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「楓子、何があった?」
「わ、わかんない。あのお客さんを、女の子が殴ろうとしたって……」

 あたしたちの声が聞こえたのか、男性客がこちらを見た。今にも蒸気を吹き上げそうな顔だ。

「何見てンだ!」
「騒がしいから目が覚めただけだ」

 シンがあたしの前に出る。しかし男の目はあたしを見逃さなかった。

「ああ? 見かけねえ娘だな。新しいのを入れたのか? そういうのは一番にオレに言えっていってるだろう」
「え? は、はあ……。いや、この娘は」

 宿泊係は、あたしたちのことを把握していなかったらしく混乱している。

「なかなか上玉じゃねぇか。今夜はあれにする。そうしたら許してやるよ」

 シンの横からのぞくと、下卑た笑みを浮かべた男がこちらを見ている。あたしはゾっとして、シンの上衣をつかんだ。

「おい若造。金をやるから女をよこせ」

 ピクリと、シンの肩が反応した。あたしも眉をひそめる。何て言いぐさなんだろう。女をモノとしか見ていないような感じだ。
 汗をぬぐいながら、宿泊係がこちらへ駆け寄ってきた。小声で尋ねる。

「あの、お客さま。そちらの娘はどのような……?」
「オレの連れだ。あのような下衆(げす)に彼女を見られるのが不快きわまりない」

 氷で斬りつけるように、シンがいう。宿泊係は肝が冷えたように、何度も謝った。

「あの、ここは私たちがおさめますので、どうぞお客さまがたはお部屋にお戻りください。ええと、この部屋はヘレムか。くそあいつ、一体どこへ」

 宿泊係は舌打ちする。矛先がヘレムさんへ向きそうになったので、あたしは慌ててつけ加えた。

「ヘレムさんには、部屋を出てもらうようにこちらから頼んだんです。別の部屋にいると思います」
「あの男はなぜあんなにも怒っているんだ?」

 シンが不快そうに眉を寄せる。宿泊係は汗をふきつつ、

「いえ、あのお方は常連さまで、特に初穂をお好みになられているのですが、今宵の娘は少々その……怯えが激しかったようで。いえ、大丈夫です、大きな騒ぎではないですから、ここはなにとぞ穏便に……他言などなされぬよう……ええ、そう、あとで酒肴(しゅこう)をお持ちします。女も何人かお付けいたしますので」

 この人、あたしがいるってことを忘れてるんだろうか。ヘレムさんのような女性を何人も連れてこられたら心身ともに疲れてしまう。
 それにしても、と思う。
 『はつほ』ってつまり、今夜が初めてということだろうか。
 薄暗い部屋の中では、まださっきと同じ格好で、細い背中が震えている。彼女の横には割れた花瓶が水を滴らせていた。

「おい何をコソコソ話してる! さっさとその娘を寄越さんか!」
「あたしが買うわ」

 シンの後ろから踏み出して、あたしはいった。体が勝手に動いていた。シンがびっくりしたようにこちらを見る。
 中年男はぽかんとしたが、やがて怒りだした。

「何をわけのわからないことを言っている!」
「あたしがその子を買うっていってるの。別に難しいことじゃないでしょ」
「女が女を買ってどうする。それにおまえはここの妓女(ぎじょ)だろうが」
「あたしは客よ。彼と泊まってるの」

 シンの腕にからみながら、あたしは笑みを浮かべた。――こんな最低な男。

「あたしはね、激しいのが好きなの。3人でするのよ。だからもう1人ほしいんだけど、ヘルムさんだと手慣れすぎちゃって好みじゃないのよ。だからその子を貰うわ」

 シンがあっけにとられてあたしを見おろしている。

「ねえ、いいでしょう? お金は払うから――」
「いいですわね、そのご提案。さすがはフウコ様ですわ」

 ゆったりとした声が響いた。3階から艶やかに階段をおり、ヘルムさんが笑みを浮かべた。

「それでしたら、ソホル様におかれましてはわたくしがお相手をさせていただきとうございます。いかがでしょうか、ソホル様……?」

 赤く濡れた唇で囁きながら、ヘルムさんの指先が中年男の首すじを伝う。男は目を白黒させたのち、耳を赤くした。

「む、むう……。ヘルムか。ま、まあ、悪くはない」
「あら、つれないお言葉。瑞々しい初穂もよろしいですが、わたくしのように熟れた果実も、やわらかくて甘うございますよ。ぜひごゆるりと、心ゆくまで味わっていただきとうございます」

 蠱惑的な唇で耳朶に囁かれ、中年男はあっけなく陥落した。
 ヘルムさんは1度こちらに笑みを投げ、それから男に腕をからませながら階段を上がってゆく。3階の扉が閉まる音が聞こえて、そこであたしは初めて、体の力を抜いた。

「はあー……。疲れたー……」
「大丈夫か、楓子」

 欄干にもたれかかるあたしを、シンが支えてくれた。

「あんまり大丈夫じゃない。頭ガンガンする」
「それは二日酔いだ。だから呑むなと言ったんだ。……それよりも楓子。おまえ意外と度胸があるんだな。あのように粗野な男と言いあっていた時は驚いたぞ。……その……」

 シンは口ごもった後、耳を赤らめた。

「3人で、というのは、本気なのか? オレはあまり自信がない。きっとおまえばかりを抱いてしまう」
「……い、いや、あの、ハッタリに決まってるでしょ」

 恥ずかしいばかりか、すごいことも言われた気がする。シンは大胆なのか奥手なのかよくわからない。