53

「ふ……――う、ぅっ……」

 幾度となく情欲をそそぎ込まれたのち、やっと解放されて、わたしは枯れ葉の上で背中を丸めて泣いていた。
 月はずいぶんかたむいて、ここからは見えない。

「トウリ――トウリ……」

 ガチガチと震える歯の間から、彼の名を呼ぶ。
 もう死んでしまったんだ。
 トウリはもういないんだ。
 何をしたって、帰ってこないんだ。

 ――神様。

 むき出しの肩に、夜の冷気がひたひたと染みこんでくる。
 寒さと、恐怖と、そして途方のない空虚感に、背中を丸めて震えていた。

 ――神様。もうこれで、わたしから、何も奪わないでください。

 リオウも、スオウも、ユーマも、そして那岐も。

 頑張るから。
 どんなことでも耐えるから、なんでも受け入れるから、だからお願いです。
 もう誰のことも、連れていかないでください。

 背後で、アスカが寝息を立てている。
 彼が近くにいるというだけで、怖くて動けない。
 少しでもここから逃げようとしたら、きっとアスカはすぐに目覚めて、いっそう酷くわたしの体を苛むだろう。

 両膝を抱え、さらに小さく丸まった。
 わたしの精神がもつまでに――狂ってしまう前に、巫女としての年数を終えられますようにと、祈った。

 その時唐突に、ふわりと、やわらかな毛皮が全身を覆った。
 やわらかで、あたたかくて、まるで夢のような感触だった。
 息を飲んで顔を上げると、唇に、誰かの人差し指が触れた。

「――静かに」

 低く、体内まで響く声が、きこえた。
 気配なく現れた『彼』は、片膝を立てた態勢でわたしの上体をそっと起こし、毛皮で包みこんだ。
 息が止まる。
 彼は片腕でわたしを抱きこみ、もう片方の手で刀の柄をつかみ、引きぬいた。その双眸は、寝返りをうつアスカに厳しく、向けられている。

 ――鋼色の髪。
 浅黒い肌に、青い双眼。

 わたしが身じろぎしたら、枯れ葉が乾いた音をたてた。そのせいでアスカが飛び起き、鋼色の髪の青年に気づいて瞠目した。地面に転がっていた己の刀をつかみとる。
 わたしは喉の奥で悲鳴をあげた。アスカに捕まることを恐れた。青年の、わたしを抱く腕にぐっと力がこもる。まるで大丈夫だ、と言い聞かせるようだった。
 アスカの目は怒りに燃え、青年を睨みつけている。

「おい、おまえ。そいつはオレの女だ。馴れ馴れしく触ってんじゃねえ」
「傷だらけの女性を裸にして転がしておくような男には、説得力がないのだが」
「いいんだよ、そいつはただの雌豚なんだからそれくらいの扱いでちょうどいいんだ」

 見下すように笑んで、アスカは言う。わたしは肩を震わせて、無意識に青年の上衣をつかんだ。青年の青い目がチラリとわたしを見おろし、再びアスカに向かう。アスカはじっと青年を見て、意識を集中しているようだった。
 ――いけない。
 アスカは、幻術を使おうとしている。
 最悪、この人が殺されてしまうかもしれない。わたしはとっさに身を乗り出し、声をあげた。

「やめてアスカ! わたしがそっちへ行くから――、っ」

 強い力で抱きとめられ、わたしは息をのんだ。ざわり、と青年の全身から見えない何かが立ち昇る。
 アスカがきつく眉を寄せた。

「おまえ――何者だ?」

 アスカが動揺している。幻術が、効いていないのだ。
 幻術の存在を知る『月狼の民』であれば、ある程度の闘気を持てば幻術を無効化できる。現に、ユーマやアスカの幻術は、スオウには効きにくい。
 けれど普通の人間が幻術を跳ね返すことは不可能のはずだ。
 青年が眉を寄せていう。

「おまえこそ、妙な技を使うな。魔性の者か」

 アスカは舌打ちして、刀を構えたまま後ずさった。わたしたちの背後をチラリと見る。

「ちっ、もう勘づきやがったか。間が悪いな」
「――馬が来るな」

 青年がぽつりと言う。

「2匹、3匹――。あとは狼が4匹。ずいぶん急いでいる。おまえを追っているのか」
「ご名答」

 アスカは革袋をつかんで素早く立ちあがり、刀の切っ先をこちらに向けたまま、背後にいた馬のロープをほどいた。

「ここは引く。だが楓子。必ず攫いに行くからな」

 ニィ、と笑んでアスカは馬に飛び乗った。戦慄が背筋を駆けあがり、呻き声がもれる。風の速さで乗馬したアスカは夜闇の奥へ消えていった。

「……大丈夫か?」

 腕の力をゆるめ、青年が覗きこむ。わたしはまだ震えがおさまらなくて、毛皮の前合わせをきゅっと引きよせた。

「だい、じょうぶ……です。あの、ありがとうございました……」

 もつれる舌を動かして、なんとか言葉を告げた。彼は痛ましげにわたしを見つめたあと、枯れ葉の上に無残に散らばる衣服の残骸に目を移す。
 明らかな凌辱の痕跡に、わたしは震えながらうつむいた。
 やがて彼は、低い声でいった。

「オレはシン。近くの遊牧民のゲルで世話になっている者だ。狩りに出たが思うようにいかず、昨夜ここで野営した。今夜はもう少し離れたところで仮眠を取っていたんだが、妙にザワつく気配がして、戻ってきたんだ」

 あのたき火の後は、この人の――シンのものだったのか。
 わたしはうつむいたまま、口を開く。

「わたしは楓子。……あの。事情は……なにから話して、いいのか」

 今でさえこんなにも体が震えているのに、状況を説明することなどできなかった。彼は何も聞かずに、自分の上衣も脱いで、わたしの肩にかけて包みこんだ。きつく眉をよせ、痛みを含んだ声音で言う。

「こんなに震えて。すまない。オレがもう少し早く来ていたら」
「そんなこと、ない、です。あの、わたしは」

 ――わたしは、自分から、望んで。

 息がつまった。涙があふれ、零れおちる。ひと晩じゅう泣いて、目が腫れてひどく重い。
 うつむいたまま声を殺して泣いていると、ふいに、たくましい腕に抱きすくめられた。片膝をついた彼の胸に、ひたいが押しつけられる。草原と風の匂いがした。

「泣かないでくれ」

 何かに耐えるように、彼がいう。

「君が泣いていると、ひどくつらい」
「……どうして?」

 懐かしい匂いがする。
 初めて会ったはずなのに、こうして彼の腕の中にいると、安堵感が波紋のように広がっていく。

 その答えを、わたしはもう、知っているのかもしれない。
 鋼色の髪と青い双眸が、それを教えてくれたのだ。

「わからない。でも、見ていられない。どうすればいい? 何をすれば泣きやむ? 教えてくれ、なんでもする」

 抱く腕に力がこもる。途方もない安心感の中で、わたしはそっと、目を閉じた。

 やっと会えた。

 トウリ。
 ごめんなさい。わたしは、遅すぎたのかな。トウリ――

 意識は白濁し、ゆっくりと、沈みこんでいった。