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「落ちつけ。別にオレは今さら楓子をどうかしようってわけじゃない。今のところ一族は楓子がいなくても何とかなっている。多少の犠牲はあるが、それは仕方のないことだ。しょせんオレたちのような一族は滅びゆく運命さ」

 彼の言うことがよくわからない。犠牲、滅び。どういう意味だろう。
 すると、男の青い目がスっとあたしにそそがれた。

「記憶を失っているとあいつらから聞いたが、どうやら本当らしいな。オレのこともわからないのか」

 あたしはぎこちなく頷いた。男は苦笑を浮かべる。

「忘れたなら忘れたで、その方がいいかもしれないな。では――初めまして。オレの名はスオウ。リオウの兄だ」

 リオウのことは断片的にだけれど、覚えている。あたしより年下で、いつも一緒に遊んでいた。リオウとの夜のことは……覚えていない。
 その、兄?
 思い出そうとしたら、こめかみをキリで刺したような痛みが貫いた。

「自己紹介などいらん。今後二度と会うことはない」

 殺気に満ちた声でシンが吐き捨てる。
 スオウという名の男は肩をすくめた。

「そうもいかないんだよ。おまえらこれから、那岐(なぎ)に会いに行く気だろう? あの山のふもとへ。だがな、シン。もうあそこに、那岐はいないんだ」

 シンが沈黙した。
 どうしてこの人は、そんなことまで知っているんだろう。

「那岐は狼獄(ろうごく)の谷に捕えられている。側仕えの女も一緒にな」
「スオウ、きさま……!」

 シンが激昂した。

「あそこはおまえたちの巣だろう。那岐を攫(さら)ったのか!」
「待て待て、なんでそうなるんだ」
「あの那岐が簡単に捕まるとは思えない。ユーマの幻術を使ったのか」

 シンが凄む。スオウは頭をかいた。

「だから違うっつーの。側使えのユルハを人質に取られたらしい。お優しい那岐にはそれ以上どうすることもできなかったんだろ。それより見ろ、姫がぽかんとしてる。記憶がないなら、そのあたりをきちんと説明するべきだろ」

 スオウがあたしの方をあごでしゃくる。シンはチラリとこちらを向き、眉を寄せた。
 軽やかにスオウが馬からおりた。それに服従するように、狼たちが後ろへ下がる。
 あの狼たちは、スオウに飼われているのだろうか。

「昼メシの途中だったんだろ? オレも腹が減ってるんだ。とりあえず腰を落ち着けて、なんか食おうぜ」

 スオウが自身の刀と弓矢を抜き、地面へ置いた。攻撃しないというサインだ。
 ――妙ななりゆきになった。

「おっ、そのグオズうまそうだな。ちょっとくれよ」
「あ、はい……どうぞ」

 あたしはドーナツのようなパンをスオウの方へやる。スオウからは代わりに干し肉が渡ってきた。

「これもうまいんだぜ。昔はこいつ肉ばっか食ってたんだが今もやっぱりそうか?」
「よく食べるけど……お肉はそんなに持ち歩かないから、そればっかりっていうわけじゃないです」
「まあそうだよなぁ。長い旅だしな」

 このくつろぎ方はなんだろう。
 スオウはあぐらをかいてゆったりとパンを食べている。会話も楽しんでいるようだ。そして驚くことに、こちらとしても喋りやすい相手だった。
 けれどリオウの兄ということは、この人も青い月の夜ともに過ごしたことがあるのだろうか。そう思うと、胸が重苦しくなった。
 シンはむっつりと不機嫌そうに、あたしとスオウの間に座ってチーズをかじっている。狼たちは伏せの姿勢で、少し離れたところでくつろいでいた。