07

 シンは黒毛の鼻面をなでた。嬉しそうに身を震わせる。凛とした漆黒の目だ。
 手綱(たずな)をひいて村の外まで来ると、シンは鐙(あぶみ)に片足を乗せるようにいった。鐙とは馬の腹部にぶらさがっている足かけのことをいうらしい。
 あたしはまごつきながら左足を上にあげた。思ったより高くて、裏もものすじがピンと張った。

「右手で鞍(くら)を持って、一息に上にあがれ」

 耳もとでシンが言った。距離が近い。昨夜のことを思い出して、あたしは少し怯えた。
 シンの腕があたしの腰とお尻を持ちあげる。あたしも必死で手足に力をこめて、身体を引きあげた。すとん、と鞍(くら)にお尻がおさまる。ブラブラの右足を、シンがつかんで鐙に入れてくれた。

 この馬に、鞍(くら)はひとつしかない。鐙(あぶみ)もない。シンはどうやって乗るんだろう。するとシンは、裸の背中に飛び乗った。風のような身のこなしだった。どうやらそんなものがなくても乗れるようだ。

「馬に乗る時は必ず左側からだ。馬の右や、後ろに立つな」

 シンのたくましい左腕が伸びて、たてがみと一緒に手綱をつかんだ。

「鐙(あぶみ)に浅く足を入れて、鞍(くら)をしっかりと握れ。内ももと内ひざを意識しろ。尻にばかり体重をかけると鞍ズレを起こす」
「む、むずかしいよ」
「慣れるまでは速足(はやあし)で行く。30分後に休憩を入れよう」
「速足って、すごく速いの?」
「いや、それは襲歩(しゅうほ)という。おまえにはまだ無理だ」

 こうして乗ると、ものすごく高い。馬は立っているだけだが、それでも少しは動くので、それだけで不安定になる。こんなんで走れるんだろうか。

「大丈夫だ」

 シンの低音が、耳朶に響いた。
 右腕があたしの腰に回り、しっかりと抱きしめた。

「行くぞ」

 馬がゆっくりと、そして軽快に歩き始めた。

 冷たい風が、頬を切って痛い。あたしは毛皮のショールを目の下まで引きあげた。
 馬は軽快に歩く。最初は怖くて叫びそうになったけれど、10分もすればだいぶ慣れた。シンがしっかりと腰をつかまえていてくれるから、それに身を預けていればいいことを知った。
 あとは、いわれたとおり、内ももと内ひざに力を入れている。これが結構つかれる。きっと明日は筋肉痛になるだろう。

「慣れてきたか。カンがいいな」

 シンの声は、背中ごしに直接響く。シンの体は熱くて、冷たい空気にここちよい。

「昔から運動神経はいい方なの」
「そうか。確かにおまえの体には程よい筋肉がついている」

 腰を支えている手をずらして、あたしのももにてのひらをすべらせた。あたしはびっくりして、体をひきつらせた。ぶ厚いズボンをはいているし、シンの方は手袋をはめている。それでも彼の熱さが皮膚に伝わってきた。
 あたしはたまらなくなって、肩ごしに後ろを振りむいた。至近距離に、シンの顔がある。

「し、シン。触らないっていう約束だったでしょ」
「……。この程度でも駄目なのか?」
「駄目。すごく苦手なの。あ、シンだから駄目っていうわけじゃないんだよ」

 とたんにシンが悲しそうな目をしたので、あたしは思わずフォローした。

「シンだけじゃなくて、その、男の人全般が苦手なの。20歳にもなって、子供みたいなんだけど――」

 シンがわずかに目を見開いた。

「そうか――。それは、おまえの大切な性質だ。年齢など関係ない。そのままでいてくれ」
「どういうこと?」

 なにか理由があるのだろうか。
 その時馬が大きく跳ねて、あたしは悲鳴をあげた。シンの腕が体を強く抱きしめ、もう片方でたずなを引く。馬は足踏みしながら少しずつ立ちどまった。

「すまない。ウサギが邪魔をしたようだ」

 ――びっくりした。
 あたしは必死に、シンの上衣にしがみついていた。もう大丈夫だとわかったので、ほっと息をついて手を離そうとした。
 でもその両手が、シンの片手につかまった。浅黒くて大きな手。思わず顔を上げると、シンの唇があたしのまぶたにキスをした。

「楓子――」

 声を上げる間もなく、あたしはシンの広い胸にきつく抱きしめられた。
 シンは、ストーブの干し草の匂いがする。それはけして嫌いな匂いじゃなくて、むしろ懐かしくてあたたかい心地になる。このまま目を閉じて、なんの不安もなく、眠ってしまえそうだ。

「今度こそ、オレは絶対に楓子を手放さない。必ずこうして、おまえをすぐに抱きしめられるところにいよう」
「シン……?」

 今度こそ、という言葉に引っかかった。
 前から疑問に思っていた。シンは以前からあたしのことを知っているのだろうか。
 武骨な指があたしの髪をすいた。顔を上げると、熱源を秘めた青い目があった。そしてシンの唇が、あたしのそれに押しあてられた。
 駄目って言ったばかりなのに。あたしは胸を押しかえそうとした。でも、シンの口づけがあまりにも深く、呼吸がままならないほどだったので、それに意識を奪われてしまった。

 ――キスって、こんなにも濃密なものなんだろうか。
 頭の芯がとろけそうになる。お腹のあたりが熱くて、じっとしていられなくなる。

「も……シン、もう、やめ……っ」

 あたしが大きく身をよじると、やっとシンは解放してくれた。

「……すまない。触れないと約束したが、それは難しいようだ」
「みたいだね」

 熱い頭をなんとかクールダウンさせて、あたしはシンをにらんだ。
 シンは落ちこんでいるようだ。
 とりあえず、あたしたちはここで休憩をとった。