35

 うっすらと、満月が青みを帯びてきた。

 暗闇をひた走る。時折、狼の咆哮と男たちの怒号が耳をつんざいた。スオウが頑張ってくれている。アスカという男も、あちらにいるのだろうか。
 息が切れるほど走って、谷の入り口が見えてくる。ゴールが見えて安堵した時、シンの足が止まった。背後の那岐とユルハさんも、立ち止まる。

 入口に、誰かが立っている。
 あたしは目をこらした。
 右手にたいまつを持っている。その横に、何か大きなものが、倒れている。
 その正体に気づいた時、あたしはヒュっと喉を鳴らした。
 悲鳴すら、出なかった。

「――オウル」

 ギリ、とシンが歯をかみしめる。
 倒れていたのはオウルだった。艶やかな黒毛が細かく震えている。まだ動いている。けれど、オウルの下に広がる血だまりが、最悪の事態を伝えていた。

 『彼』はオウルの腹から、ずるりと刀を抜いた。
 湾曲した刃が、月に光る。

 たいまつの炎が彼の顔を照らした。歳の頃はシンと同じくらいだろうか。つり上がった眦(まなじり)、意志の強さを感じさせる太い眉。髪は赤茶け、無造作に短く切られている。盛りあがった腕の筋肉がゆっくりと刀を握りこんだ。薄い唇が、笑みを刷(は)く。

 あたしの体が、意志に反してガタガタと震えだした。シンがあたしの腕をつかみ、背後にかばう。那岐が前へ出て、シンに並んだ。
 ふたりの間から、彼が見える。青く光る双眸は、最初からただまっすぐに、あたしだけを射抜いている。

「よう、久しぶりだな」

 愉悦をふくんだ声が暗闇を揺らした。

「囲いから逃げ出して今まで何をやってたんだ? 雌豚が」

『 おまえはそうやって、ただ泣いて懇願してりゃいいんだよ 』

『 さあ啼け、雌豚。精液にまみれた薄汚い淫乱女 』

 青い月夜に、寝台が軋む。
 それはまるで、あたしの口から迸(ほとばし)る悲鳴のようだった。

 『闘士』は、4人。
 スオウ、リオウ、ユーマ、――そして、アスカ。

 彼らの闘気が、月狼の一族に巣食う獣性を抑えこむ。
 その闘気の供給源が『蒼月の巫女』である。
 そう、教えられた。

 月狼は、半獣。
 身内に野生の狼を飼っている。
 抑えこまねば月光に狂い、人性(にんしょう)を亡くしてしまうのだ。

 スオウやリオウ、ユーマは、いつも優しかった。
 最初は怖くて抵抗したけれど、いつしかこれは運命なのだと、受け入れた。

 『闘士』として、最後に指名されたアスカに、抱かれるまでは。

 足に力が入らない。
 体中がわなないて、自分自身を抱いた。地面が崩れる。眩暈がする。

「巫女様」

 ユルハさんがあたしを支えてくれた。シンと那岐はギリギリの緊張感の中で、彼を見つめている。
 ―― アスカを。

「いいか、シン。落ち着け」

 那岐が忠告する。

「こちらは女性ふたりを庇いながら戦わなくてはいけない。奴を殺すのは二の次にしろ。まずは無事に谷を出ることだけを考えるんだ。いいな」

 シンはこたえない。
 背中ごしでも伝わる殺気が、恐ろしいほどだった。

「ユルハ、オレたちがアスカを引きつけておくから、おまえは巫女を連れてここを出ろ。行き場所は東北東の結界だ、わかるな」
「はい、那岐様」

 ユルハさんは蒼白になりながらも、しっかりとうなずいた。優しくあたしの手を引いて、岩壁の近くに移動する。
 あたしは操り人形みたいだった。視界が8ミリビデオみたいに不鮮明で、時折ノイズが走った。

「おい、ユルハ」

 アスカの声が投げこまれ、ユルハさんの肩がビクリと震える。
 彼の両眼は燃え上がる怒りを立ちのぼらせ、ユルハさんを射抜いていた。

「オレの女を、オレから隠すんじゃねぇ」

 その時、シンが動いた。
 アスカはたいまつを投げ捨てた。雷撃のような激しさで振り下ろす刀を、舌なめずりして自身のそれで迎え撃つ。
 激しい斬り合いが生じた。もつれるように刀をぶつけ合う。
 那岐がこちらへ駆けてきた。

「あの単細胞、オレの話を全然聞いていない。あんなふうに斬りあいをされたら弓矢の援護ができないだろう」
「那岐様、巫女様が」

 ユルハさんが那岐に訴える。震えてうまく立てないあたしを見おろして、那岐は舌打ちした。

「無理もない。――失礼、姉さん」

 那岐はあたしの膝下と首の下に腕を差し入れ、横抱きにした。

「曲がりなりにも奴は『鋼の王』だ。アスカが手練れだとはいえ、後れを取ることは万にひとつもないだろう。いくぞ、ユルハ。闇に乗じてこの場を抜ける」
「はいっ」

 あちこちにある大きな岩に身を隠しながら、入り口を目指す。入り口までの距離、20メートル。すなわちそれは、アスカとの距離だった。
 近づくにつれ、あたしの恐慌は巨大化していった。胸の渦がまた生まれていた。のどを塞ぎ、顔面を多い、脳をかき回した。

「……嫌」

 あたしは那岐の胸もとをつかんだ。

「嫌、嫌だ」

 アスカに近づく。
 あたしにはわかっていた。
 シンと戦いながらも、彼の意識はあたしにある。
 絶対に逃げられない。彼の脇を通り抜けて逃げるなんてこと、できるはずがない。

「捕まる」

 あたしの震える声を聞いて、那岐が抱く腕に力をこめた。

「大丈夫だよ姉さん。アスカはシンで手いっぱいだ」
「駄目、絶対に捕まる。アスカはあたしを逃がさない」

 もしアスカがシンに勝てなくても、アスカはあたしを逃がさないだろう。
 自分がシンに敵わないということなんて、アスカは充分承知のはずなのだ。

 あたしたちは何かを見落としている。
 とてつもなく重大な、何かを。