも、男性のほうは奥さまと死に別れていて、お子さんが三人もいらっしゃるのよ。お嬢さんのほうは、あなたとおない年の若い娘さんよ」
「えっ。あ、そうなんだ……」
どうやらフィンとジーナのことではないらしい。シュゼットはほっとして全身の力が抜けてしまう。
しかし、レオノーラの次の言葉に、今度こそシュゼットはがく然とした。
「アラン・ルガート卿とジーナ・コートニー嬢のご婚約ですって。あなた、このおふたりのこと知っていた?」
「ええっ、ジーナ、さん……!?」
「あら、やっぱり知っていたのね。あなたあんまり社交の場に出ないから、こういううわさには疎いと思っていたけれど」
「ジーナさんって、あのジーナさん? フィンの幼なじみの、ジーナさん?」
思わずつめよったシュゼットに、レオノーラは首をかしげる。
「そうね、確かそうだった気がするわ。ああ、思いだした。この手紙の差出人のお名前、どこかで聞いたことがあると思ったら」
レオノーラは、封筒を裏返して差出人をシュゼットに見せた。
「こちらの男性も、フィンさんと仲のいいご友人ではなかったかしら。シェイン・ベイカーさんというおひとよ」
「シェ……!?」
「ふふ、すみに置けないわね、シュゼット。恋人のご友人からエスコートの申し出を受けるなんて」
混乱しすぎて固まっているシュゼットに、レオノーラはほほ笑みかけた。
「いってらっしゃい、シュゼット。フィンさんに泣かされてばかりなら、あのひとに女を幸せにする甲斐性がないということよ。この際乗り換えてしまってもいいのではないかしら?」