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 翌日、身支度をすませたシンは、以前お世話になっていた遊牧民のゲルに行ってくると告げた。月狼のゲルに住みはじめてから10日以上経つ。

「アルトゥたちがずいぶんと心配しているかもしれない。帰りは遅くなるかもしれないが、昼過ぎには戻ってくる」

 シンを送り出すと、わたしもゲルを出た。厩にいき、馬に鞍を取りつけていると、リオウが声を掛けてきた。

「遠乗りするなら、ついていくけど?」
「少し丘に寄ってから、『狼獄(ろうごく)の谷』に行きたいの」
「へえ。いいよ」

 リオウは瞳の色を深くして、微笑んだ。

「でも午前中だと、トウリの母さんと鉢合わせになるから、午後にしたほうがいいんじゃない?」
「いいの。様子が気になるから」
「彼女と会ったの?」

 軽い口調だけど、リオウの目は探るように見てくる。わたしは目を伏せた。

「昨日、少し話したの」
「オレもユーマと一緒に何回か訪ねたよ。ぜんぶ門前払いだったけど。ルリさん、谷に行く以外にめったに家から出ないみたいだし」

 知らなかった。
 どれだけ自分のことでいっぱいいっぱいだったんだろう。
 リオウは棚から自分の鞍を取りだして、笑う。

「丘で花を摘むんだろ? 綺麗なのがたくさん咲いてるといいな」

 クランから近いこの丘には、寒い時期でも咲く花がある。10本ほどを摘んで束にした。青いのと、白いのと。ささやかで、寂しげな花束になった。
 手袋をはめなおして、再び馬に乗り『狼獄の谷』へ向けて駆けた。
 谷は朝でも薄暗く、底冷えがする。帽子もかぶってくればよかった。毛皮のショールを巻き直して、馬からおりる。

「トウリが眠ってるのは、もう少し先だよ」

 馬をつないでから、リオウの案内に従って谷を進んだ。どんよりした曇り空が、谷の形に細長く切り取られている。

「リオウは来たことがあるの?」
「うん、ユーマと2人でね」
「声をかけてくれればよかったのに」

 リオウがチラリとこちらを見た。口端で笑う。

「トウリが亡くなった夜、楓はアスカのもとへ行った。トウリの話題からなるべく遠ざけておきたいって思うのは、当然だと思わない?」
「でも、トウリは友達だよ」
「知ってるよ」
「わたし、ユーマに酷いことをいったかもしれない。『獣化』した時のことを、聞いてしまったの」
「勇気あるなぁ。オレそういうの駄目。聞いてらんない」

 ふと、リオウは立ち止まった。かしゃり、と腰の刀が鳴る。いつもサボっているリオウでも、さすがに外へ出る時は、刀と弓矢を持ってきている。
 彼の視線を辿ると、不自然に盛り上がった土の前に、ルリさんが佇んでいた。
 本来、人は亡くなれば森の中に安置される。7日後に見に行くと、骨しか残っていない。その骨を、土に埋めるのだ。けれどトウリは『獣化』していたため、耳は尖り、犬歯は大きく伸びて、爪が鋭く突き立っていた。だからすぐに燃やして埋めたと、スオウが言っていた。
 わたしたちの気配に気づいて、けだるげにルリさんが振り返った。長い髪を後ろでまとめているけれど、幾すじかほつれて、頬に落ちている。

「何しに来たんです」

 くぐもった声でルリさんが言う。青い目が濁っている。わたしとリオウは一礼した。

「花を、飾らせてもらえますか」
「……」

 ルリさんはのろのろと土の前を離れ、場所を譲ってくれた。わたしとリオウは跪き、土の前に花束を置く。
 ここに、トウリは眠っている。こんな冷たく、寂しい場所で。
 わたしはトウリの魂が、草原の風に乗ってどこまでも自由に舞い上がることを祈り、目を閉じた。どれくらいそうしていただろう、リオウがわたしの肩に手を置いた。

