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 3回目の夜の直前、事件が起きた。
 青い月が中天にかかり、スオウがゲルの幕を持ち上げ、わたしが酷く緊張しながら出迎えた時だった。夜闇を切り裂く、人々の怒号が耳をつんざいた。

「獣化だ!」
「捕まえろ! そっちだっ」

 わたしは口に両手をあて、のどを引きつらせた。
 獣化?
 まさか、そんな。どうして。

「ここで待っていろ」

 スオウはひとことそう言って、駆けだした。中央の広場で篝籠(かがりかご)が燃え盛り、あたりを照らしている。その右奥に浮かび上がる白いゲルから、数人の男がもんどりうって出てきた。
 中央にいる人を抑えこんでいる。髪が長い。女性だ。

(待って)

 あのゲルは、確か、ちょっと前に訪ねた。
 リオウとトウリと、ユーマと。リオウが「サルのおじいさんみたいだ」と言って、生まれたての赤ん坊を見おろしていた。

 じゃあ、あれは、ヨリさん?
 赤ちゃんを産んだ、ばかりなのに。

 男たちは荒縄でヨリさんを拘束する。その中にヨリさんの旦那さんもいた。必死の形相で、彼女を抑えている。泣いているのかもしれなかった。
 その間にも、太く伸びた犬歯をむき出しにして、非人語(ひにんご)でヨリさんは唸り声を上げた。髪は乱れ、目は爛々と異常なまでの光を放ち、すでにそれは正気を保った人間ではありえなかった。

 狂気――。
 わたしは自身の影に縛られたように、立ちすくむことしかできなかった。

「よう、待たせたな」

 スオウの声で我に返った。スオウは口を笑みの形にしていたが、滲みでる疲労を隠せていなかった。

「夜は冷えるな。中に入るぞ」

 ヨリさんはどうなったんだろう。聞きたい。でも、聞くのが怖い。
 だって、もう獣化人は出ないんじゃなかったの?
 それは間違いだったの?
 どこから、どこまで。闘気で獣化を抑えるなんてことできないのだろうか。そもそも、『蒼月の巫女』なんて、ありもしない神話だったのか。だとしたら、わたしは――わたしと那岐は、何のために。
 絶望が足を食(は)んでゆく。どこが地面かわからなくなる。

「楓子。今回のことは原因が分かっている。だから妙なことを考えなくていい」

 スオウがさらりと言った。わたしは目をあげる。
 彼の顔には、もうすでにいつもの余裕が戻っていた。

「まだ『蒼月の儀』は2回しか終わっていない。だから本来発揮されるはずの力の半分しか出ていないんだ。このタイミングで『獣化』が出てもおかしくはない。ただ一族内で動揺が広がっているのは確かだ。『闘士』が3人でもなんとかなると説き伏せてきたんだが、慎重派の長老たちが騒ぎ出してる。4人目を選ぶ必要があるかもしれん」
「4人目? 『闘士』が増えるの?」

 わたしはゆっくりと、目を見開いた。
 ユーマとリオウ、そして族長のスオウとは、よく話すし気心が知れている。それ以外の男となると、あとはトウリしか親しくない。一族はみんな家族のようなものだけど、少し距離感がある。
 わたしは心もとなくなって眉を寄せた。

「誰? 誰が4人目なの?」
「それはまあ、候補がいるにはいるんだが、まだ検討中だ。すまないな、楓子。おまえには負担をかける」
「負担どころじゃ、ないんだけど」
「はは、そうだよな。まあそのあたりは勘弁してくれ。おまえら確か、トウリと仲良かったよな。あいつも悪くないんだが『闘士』としては使い物にならんな」

 酷い言いぐさだ。わたしが言い返そうとして口を開いた時、スオウが鼻先に軽くキスをした。

「ス、スオウ」
「てことで急いで部族会議を開かなきゃならん。名残惜しいが今夜は中止だ」

 わたしは目を丸くした。

「中止って、いいの?」
「良くはないが、それよりも火急の議題だからな。本当なら『闘士』は3人、そして『鋼の王』が一人いれば事足りるんだが、まだ王がいない。どこかにはいるかもしれんが、見つからん。だから王がいない間を埋める『闘士』が必要なんだ。その候補者について、検討しなきゃならんからな。ったく、オレもマジメな族長だよ。というわけだから楓子。今夜はぐっすり休め」
「あの、ほんとに、いいの?」
「おいおい楓子、そんな目でじっと見るなよ。こっちは耐えてんだから」

 そう言いつつ、スオウは余裕の笑みを浮かべている。

「まあオレはあの我慢のきかない餓鬼2人とは違ってオトナだからな。がっつくことはしないから安心しろ」

 がっつく……。ユーマが聞いたらショックを受けそうな表現である。
 スオウは「じゃあな」と手を上げて、一族会議用のゲルへと去っていった。わたしは幕を下ろし椅子に腰かけ、息をつく。
 とりあえず今晩は、休息日だ。
 安堵しつつも、先ほどのことがよみがえり、胸が塞ぐ。

(ヨリさんが、獣化した――)

 もうきっと、ここへ戻ることはないだろう。谷へ送られ、やがて彼女は狼となり、人としての己を忘れ、獣の生をゆく。赤ん坊と、夫を忘れてゆく。

「『鋼の王』……」

 スオウがいっていた言葉を、唇に乗せた。
 彼の話は、緊張で凝り固まった頭にはややこしくて頭に入ってこなかったけれど、なぜかこの言葉だけが印象に残った。
 まだ見つかっていない、『鋼の王』。
 いつかその人に会える日が、来るのだろうか。