うっすらと、満月が青みを帯びてきた。
暗闇をひた走る。時折、狼の咆哮と男たちの怒号が耳をつんざいた。スオウが頑張ってくれている。アスカという男も、あちらにいるのだろうか。
息が切れるほど走って、谷の入り口が見えてくる。ゴールが見えて安堵した時、シンの足が止まった。背後の那岐とユルハさんも、立ち止まる。
入口に、誰かが立っている。
あたしは目をこらした。
右手にたいまつを持っている。その横に、何か大きなものが、倒れている。
その正体に気づいた時、あたしはヒュっと喉を鳴らした。
悲鳴すら、出なかった。
「――オウル」
ギリ、とシンが歯をかみしめる。
倒れていたのはオウルだった。艶やかな黒毛が細かく震えている。まだ動いている。けれど、オウルの下に広がる血だまりが、最悪の事態を伝えていた。
『彼』はオウルの腹から、ずるりと刀を抜いた。
湾曲した刃が、月に光る。
たいまつの炎が彼の顔を照らした。歳の頃はシンと同じくらいだろうか。つり上がった眦(まなじり)、意志の強さを感じさせる太い眉。髪は赤茶け、無造作に短く切られている。盛りあがった腕の筋肉がゆっくりと刀を握りこんだ。薄い唇が、笑みを刷(は)く。
あたしの体が、意志に反してガタガタと震えだした。シンがあたしの腕をつかみ、背後にかばう。那岐が前へ出て、シンに並んだ。
ふたりの間から、彼が見える。青く光る双眸は、最初からただまっすぐに、あたしだけを射抜いている。
「よう、久しぶりだな」
愉悦をふくんだ声が暗闇を揺らした。
「囲いから逃げ出して今まで何をやってたんだ? 雌豚が」
*
『 おまえはそうやって、ただ泣いて懇願してりゃいいんだよ 』
『 さあ啼け、雌豚。精液にまみれた薄汚い淫乱女 』
青い月夜に、寝台が軋む。
それはまるで、あたしの口から迸(ほとばし)る悲鳴のようだった。
『闘士』は、4人。
スオウ、リオウ、ユーマ、――そして、アスカ。
彼らの闘気が、月狼の一族に巣食う獣性を抑えこむ。
その闘気の供給源が『蒼月の巫女』である。
そう、教えられた。
月狼は、半獣。
身内に野生の狼を飼っている。
抑えこまねば月光に狂い、人性(にんしょう)を亡くしてしまうのだ。
スオウやリオウ、ユーマは、いつも優しかった。
最初は怖くて抵抗したけれど、いつしかこれは運命なのだと、受け入れた。
『闘士』として、最後に指名されたアスカに、抱かれるまでは。
*
足に力が入らない。
体中がわなないて、自分自身を抱いた。地面が崩れる。眩暈がする。
「巫女様」
ユルハさんがあたしを支えてくれた。シンと那岐はギリギリの緊張感の中で、彼を見つめている。
―― アスカを。
「いいか、シン。落ち着け」
那岐が忠告する。
「こちらは女性ふたりを庇いながら戦わなくてはいけない。奴を殺すのは二の次にしろ。まずは無事に谷を出ることだけを考えるんだ。いいな」
シンはこたえない。
背中ごしでも伝わる殺気が、恐ろしいほどだった。
「ユルハ、オレたちがアスカを引きつけておくから、おまえは巫女を連れてここを出ろ。行き場所は東北東の結界だ、わかるな」
「はい、那岐様」
ユルハさんは蒼白になりながらも、しっかりとうなずいた。優しくあたしの手を引いて、岩壁の近くに移動する。
あたしは操り人形みたいだった。視界が8ミリビデオみたいに不鮮明で、時折ノイズが走った。
「おい、ユルハ」
アスカの声が投げこまれ、ユルハさんの肩がビクリと震える。
彼の両眼は燃え上がる怒りを立ちのぼらせ、ユルハさんを射抜いていた。
「オレの女を、オレから隠すんじゃねぇ」
その時、シンが動いた。
アスカはたいまつを投げ捨てた。雷撃のような激しさで振り下ろす刀を、舌なめずりして自身のそれで迎え撃つ。
激しい斬り合いが生じた。もつれるように刀をぶつけ合う。
那岐がこちらへ駆けてきた。
「あの単細胞、オレの話を全然聞いていない。あんなふうに斬りあいをされたら弓矢の援護ができないだろう」
「那岐様、巫女様が」
ユルハさんが那岐に訴える。震えてうまく立てないあたしを見おろして、那岐は舌打ちした。
「無理もない。――失礼、姉さん」
那岐はあたしの膝下と首の下に腕を差し入れ、横抱きにした。
「曲がりなりにも奴は『鋼の王』だ。アスカが手練れだとはいえ、後れを取ることは万にひとつもないだろう。いくぞ、ユルハ。闇に乗じてこの場を抜ける」
「はいっ」
あちこちにある大きな岩に身を隠しながら、入り口を目指す。入り口までの距離、20メートル。すなわちそれは、アスカとの距離だった。
近づくにつれ、あたしの恐慌は巨大化していった。胸の渦がまた生まれていた。のどを塞ぎ、顔面を多い、脳をかき回した。
「……嫌」
あたしは那岐の胸もとをつかんだ。
「嫌、嫌だ」
アスカに近づく。
あたしにはわかっていた。
シンと戦いながらも、彼の意識はあたしにある。
絶対に逃げられない。彼の脇を通り抜けて逃げるなんてこと、できるはずがない。
「捕まる」
あたしの震える声を聞いて、那岐が抱く腕に力をこめた。
「大丈夫だよ姉さん。アスカはシンで手いっぱいだ」
「駄目、絶対に捕まる。アスカはあたしを逃がさない」
もしアスカがシンに勝てなくても、アスカはあたしを逃がさないだろう。
自分がシンに敵わないということなんて、アスカは充分承知のはずなのだ。
あたしたちは何かを見落としている。
とてつもなく重大な、何かを。