「そろそろ行こう」

 体を重く動かして立ち上がり、ルリさんを振り向いた。お礼を言おうとしたのだ。でも、彼女の目を見た途端に、背筋がゾクリとした。
 先ほどまで濁っていた目は爛々と輝き、瞳孔が開ききっていた。細かく震えながら髪を乱し、歯を噛みしめる様子はまるで鬼のようで、思わず後ずさりそうになる。ぐっとこらえてゆっくりと頭を下げた。

「花の手向けをお許しくださり、ありがとうございました」

 リオウも一緒に頭を下げる。ルリさんから言葉はなかった。顔を上げると、ルリさんの顔が不自然に歪んだ。色の失せた唇がめくれ、ニィ、と笑みの形を取る。異様な表情に戦慄を覚えた。リオウも同じだったらしく、隣からピリピリした緊張感が伝わってくる。

 もう一度トウリを振りかえってから、その場を離れる。来るとき体は重かったけれど、さらに倍になってのしかかってきた。
 無言で帰り道を進んでいると、ふいにリオウがいった。

「なんか、おかしくない?」
「え?」

 リオウの足が遅くなり、ついに完全に止まる。背に負った弓を引きぬいて、矢筒に手を添えた。

「なに、狼?」
「いや、ここの狼はオレたちを襲わない。狼じゃなくて、人の気配がする。息を殺して、こっちを覗ってる」
「人、って」

 血の気が失せた。足もとから震えがのぼってくる。

「まさか、アスカが」
「!」

 厳しい表情で、リオウが矢を弓につがえ、背後に照準を合わせた。直後、叫び声が谷を引き裂いた。
 ルリさんの声だ。

「楓、ついてきて!」

 リオウが走り出す。走りながら、矢を射た。信じられないことに、矢はまっすぐに打ち出され、ルリさんを襲おうとした男の頭部に直撃した。
 わらわらと、横穴から男たちが出てくる。まだ若い。4人、5人まで数えたところで、リオウが続けざまに矢を放ち、2人の腕を吹き飛ばした。

「ルリさんを」

 指示を出して弓を負い、腰から刀を引きぬいた。ルリさんの首もとに、男が刀を突きつける直前に、横薙ぎに払ったリオウの刃が腹を裂く。断末魔とともに倒れこむ男に怖気づきそうになりながらも、わたしはルリさんの細い腕をひいて、壁ぎわに避難した。振りかえると血の海の中、きらめくリオウの刀が疾り、最後の1人を脳天からかち割った。
 男はぶるりと1度大きく震えて、血だまりの中に倒れた。剥いた白目はすぐ、自身の血に赤く染まる。
 リオウはひとつ大きく息をはいて、懐から手拭いを取り出し、刀身をぬぐった。

「終わったよ」

 鞘におさめ、何事もなかったかのように笑みながらこちらを見る。わたしは茫然と、リオウを見つめることしかできなかった。
 リオウは死体を見おろす。全部で7体あった。

「見覚えのある顔ばかりだな」

 わたしは息を呑んだ。言われてみて初めて気付いたが、確かに彼らは月狼の集落で見た顔ばかりだ。けれど最近は見かけなくなっていた。

「アスカの取り巻きだよ。ま、下っ端ばっかみたいだけど」

 その名前に、身震いする。口を開きかけた時、リオウの目が愕然と、見開かれた。

「ルリさん」

 リオウの唇からその名前が零れたと同時に、チクリと冷えた尖りが脇腹を刺した。振り向こうとしたら万力のような力で首元を抱えられ、脇腹を火かき棒を押しつけられたような灼熱が貫いた。

「っつ、う……!」
「楓っ!」

 リオウが叫ぶ。
 震える視界で首だけを後ろに向けると、瞳孔の開ききった目とかちあった。

「ああ、可愛いトウリ」

 耳もとで陶然と、ルリさんがいった。

「もう、寂しくないからね」

 ぐっと体が押され、さらに刃がねじ込まれた。灼熱の痛みに、喉がひりついて視界が真っ暗になる。リオウが呼んだ。けれど激しい耳鳴りにかき消され、あらゆる音が?みこまれた。
 わたしの意識は、そこで途切れた。