68

 『狼獄の谷』の入り口付近は、恐慌に陥っていた。

「なんだ、おい! ぐあッ」

 ぐしゃり、と男の腹が、不可視の巨大な手で握り潰された。人形のように倒れ、雪に赤い血飛沫と肉片を散らす。残り3人になったアスカ配下の若者たちが、混乱に陥って逃げ惑う。
 リオウだ。
 『あの状態』のリオウは敵味方の区別がつかないはずだ。シンたちを助けなくてはいけない。雪を跳ね飛ばすように全力で駆けていると、ふいに岩陰から腕が伸びて、腰をからめとられた。

「なに――」
「しー、静かに」

 てのひらで口が覆われる。その無遠慮な触れ方よりも、声の主の方に驚いて、わたしは目を上げた。
 明るい青の双眼を、嬉しそうに細めてリオウがいう。

「久しぶり、楓。また会えると思ってなかったから、嬉しいよ」
「リオウ?」

 てのひらをひっぺがして、わたしはいった。

「どうして普通なの? 前みたいにおかしくなってないなんて、おかしいよ」
「ややこしい言い回しだけど、うん、言いたいことはわかるよ。でもほら、人間って成長するものでさ。あの時以来、血反吐の中を這いずり回って、死ぬ思いでコントロールできるように頑張ったんだ」
「そんな簡単にできるようになるものなの?」
「いやだから簡単じゃなかったって。でもそうだね、コントロールできるようになったのはオレの『獣化』が進行し始めてからだよ。というか楓子、記憶戻ったの?」
「うん」
「そっか。ここは良かったというべきなのかな」

 リオウはわたしの肩を引っ張って岩の影に隠し、アスカ一党の方に目を向ける。3秒後、ぐちゃっというおぞましい音と、男の断末魔が夜空に響き渡った。
 あそこにはシンたちがいるはずだ。彼らはどんな思いであれを見ているのだろう。

「『獣化』しつつあるってこと、ユーマから聞いたわ」
「あ、ほんと? ユーマの馬鹿野郎は元気そうだった?」
「全然、元気そうじゃなかった」
「馬鹿は死んでも治らないけど、あいつは1回は死んどいたほうがいいよね。途中でスオウに会わなかった? そっちに行ったはずなんだけど」
「会わなかったわ。スオウは目立たない獣道を使ったのかもしれない」
「行きちがいか、残念。で、何の話してたんだっけ」
「だから、『獣化』したらコントロールが効くようになったって話」
「そうそう。獣に近づいたら、獣の力を意のままに操れるようになったっていう、わかりやすい話」

 もう一度、向こうから男の断末魔が闇を裂く。思わず耳を塞ぐと、リオウが口の端に笑みを浮かべた。こういう顔をした時のリオウは、ろくなことをいわない。わたしは思わず身構える。

「楓。こんな時になんだけど」
「なに?」
「すっごくいい匂いする。久々の楓、死ぬほど可愛い。キスしてもいい?」
「……リオウ」

 低い声でにらむと、リオウは明るく笑った。

「冗談だよ。いや冗談じゃないけど。でも楓。ひとつ、いっておきたかった。あの時は怖がらせてごめん」

 サラリと言われて、言葉につまった。
 明るい青の目が、まっすぐにこちらを見つめてくる。

「ごめん。あの時は頭の中が真っ赤になって抑えられなかった。自分でも初めての体験だったんだ。1回目は赤ん坊だったから覚えてなくてさ」
「いいよ。わたしはリオウに助けてもらったよ」
「そんなことない。たぶん今でも、楓子の心を助けることはできてない。だからオレは命をかけるよ」

 またしてもサラリとリオウがいうから、聞き逃しそうになる。わたしは慌てて首をふった。

「また馬鹿なこと言って。アスカは『獣化』しつつあるらしいの。リオウの力があれば大丈夫だよ」
「ああやっぱりアスカもそうなんだ。じゃあオレの力は使えない。これは『獣化』しつつある一族には効かないんだ。狼にも効かない。けだものの力はけだものに効かないようになってるんだよ」

 わたしは絶句する。リオウは明るい笑みを浮かべた。

「楓は世界で一番幸せにならなきゃいけない。オレがその道を作るんだ」

 上体をかがめて、わたしの頬に軽いキスを落とす。そうして微笑みながら体を離すと、岩の向こうで、最後の叫び声がこだまする。
 わたしの肩にかけられた、ユーマのショールをきゅっと合わせて、リオウはいった。

「ここで待ってて。ケリをつけてくる」

 みんながわたしを遠ざけようとする。渦の中心から、逃がそうとする。
 確かにただの『被害者』なのかもしれない。でもつねにわたしは、台風の目だった。わたしが発する少しの言葉や、目線や、手足の動きが、今の状況をなによりも強い力で引きよせたのだ。
 疾走するリオウには追いつけないけれど、わたしもできる限りの速さで走った。谷の入り口間近は、開けた広場のようになっていて、そこにシンたちが閉じこめられた檻がある。岩陰に隠れて様子を見ると、リオウが刀を抜いて、10匹以上の狼と戦っていた。アスカの姿はない。

