「――……楓子、楓子」
ゆるく揺さぶられながら名を呼ばれて、うっすらと目を開ける。
「ああ楓子、良かった」
切なげに言って、ユーマはわたしをきつく抱きしめた。
肩ごしに見る空は、まだ暗い。木々が貧弱な腕を、星々に伸ばしている。
「ゆー、ま?」
声がかすれて、自分のじゃないみたいだ。
わたしはくたりと座りこんだまま、同じく腰を落としたユーマに抱きしめられている。あたりをみまわすと、馬からおりたスオウとリオウが、安堵をにじませてこちらを見ていた。彼らの飼い狼たちが傍らに腰を落ち着けている。
ユーマが少し体を離し、頬をてのひらで包んだ。
「顔を見せてくれ。ああ、こんなに傷だらけになって。トウリに続いて、おまえまで失ったら、オレは――」
ユーマが声を詰まらせる。わたしを抱える腕が震えている。
「ごめんなさい」
「おまえはこんなことしなくていい。しなくていいんだ」
再びユーマの胸に頬を押しつけられる。わたしは震える彼の背中に手を伸ばし、そっと抱きしめた。
「君の名は?」
スオウの声が響く。それはわたしとユーマを通り越した背後へと、向けられていた。
ごく近くから、低い声がこたえる。
「シンだ」
「オレは一族の長を務めている、スオウという。彼女を助けてくれたんだな。礼をいわせてくれ」
「やめてくれ。オレは遅すぎた」
悔恨のにじむ声で、シンがいう。
彼の声音は心の奥へ波紋のように心地よく広がる。
ふっと、スオウの気配がやわらいだ。
「ああ、本当に、遅すぎたようだ。だが、致命的な遅れではないと信じたい」
「? どういうことだ」
ユーマとわたしは、シンの方に目を向ける。彼はいぶかしげに、スオウを見つめている。
スオウもユーマも、リオウも、彼の姿をひと目見ただけできっと、わかっただろう。
「楓子。彼の目は何色に見える?」
スオウの問いに、わたしは一度目を伏せた。そして、まっすぐにシンを見る。
夜闇の中でも、一際冴えて光る、氷のように透きとおった――
「青」
スオウがザっと片膝を地面につき、頭(こうべ)を垂れる。それに続きリオウも同じように跪いた。
ユーマも、少し体をずらして、わたしを片腕で支えたままそれにならう。
シンは戸惑いながらこちらを見返した。
「待ってくれ。これはどういう」
「『鋼の王』」
凛としたスオウの声が、静寂(しじま)に響く。
「お待ち申していた。よくぞ我が巫女を見つけられた――」
「巫女?」
当惑した様子で、シンがわたしを見た。
月明かりの下で、彼の目は美しく映えていた。
「蒼月の今宵、貴方を我が一族にお迎えしよう」
*
ユーマの馬に乗せられて、月狼の集落に戻ってきた。狼を柵に戻し、馬を厩につないでいると、背後に人の気配がした。とっさにスオウがシンを餌籠(えさかご)の後ろに隠す。
振りかえると、4人の長老たちと、その後ろにおばあちゃんが入ってきた。厳しい表情に、身が竦む。
「巫女よ。我々の承認なしに、勝手に動き回ることは許されない」
最長老ウンガが、叱咤する。背の低い、けれど深いシワの奥と、落ちくぼんだ目の奥に、威厳が刻まれている。
「ごめんなさい」
「して、アスカはいずこへ?」
「オレたちが駆けつけた時にはもう逃げたあとだった」
スオウがこたえると、最長老の隣で、痩せた長老がため息をついた。
「大事な『闘士』を取り逃がしたのか。何ということだ」
大事な闘士。
その言葉に、胸が震える。
こみあげてくるものは、怒りなのか恐怖なのかわからなかった。
「今夜はもう休ませてやってくれ。明朝会議を開く」
スオウがいって、わたしの肩を促し外へ出ようとする。
その背中に、最長老が声をかけた。
「それで、巫女よ。『その様子』だと、アスカとの蒼月の儀を、とどこおりなく終えたのだな。よくやったぞ」
全身に悪寒が走り抜け、震えた。
その様子とは、この、明らかな凌辱のあとを、指しているのだろうか。
ユーマが鋭く長老たちを睨みつけた。
緊張感が張りつめるところに、リオウの間延びした声が投げこまれる。
「そういうのも含めて、ぜんぶ明日でいいじゃん。もうオレたちクタクタなんですよ。真夜中にたたき起こされて寒空の下、馬で駆けてさ。老いぼれのじーさんたちはぬくぬくストーブの前で待ちぼうけしてただけなんだからそりゃ楽だよなぁ。あんまり楽ばっかしてるとボケるのも早いっすよ」
