20 契情編

 旅は順調だった。最初のトラブルが嘘のように、毎日が風のように流れていった。
 時おり遊牧民のゲルや、定住民の村に立ち寄って補給をし、夜を過ごしながら、雪原を踏破(とうは)していった。
 そしてちょうど7日目の夜、雪原の終着点に辿りつく。
 トゥーバという名の、今までで一番大きな町だ。

「いらっしゃいお兄さん、一晩寄っていかないかえ?」

 東の空に、青い月がかかっている。
 小さくてシワシワのおばあさんが、シンの腕をひいた。他にも何人かのおばあさんが、道ゆく男性に声をかけている。
 なんだろう、このおばあさん。あたりを見回すと、大きな宿の2階窓に、若い女性が数人、窓際に腰かけてこちらを見おろしていた。みんな、上衣(ディール)のボタンを開けて、珠のように光る肩を露出している。徐々に、この宿が何なのかを理解した。

 この町に着いた時、日はすでに落ちていた。いつも日暮れ前には宿に入るのだが、途中立ち寄ったゲルで長居してしまって遅れたのだ。ゲルに住む遊牧民はみな陽気で話し好きの人たちだった。
 日が沈んでも、トゥーバの町は闇に沈まない。道のあちこちに灯りがともされ、大人たちが行き交っている。大通りは大きな店ばかりで、たいてい2階建てだった。
 男たちは、おばあさんの手管と、上から見下ろす妖艶な美女に誘われて、次々に中へ吸い込まれていく。

「なんだい、おまえさん女連れか。ま、お兄さんいい男だからねェ」
「この辺りに宿があったはずなのだが、知らないか?」

 シンが尋ねと、おばあさんははふくみ笑いをした。

「見ての通り、宿ばかりさね。女も抱ける閨(ねや)だけどね」
「ああ、いや、そういうのではなく、普通に寝泊まりできる宿だ」

 そこで初めて、シンは動揺したように手をふった。おばあさんががそっち系の人だとやっと気づいたらしい。

「さあねぇ。この辺は数年前に金持ちが買いとって、花柳町(かりゅうまち)にしちゃったんだよ。普通の宿はその時にずいぶん奥まったところへ追いやられたって話だよ」
「そうか……。楓子、もう少し歩けるか?」
「うん、なんとか」

 と言いつつも、正直しんどかった。長居したゲルで、勧められるままにお酒を飲んでしまったのだ。ヨーグルトのような爽やかな香りに騙された。きっと度数は日本酒くらいあっただろう。そのあとの乗馬でさらにアルコールがまわり、足もとがおぼつかない。
 シンはあたしの腰を支えつつ、困った顔をした。

「何年か前に来た時は、ここに宿があったんだが……。すまない楓子。もう少し歩こう」
「おやおや、娘さん体調が悪いのかい? ならうちで休んできなよ。女連れのお客さんもたまにだけど来るんだ」

 おばあさんはチョコチョコとあたしに近寄ってきた。シンに聞こえない小さな声で、囁く。

「女性向けのサービスもあるんだよ。怖いことや痛いことがなくて、ただ気持ちいいだけのサービスだ。意外に好評なんだよ。娘さんもどうかね? たくましいのをそろえてるよ。まあ、彼ほどではないかもしれないけどね。ひひ」
「え、えっと、あたしはそういうのはちょっと……」

 思わず顔が引きつる。おばあさんは笑った。

「あんた、ちょっと変わった色気があるからうちの男どもが喜ぶと思ったんだけど、残念。恋人連れに野暮だったかね。さあ、どうする? うちの部屋なら空いてるよ。サービスがあってもなくても、お代は正規でいただくけどね」
「いや、いい。楓子はこういうところにあまり慣れていないんだ」

 シンが慌てて断った。こういうところに慣れていなさそうなのは、シンも一緒のような気がする。シンに腕を引っ張られ、もともとフラフラのあたしは、足がもつれて転んでしまった。

「楓子!」

 シンが焦ってあたしを抱き起こす。いっぱい着こんでいるからそんなに痛くないけど、転んだ衝撃で頭がぐるぐる回った。
 うまく立てないあたしを見おろして、シンが困惑の表情を浮かべたのちに、おばあさんを振りかえった。

「すまん。やはり一部屋、貸してくれ」