01 プロローグ

 もうずっと、つきまとわれている気がする。
 立ちどまって、うしろを見る。電信柱の向こう側で、長身の男がいた。初めてこちらに気がついたように顔をあげる。

「おはようございます、楓子(ふうこ)さん。偶然ですね」

 彼は怜悧な顔立ちに、微笑みを浮かべる。
 あたしは彼が追いつくのをじっと待った。
 彼との距離、30センチ。そこまで近づくと、首をぐいっと上げないと目が合わない。153センチのあたしに対して、彼は180センチを超えているだろう。

「今日もいい天気だね。そうだ、せっかく偶然会ったんだし、一緒に学校へ行きませんか?」
「――偶然?」

 あたしは眉をあげて、彼を見た。

「そっちが編入してきてから3週間ずっと、毎朝、偶然、こうして会ってるよね」
「いやそれは、大学への行き道が同じだからでしょう」
「わざと道を変えた日も、会ったよね」
「ああ、あの時は郵便ポストに用事があってたまたまあそこを通ったんだよ」
「深山(みやま)君」
「はい」

 同じ2回生、同じゼミのなのに、敬語が入り混じるおかしな編入生だ。
 涼しげな目元に、色素の薄い髪。長身イケメンということで、教壇に立って紹介を受けた時、ゼミの女の子たちの目がこれでもかというほど輝いていた。
 でもあたしは、なんでこんなのが、と正直思う。
 だって不気味だもの。編入してきて毎日会う。なんと、帰りも一緒なのだ。

「キミ、ストーカーじゃないよね」
「はは。ストーカーですか」

 否定しない。
 もし本当にストーカーだとしたら、物好き以外何者でもない。
 あたしは女として、生物学的に壊れている。明日も朝から、産婦人科に行く予定があるのだ。

「深山君はどこに住んでるの?」
「楓子さんはどこに住んでるんですか?」
「あたしは、T町だけど……」
「ああ、僕もだ。だから毎朝会うんだね」

 ……うさんくさい。
 あたしは無視して1人で学校へ行くことにした。

「待ってくださいよ楓子さん」

 静かな夕方の住宅街だ。たまにすれ違うのは、犬を散歩中の主婦くらい。だから深山君の声はよく響く。
 聞きごこちのいい低音。見た目は好みじゃないけど、この声だけはいいと思う。

「楓子さん、そんなにすたすた歩くと危ないよ」

 彼と一緒の方が、ちがう意味で危ない。
 ただでさえ行きも帰りも一緒で、女の子たちから睨まれている。同じ施設で育った京香ですら、恨みがましく「今日も同伴出勤ですかぁ?」となじってきたくらいだ。他の女生徒らにはツバを吐かれまくっていることだろう。

「楓子さん」

 ひらすら無視をして、角を曲がる。早足で、またすぐに曲がる。これで深山君の視界からあたしは完全に消えたはずだ。そして学校とはちがう方向へ、思いっきり走り出した。
 この際遅刻してもいい。1人で登校して、あたしと深山君はなんの関係もないことを証明したい。
 ひとけのない一方通行の道で、あたしの靴音だけが響く。振りかえると、深山くんの姿はない。ほっとため息をついた。
 あたしは今年20歳になったけれど、まだ初恋を経験したことがない。告白されたことは何度かある。でも、ぜんぶ断った。男という存在は、好きじゃない。なるべくなら、遠ざけておきたい。あたしは別に、女の子が好きっていうわけじゃない。でも自分でそれを疑うくらいに、男に壁を作っている。
 ……もうそろそろ、学校への道に戻ろうかな。
 そう思って、足をとめた時だった。

『みつけた―――』

 ありえないほど近くで、声が聞こえた。
 耳から1センチも離れていないほど近くで――その吐息すら、耳元をかすめたほどに。

「なにっ……」

 思わず手で耳をかばって、後ずさった。
 その足首を、つかまれた。
 地面からはえた、浅黒い腕に。

 全身から怖気(おぞけ)がたち、あたしは悲鳴を飲みこんだ。
 腕は黒いアスファルトから伸びている。そしてそれは、ひじから上の部分しかなかった。

「ひ――」

 浅黒い腕はずず、と伸び、あたしの足を這った。
 ふくらはぎ、膝のうら、スカートの下の、ももの裏――。
 腕は異常に長く、人ではありえなかった。しかしその形状はまさしく人間の右腕で、浅黒くがっしりと節くれだち、たくましい男性のそれと思われた。

 素肌を這う、男の腕の感触に、あたしは震えた。
 誰かに、助けを。
 震えて定まらない視界をあげるとそこに、人影がすべりこんだ。

「楓子さん――」

 深山君の両目が、見開かれる。
 助けを求めようと開けた口に、もう一本の腕が回された。
 大きな掌(てのひら)にふさがれて、もがくスキすら与えられず、あたしはそのまま、2本の腕によって『アスファルトの中に』沈みこんだ。