02 雪原編

 濃密な闇が、全身を舐(な)めるように通りすぎていく。
 あたしはゆっくりと、落ちつづけていた。
 恐怖に凍えて、両膝を抱えたかっこうできつく目を閉じている。
 こんなの夢だ。
 現実のわけがない。

『みつけた。――おまえだ』

 低い声が耳朶をなぶる。
 あの両腕はまだ、あたしの体をまさぐっている。腰、腹部、胸、首すじ、頬に唇、耳の先まで。
 腕の主に抱きしめられているようだ。あまりの恐怖に眩暈がした。

 そして唐突に、まぶたの先の世界が、光に満ちた。

 濃密な闇が晴れ、冷気が肌を刺した。
 あたしはおそるおそる目を開ける。
 そして、さらなる衝撃に、息をのんだ。
 一面の、銀世界――。
 未踏(みとう)の大地へハラハラと、雪のかけらが重なってゆく。
 鈍色(にびいろ)の雲に太陽が遮られ、薄くい光が射していた。
 圧倒されて声すら出ないでいると、思いがけないごく近くで、誰かがささやいた。

「驚いているのか、楓子」

 悲鳴がのどまで出かかった。
 それを塞いだのは、冷たくぬめる、何かだった。

「……っ」

 キスを、されている。
 反射的に振りあげた拳を、さらに大きなてのひらが受けとめ、握りこんだ。
 あたしはそこで、自分の置かれている状況を理解した。

 大きな男があぐらをかき、その上に座らされている。太い腕が腰を抱き、もう一方の手があたしの後頭部をつかんでいた。さきほど振りあげた拳は、腰を抱いている方の手に握られている。

 男のキスは深かった。貪るように何度も、求めてきた。最初冷たいと感じた唇は、徐々に熱を帯びていく。
 今まで男を遠ざけていたのだ。当然、キスの経験なんてない。抱きしめられたこともない。息の仕方がわからない。怖い。
 ――怖い。

「泣いているのか」

 キスの合間に、男がいった。
 節くれだった、浅黒い指が、あたしの頬をぬぐった。

「怖いのか。オレが」

 男の目は、氷のように澄んだ青だった。
 浅黒い肌に、鋼(はがね)色の髪をしている。
 ――日本人じゃない。
 ここは、どこ。
 ひきつれた喉から、声をしぼりだす。

「あなたは――誰」
「シン」

 短く、彼はいった。

「寒いか」

 こたえるより先に、彼――シンは、自分の毛皮をあたしの上にかけた。さらに、円柱形の毛皮の帽子もあたしの頭にかぶせた。
 思わぬ優しさに、あたしは気が動転する。

「やめて――離して。触らないで」

 シンの上でもがく。でも離してくれない。厚い胸板は、あたしが押したくらいではビクともしない。毛皮があごのあたりをチクチク刺した。

「ここはどこなの」
「アリオト。雪原だ」
「そんなんじゃわからない。あたしの家はどこ。今は6月でしょ。どうして雪が降ってるの」
「アリオトではたいてい、雪が降っている。おまえの家はここからあまりにも遠い。この細い足ではどれだけ歩いてもたどりつけないだろう。オレがおまえをつれてきた。やっと見つけた。――楓子」

 毛皮ごと、強い力で抱きしめられる。右の耳がシンの胸に押しつけられる。
 この人が何をいっているのかわからない。
 あたしは再び恐怖で震えだした。

「吹きさらしだと、寒いだろう。戻ろう」
「戻るって、どこに」

 シンはあたしを抱いたまま、立ちあがった。

「エルトナの宿へ」