春雷だ。
東の空を見る。黒く湧き上がる雲が青空を覆い隠していた。
馬首をかえし、楓子を見る。雷鳴に動揺する馬を、たずなを引いて懸命に静めようとしていた。
「楓子、こっちだ」
馬を近づけると、細い腕がこちらに伸ばされた。脇の下をつかんで引きあげ、自分の前に座らせる。たずなをしっかり握らせて、オレは彼女がさっきまで乗っていた馬に飛び移った。
暴れる馬を無理に御すことはせず、ゆっくりとなだめながら、徐々にたずなを引いていく。やがて鼻息を静め、馬は平常をとり戻した。
「ありがとユーマ。ごめんね、大きな馬に乗るのまだヘタなんだ」
「だんだん慣れていけばいい。それよりもうすぐ雨が降る。今からクランに戻っても間に合わない。雨宿りできる場所に行こう」
「そんな場所あるの?」
「狩りの時によく使うんだ」
大岩がえぐれて、半円を描く場所がある。そこへ馬を走らせて、駆け込んだ時にはもう、黒い雲が真上に辿りついた。稲光が空を裂き、雷鳴が落ちる。楓子は両手で耳を塞いだ。馬たちは2度目のせいか、さほど動揺していない。
直後に、激しい雨が岩の天井を叩いた。
「すごい雨……。もうすぐ夏なのに」
「楓子、あまり離れるな。雨に濡れると冷える」
手を伸ばすと、楓子は素直に隣に腰を下ろした。小さな肩に腕を回して抱きよせる。
「寒くないか」
「うーん、ちょっと寒い。最近昼間は暑いくらいだから、油断しちゃった」
「ストールは?」
「持ってきてない」
自分の革袋から薄い布を取りだす。楓子をそれで包んで、雨の向こうを見た。
「豪雨だな。5歩先も見えないくらいだ」
「しばらく動けないね」
「何て言った? 雨の音がすごくて、聞きづらいんだ」
楓子はオレの耳もとに唇を寄せた。
「雨がやむまでここにいようね、って言ったの」
「そ、そうだな」
思わず身を引く。聞きづらいなんて言うんじゃなかった。
こんなところ、リオウに見られでもしたら10日間はネタにされる。
けれど楓子は、不満そうに見上げてきた。
「なんで逃げるの」
「べつに逃げてるわけじゃない。だいたい楓子がひっつきすぎなんだ」
「ユーマがこっちに来いって言ったんじゃない」
言った。しかもその後、肩を抱いて引きよせた。でもそれは幼いころからの無意識の行動で、けっしてやましい思いがあったわけではない(多分)。楓子は昔から寒がりで、よく体をくっつけてきたから。
「ちょっと待て。おまえ、他の男にもこうやってベタベタくっついてるのか」
「他の男ってだれ? 那岐とかリオウのこと?」
「那岐はいいが、リオウはやめろ」
「なんで?」
「楓子は知らないだろうが、あいつは相当チャラくてだな、とにかく警戒が必要な奴なんだ」
「ふーん。よく分かんないけど、分かった。じゃあユーマはいいの?」
「オレは」
言葉につまった。大きな瞳にじっと見つめられて、鼓動が高鳴る。
「オレは……いい。大丈夫だ」
むしろオレだけにくっつけ、大歓迎だ。
心の声を押し殺し、楓子から視線を外した。いや駄目だ、実際にくっつかれたら動揺してしまってリオウのネタにされてしまう。
「寒くなってきちゃった。ユーマ、これ借りていいの? 冷えるよね」
「気にするな。ほら、もっときつく巻け。首もとがゆるんでるぞ」
肩から落ちかけているストールを引きあげて、前をきゅっと合わせる。
「ありがと。ユーマって、お兄ちゃんみたい」
「お、お兄ちゃんだと?」
「うん。うちには那岐っていう可愛くない弟がいるけど、上の兄弟がいないから、もしお兄ちゃんがいたらこんな感じなのかな」
「オレは……! オレは、楓子を妹だなんて思ったことはない!」
思わず大きな声を出してしまった。楓子がびっくりしたように目を丸くする。
「ごめんなさい……。そうだよね、イヤだよね、わたしのお兄ちゃんだなんて」
「いや、そういうわけじゃ」
「わたしだけ、クラン内で巫女って呼ばれて、訳わかんない存在だもんね。一緒にいてくれるのも、スオウの命令なんでしょ。リオウが昔言ってたもん。兄さんに言われたからわたしに声を掛けたんだって」
「あの馬鹿……!」
心底イラついて舌打ちする。楓子が怯えたように肩を竦めた。
「怒らないでユーマ。ごめんなさい」
「ああ違うんだ楓子。そういう意味じゃない。そうじゃなくて」
説明しようとするが、言葉が続かない。妹じゃなくて女として見ている、とでも言うのか?
考えあぐねていると、みるみる楓子の瞳に涙が溜まっていった。
「ごめん、なさい。もう、ひっつかないから。お兄ちゃんだなんて言わないから」
「楓子、オレは」
「ユーマが好き。大好きなの」
「……っ」
心臓が脈打った。肌寒いはずなのに、皮膚が熱い。
「だから、一緒にいて」
地面に置いた俺のてのひらに、楓子のそれが重ねられた。心臓が早鐘を打って、壊れそうだ。
「ふ、楓子」
「ずっとそばにいて、ユーマ」
きゅっと、小さなてのひらがオレの手をつかんだ。グラつく視界の中、潤んだ瞳で見つめられて、誘われるように、柔らかそうな唇に自分のそれを近づけていく。
触れ合う直前に、楓子が言った。
「一番仲のいい、友達として」
「………。」
ハイ、解散ー。
「あ、雨やみそう」
くるっと顔の向きを変えて、楓子は無邪気に笑う。
「見てユーマ。もうすぐクランに帰れるね」
「……ああ、そのようだな」
心の中で滂沱の涙を流す。いやどうせそんなことだろうとは思っていたけどな!
「どうしたのユーマ、ぐったりして。疲れちゃった?」
「いろいろと精神的な修行を強いられたばかりだ」
「よく分からないけど、分かった。ここで休憩してて。リオウを応援に呼んでくる」
「それだけはゼッタイにやめてくれ」
楓子は「そうなの?」と首を傾げつつ、指同士を組みあわせてもぞもぞしている。
平気なフリをしていてもまだ、緊張しているんだ。オレがさっき、怖がらせてしまったから。
両手を伸ばして、楓子のそれを包みこんだ。黒い瞳が見開かれて、オレを見上げる。
「オレも楓子が好きだよ」
何を言っているんだオレは。
まともに楓子の目を見られない。
「楓子が誰よりも、大切なんだ」
「……ユーマ」
かすれた声が聞こえて、顔を上げる。再び楓子の瞳から涙が零れ落ちていた。
「ありがとう、ユーマ。嬉しー」
「楓子……」
腕を伸ばして、小さな体を抱きしめる。ふわりと甘い香りが広がって、この上ないほどの幸福感に包まれた。
「お兄ちゃんって、呼んでもいい?」
「…………。」
だからオレは何度繰り返すんだと正座して1万回説教されたい、誰かしてくれ今すぐに。あ、リオウ以外で。
「見て、ユーマ!」
オレの腕をすり抜けて、だんだんと晴れていく空の先を、楓子は指さした。
「虹!」
7色の虹よりも輝く楓子の笑顔を見て、もう全部どうでも良くなった。
ずっと一緒にと、楓子は言ったんだ。それだけで今は、充分だ。
もしもこの広い草原の上で、ずっと隣にいられたら、それは夢みたいに幸せな未来なのだから。