異変が起きたのは、ひと月後。
わたしが17になって、最初の満月だった。
「おばあちゃん、那岐がいない」
ゲルの幕を上げて、わたしは訴えた。朝餉の時には確かにいたのに、昼くらいから姿が見えなくなった。
「もうすぐ夜がくるのに、なにしてるんだろ。まだ外かな。寒くなってくるのに」
この草原では、昼夜の寒暖差が激しい。昼は少し汗ばむくらいでも、夜は厚手の上衣(ディール)を着ても体が震えるくらいだ。
奥からおばあちゃんがゆっくりと出てきた。手に盆を持っている。
「あ、ごめんね。ごはんの用意してもらっちゃって」
「いや、いいんだよ。今日は夕餉はいらないんだ」
おばあちゃんがゆっくりした動作で布の上に腰を下ろす。
「いらないって、なんで? 那岐がいないから? もうほんとにどこいっちゃったんだろ。わたしもう1回リオウんとこ行ってみる」
「那岐はもう帰ってこない」
静かな声で、おばあちゃんがいった。静かだけど、水たまりに放った小石のように、波紋が広がった。
「帰ってこないって、どういうこと? まさか谷に――那岐は獣化しないはずでしょ」
「獣化ではない。遠くへ行った。那岐は巫子になれなかったからね。これは定められたことなんさ。安心しなさい、きちんと側使えはつけてある。庵も用意してあるから、不自由はない」
「え? よくわかんない……」
わたしはおばあちゃんの前に座りこんだ。
「那岐はいつ帰ってくるの?」
おばあちゃんはこたえず、代わりに盆を差しだした。
「これをお飲み」
「なにこれ。馬乳酒?」
とろりとしたミルク色の飲み物が、陶器の器に入っている。
おばあちゃんはうなずいた。
「ああ、それに似たようなものだね。頭がぼーっとする。夜が過ごしやすくなる」
「ふうん。いいよ、飲む」
そんなことよりも那岐のことが聞きたい。お酒なんて飲む気分じゃなかったけど、断るのも面倒だったからいっきに飲み干した。
やけに甘い。粘度がありすぎて、喉どおりが悪い。
「あんまおいしくないね、これ」
「そうかい」
おばあちゃんは立ちあがった。
「ねえ、那岐のことだけど、どこに庵を作ったの? 会いに行きたいんだけど。いきなり出ていった理由も知りたいし」
「ものすごく遠くさね」
「どうして? おばあちゃんは理由を知ってるの?」
「楓子。もうすぐ客人が来る」
おばあちゃんの、小さくて青く光る目が、まっすぐにわたしに向けられた。
「おまえが『蒼月の巫女』だという話は以前、したね」
「それは聞いたけど、そんなことより那岐は」
「那岐のことはもう忘れるんじゃ」
わたしは絶句した。
「なにいってるの」
「わしは今夜を限りにこのゲルからでてゆく。新族長にスオウがつくことになってな。あそこがわしを迎えてくれるそうじゃ」
「おばあちゃん!」
立ちあがろうとしたら、頭がぐらついた。
地面に手をついて、肩で息をする。
どうして? 体が熱い。
幕に手をかけたおばあちゃんが、肩ごしに振りかえった。その目には、愛しみとも、憐れみともつかない表情が深く落ちていた。
「今宵は、蒼月。言祝ぎ(ことほぎ)の夜じゃ――」
*
どうしよう、体が熱い。
わたしはよろよろと立ちあがり、中央の柱に縋りついた。
体の奥が熱い。ドクドクとうずいている。視界があいまいで、動悸がした。
あの、変な液体を飲んだからだろうか。おばあちゃんは『夜が過ごしやすくなる』って言ってたけど、全然過ごしやすくない。こんなんじゃ眠れない。
那岐のことや、突然出ていったおばあちゃんのこと、いろいろ考えなければならないことがある。でも何も考えられない。わたしはとりあえず、ついたての向こうの寝台に横たわった。ここに辿りつくのも、ひと苦労だった。
ゴロリと仰向けに転がる。下腹部に違和感がある。ジクジクするのだ。体中が熱くて、上衣のボタンを外し、帯をとった。木綿の下着とズボンだけになっても、まだ熱い。
その時、涼しい風がゲルの中に入りこんだ。幕が上がったのだ。
「おばあちゃん? 那岐……?」
朦朧とする意識の中で、呼んだ。
ついたての向こうから姿を現したのは、ユーマだった。わたしは安堵して、頬をゆるめた。
「ユーマ、よかった……。那岐とおばあちゃんが出ていっちゃったの。なのにわたし、気分が悪くって。ごめんね、あの、水を持ってきてくれると嬉しいんだけど。すごく、熱いの」
「……楓子」
ユーマはなぜか酷く、苦しそうな顔をしていた。ベッドに近づき、わたしの前で立ち止まる。