濃密な闇が、全身を舐(な)めるように通りすぎていく。
あたしはゆっくりと、落ちつづけていた。
恐怖に凍えて、両膝を抱えたかっこうできつく目を閉じている。
こんなの夢だ。
現実のわけがない。
『みつけた。――おまえだ』
低い声が耳朶をなぶる。
あの両腕はまだ、あたしの体をまさぐっている。腰、腹部、胸、首すじ、頬に唇、耳の先まで。
腕の主に抱きしめられているようだ。あまりの恐怖に眩暈がした。
そして唐突に、まぶたの先の世界が、光に満ちた。
*
濃密な闇が晴れ、冷気が肌を刺した。
あたしはおそるおそる目を開ける。
そして、さらなる衝撃に、息をのんだ。
一面の、銀世界――。
未踏(みとう)の大地へハラハラと、雪のかけらが重なってゆく。
鈍色(にびいろ)の雲に太陽が遮られ、薄くい光が射していた。
圧倒されて声すら出ないでいると、思いがけないごく近くで、誰かがささやいた。
「驚いているのか、楓子」
悲鳴がのどまで出かかった。
それを塞いだのは、冷たくぬめる、何かだった。
「……っ」
キスを、されている。
反射的に振りあげた拳を、さらに大きなてのひらが受けとめ、握りこんだ。
あたしはそこで、自分の置かれている状況を理解した。
大きな男があぐらをかき、その上に座らされている。太い腕が腰を抱き、もう一方の手があたしの後頭部をつかんでいた。さきほど振りあげた拳は、腰を抱いている方の手に握られている。
男のキスは深かった。貪るように何度も、求めてきた。最初冷たいと感じた唇は、徐々に熱を帯びていく。
今まで男を遠ざけていたのだ。当然、キスの経験なんてない。抱きしめられたこともない。息の仕方がわからない。怖い。
――怖い。
「泣いているのか」
キスの合間に、男がいった。
節くれだった、浅黒い指が、あたしの頬をぬぐった。
「怖いのか。オレが」
男の目は、氷のように澄んだ青だった。
浅黒い肌に、鋼(はがね)色の髪をしている。
――日本人じゃない。
ここは、どこ。
ひきつれた喉から、声をしぼりだす。
「あなたは――誰」
「シン」
短く、彼はいった。
「寒いか」
こたえるより先に、彼――シンは、自分の毛皮をあたしの上にかけた。さらに、円柱形の毛皮の帽子もあたしの頭にかぶせた。
思わぬ優しさに、あたしは気が動転する。
「やめて――離して。触らないで」
シンの上でもがく。でも離してくれない。厚い胸板は、あたしが押したくらいではビクともしない。毛皮があごのあたりをチクチク刺した。
「ここはどこなの」
「アリオト。雪原だ」
「そんなんじゃわからない。あたしの家はどこ。今は6月でしょ。どうして雪が降ってるの」
「アリオトではたいてい、雪が降っている。おまえの家はここからあまりにも遠い。この細い足ではどれだけ歩いてもたどりつけないだろう。オレがおまえをつれてきた。やっと見つけた。――楓子」
毛皮ごと、強い力で抱きしめられる。右の耳がシンの胸に押しつけられる。
この人が何をいっているのかわからない。
あたしは再び恐怖で震えだした。
「吹きさらしだと、寒いだろう。戻ろう」
「戻るって、どこに」
シンはあたしを抱いたまま、立ちあがった。
「エルトナの宿へ」