 まずユルハさんのところへ行って、震えている彼女に「すぐ助けるからしばらく待っててください」と声をかけた。彼女は那岐の結界に守られている。濡れた瞳で、小さくうなずいた。
 記憶を手繰り寄せて、鉄獄の鍵をかけた男の背格好や上衣の色を思い出す。遠目から観察して、ちょうど右手にある岩の近くに倒れている人がまさにその男だとわかった。
 彼の体は左半分しかまともに残っていない。白い雪に染みこむ大量の赤が、リオウの力の残虐さを表している。

 ぐっと息をつめて、近づく。岩場の影に逃げこもうとしていたのか、うつぶせになって手を前に伸ばしたまま絶命している。彼のベルトに、小さな革袋が引っかかっているのを見つけた。震える指先でそれを取り、中を探ると鉄製の鍵があった。
 わたしは顔を上げ、周囲を見る。狼たちはリオウとの戦闘に夢中で、こちらに気づいていない。雪を踏みしめて慎重に檻へ向かうと、すぐそばにオウルが、荒い息をして横たわっているのが見えた。まだ息がある。那岐の力なら、治せるかもしれない。

「楓子?!」

 シンがこちらに気づいて、鉄柵をつかんだ。那岐も驚いたように目を見開いている。わたしは人差し指を唇にあてながら、鍵を使って扉を開けた。

「声出しちゃ駄目。静かに出て。アスカがどこにいるかわからないの。スオウがユーマのところに行っていて、リオウはほら、あそこで狼と戦ってる。ああ、数がさっきより増えてる。シンお願い、リオウを加勢して。那岐はオウルのケガを治し――」
「楓子」

 腕が伸びて、わたしの体に巻きつき、引きよせた。がしゃり、と鉄の扉が音を立てる。苦しいほどに抱きしめられる中で、低く押し殺した声が降ってくる。

「またおまえ、傷だらけになって。オレはいつも肝心なところでおまえを守れない」
「大丈夫だよ。わたしは、大丈夫。でもシンがいなかったらきっと、今までも、大丈夫じゃなかったよ」
「顔を見せてくれ。擦り傷がいくつもできている。血も。痛かっただろう」
「ほんとに、大丈夫だから。シン早く出ないと、っ」

 シンの唇が、頬の擦り傷に押しあてられた。かすかに滲んていたらしい血を、熱い舌がなめとってゆく。

「ち、ちょっとシン――」

 シンの唇があごを伝い、首すじの傷にうつったところで、大きな咳ばらいが間を割った。

「後ろがつかえてるんだ、さっさとでてくれないか」
「な、那岐」

 シンの力がゆるんだすきに、慌てて腕の中を抜け出した。我に返ったシンが鉄獄から出てくる。その後ろを、那岐が続いた。

「まったく、相変わらず進歩がないな『鋼の王』は」
「那岐、オウルをお願い」
「ああ、わかってる。……姉さん?」

 オウルに駆け寄ろうとした足をとめて、那岐は振りかえった。

「記憶が、戻ったのか?」
「うん、そう。さっき思い出したばかり」
「そうか。そのままでいてほしいような気もしていたけれど。でも、久しぶりに姉さんに会えた気がするよ」

 那岐は淡く微笑んで、オウルのところへと駆けていった。那岐は以前、わたしの脇腹の傷を術力で治してくれたことがある。きっとオウルのことも助けてくれるだろう。
 シンを振りかえると、彼は茫然と佇んで、わたしを見つめていた。乾いた声で、いう。

「記憶が?」
「うん。ぜんぶ思い出したよ。いろいろとごめんね、シン。わたしが記憶をなくしている間、つらい思いをさせたね」
「そんなことはない」

 シンはかぶりを振る。再びわたしの腰を引きよせて、腕の中に閉じこめた。うなじにひたいを押しつけて、低くかすれた声でいう。

「そんなことはない。楓子。おまえはいつも人のことばかりだ。一番つらいのは、おまえだ。この上衣はどうした? 男のものだろう。ズボンもはいていないし――」
「ズボンはその……破けてしまって」

 シンの腕に、痛いくらい力がこもる。歯を噛みしめ、呻き声を上げるシンの背中を、わたしはぽんぽんと叩いた。

「上衣は、ユーマがくれたの。ショールもだよ。この上衣、膝下まであるからこうして帯を締めれば大丈夫」
「あいつは、裏切り者だ」
「うん、そうだね」

 わたしはそっとシンから体を離した。

「シン。リオウを助けてあげて。狼がどんどん集まってる。リオウは死ぬ気なの」

 シンは苦しげに顔をゆがめる。

「それよりもオレはアスカを探しに行く。奴を殺して、今度こそおまえを遠くへ連れていく。『月狼族』の牙が届かない場所へ」
「『月狼』はもうすぐ滅びるわ。リオウもスオウも、アスカにも、『獣化』の兆しがある」

 シンが息を止めた。わたしは彼の、氷のように透きとおる目を見つめながらいう。

「アスカは逃げない。きっとここへ来る。わたしもここから動かない。だからシン、最後までここで、わたしを護って」