「な、なんという言い草だ」
「リオウ、言葉を改めんか!」
長老たちが喧々囂々(けんけんごうごう)とリオウにつめ寄る。
その時おばあちゃんがわたしに視線を送り、「今のうちに戻りんさい」と口の動きだけで促した。スオウはわたしの肩を抱えるようにして、厩を出てゲルへ入った。しばらくして、長老のお小言を終えたリオウと、ユーマが戻ってくる。そして最後にシンが幕をくぐった。
「あーめんどくさかった」
リオウがうんざりした表情でため息をつく。彼はいつも陽気だから、こういう顔をするのは珍しい。ユーマが燭台とストーブに火をともす。瓶(かめ)から水を汲んで鍋に注ぎ、ストーブの上に置いた。
わたしは自分の姿を見おろす。
シンのショールと上衣を纏ってはいるものの、ズボンははいておらずかろうじて革靴を引っかけているだけだった。体中に傷と土と、枯れ葉が貼りついている。髪もボサボサでもつれ、酷い状態だ。
惨めさが押しよせてくる。こんな状態の自分を、みんなに見られたくなかった。
スオウに促され、ストーブの前の椅子に腰を落ち着けた。冷え切った足先からじんわりと熱が戻ってくる。お湯が沸き、ユーマが鍋を下ろして大き目の手拭いを浸した。
「何枚か持ってきたから、これで体を拭いてくれ。新しい服は籠の中に入れてある。それが終わったらもう今夜は休むんだ」
「ありがとう、ユーマ」
「大丈夫か? 必要なら側使えの女を呼んで手伝わせるが」
「ひとりでできる。大丈夫」
顔を上げてユーマを見た。彼の、いつも冷静で優しい双眸は酷く傷つき、揺れているように見えた。
「ごめんね。今夜はありがとう。もう、ひとりにして」
「わかった」
ユーマはわたしの乱れた髪をすくように触れ、いった。
「だがおまえが謝ることはなにもない。今夜は何も考えず、ゆっくり休んでくれ。また明日、様子を見に来る」
「うん」
「よし、じゃあシンはオレとリオウのゲルに来い。あとはお婆がいるだけだから、ユーマのとこより気楽だろ。今あんたのことをクソジジイどもに紹介したら朝まで寝られなくなっちまう。こっそりだぞ、こっそり」
「いや、オレはここに残る」
当然のように、シンが言った。リオウがびっくりして、シンを見る。
「えっ、本気? 今から楓は素っ裸になって体拭いて着替えて寝るんだから男は出なきゃ駄目でしょ」
身もフタもない言い方だが、リオウが正しい。けれどシンは悪びれもせずいう。
「彼女の裸ならもうさっき見た。自分で拭くといっても背中はやりにくいだろうから手伝う。それに彼女は体力がなくフラフラだ。うまく着替えられない可能性が高いから、それも手伝う」
とたんに、ゲルの中が不穏な空気になった。
特に、ユーマの様子が不穏だ。
「それに、彼女は林の中で酷く泣いていた。一人で寝るのは寂しいだろうから、添い寝しようと思う」
「おい、シン」
ユーマが唸るようにいう。
「どこの世界に、出会って間もない女性の体を拭いて一緒に眠る男がいるっていうんだ?」
「他の人間のことはわからない。オレはただそうしたいだけだ」
「駄目だ」
「なぜだ?」
「駄目といったら駄目だ」
「だからなぜだと聞いている」
2人の間に火花が見える。
わたしはぼうっとした頭で、それを見ていた。
結局何度かやりあった結果、最初の提案通り、シンはスオウのゲルに泊まることになった。落ち着くところに落ち着いたみたいだ。
「泣きたくなったら呼べ。ひとりで、泣くな」
帰り際に、切ない瞳でシンがそういった。
ユーマに小突かれるようにして出ていったあと、静寂がゲル内に満ちる。
いろんなことが、いっきに起こった、夜だった。
重い腕を持ち上げて、上衣とショールを床へ落とす。その仕草だけで、体中に痛みが走った。手近の卓から手拭いを取り、そっと体を拭く。
こびりついた土の汚れが、なかなか取れない。あちこちが赤く腫れ、傷がついているから、思うように拭くことができない。
延々と体をこすりながら、わたしはいつのまにか、涙を流していた。
ひとりで泣くなとシンに言われたのに、わたしはそれを選んだ。