60.5 シン(2)

 しばらく茫然と、草原の真ん中に突っ立っていたが、空を渡る鳥の鳴き声に、ハッと我に返った。

 呆けている場合ではない。何とか思い出さなければ。
 オレは必死で記憶を手繰り寄せようとするが、酷い頭痛がして集中できない。

 うめき声を上げるオレに、先ほどの馬が鼻づらを寄せてきた。馬の体温は高い。オレは馬を撫でながら言った。

「おまえにも、名があったのか?」

 馬は黒々とした目でじっとオレを見つめている。
 包みこんでくるような優しいまなざしに、オレは落ち着きを取り戻した。

「よし。まずは、所持品をチェックだ」

 冷静になったら、するべきことが見えてきた。
 まず、所持品を見て手掛かりを探す。次に集落を探し、人から手がかりを聞いて回る。これしかない。

 しかし、オレの持ち物は驚くほど少なかった。
 腰に曲刀を差し、背には弓矢を負っている。
 腰紐に下げた布袋の中は、携帯食のチーズだ。飲料水のたぐいは見つからない。
 少しだけ出て、すぐに戻るつもりだったのだろうか。

 気になるのは後頭部のコブだ。恐らく記憶の喪失はこれが原因だろう。自分でスッ転んだならマヌケな話だが、そうでなければ何者かに襲われたということになる。

 オレは草原の遠くに目をこらした。西の方向に、ゲル群が見える。クランがあるのだろう。
 ゲルやクランなどの単語は覚えているのに、自分の人生のことはなにも覚えていないのが不思議だった。そういう種類の記憶喪失があると聞いたことはあるが、まさか自分の身に降りかかるとは。

 ……まあ、でも。
 生活の手段さえ覚えているのであれば、記憶がなくても生きていけるだろう。そこまで慌てるようなことではない。

 クランの方向へ歩こうとしたら、馬がオレの背中を鼻づらでつついてきた。

「なんだ? おまえに乗っていいのか?」

 馬はそれに答えるように、体の側面をオレに向ける。

「ありがとう。助かるよ」

 鞍に手をかけ、ひと息に乗り上げる。馴染んだ感覚だ。きっとオレは日常的にこいつに乗っていたんだろう。
 たずなを握り、クランへ向かおうとした時、声が掛けられた。

「おい、シン!」

 振りかえると、薄茶色の髪をした少年が、馬に乗って駆けてくる。彼の周りには3匹の狼が付き従っていた。

「鳥を狩るのにどれだけ掛かってるんだ? ほかの者は皆帰ったぞ」

 理由は分からないが、彼は怒っているようだ。
 感性が細やかな、それでいて鋭い印象を与える少年だった。

「誰だおまえは?」

「はっ?」

「オレの名はシンというのか。この馬の名前も知っているか?」

「――ちょっと待て」

 少年は混乱しているようだ。

「冗談で言っているんじゃないんだな?」

「オレはこの辺りで倒れていた。近くにはこの馬しかいなかった。後頭部にコブができているから、頭を打った拍子に記憶が飛んだらしい」

「そんなバカなことがあるか」

 少年は頭を抱えている。やがて長いため息をついた。

「――わかった。善処しよう。おまえの名はシン。その馬はオウル。そしてオレはユーマだ」

「そうか、ユーマ。おまえはオレの友人か?」

「そんなわけがないだろう」

 氷の刃でバッサリと斬られた気分だった。
 しかしここまでオレを探しに来てくれたのは彼一人だったから、てっきり心配してくれていたのかと思っていた。
 そう告げると、彼は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「おまえのことは大嫌いだが――おまえに何かあれば、悲しむ人間がいる」

 どうやら彼には複雑な事情があるらしい。

「シンとオレは、同じ集落で暮らしている。おまえ――自分が鋼の王だということも忘れたのか」

「鋼の王とは何だ?」

 聞き覚えがない。

「ソウゲツの夜にミコと――」

 そこでユーマは口ごもった。

「あとは自分で思い出せ。おまえの家は東のクランにある。ついてこい」

 そうしてユーマは、西の方に見えているクランとは反対の方向に馬首を向けた。
 西のクランの方がなぜか心惹かれるような気がするのだが……ここはユーマに従っておこう。
 オレが暮らしていたクランに行けば、なにか思い出せるかもしれない。

 クランの奥のほうに、狼を飼っている広場があった。
 その中に、ひとりの少年が狼の毛をブラッシングしている。

「おかえり、ユーマ、シン」

 人懐っこい笑顔を向けてくる。ユーマよりも少し年下だろうか。
 ユーマは狼たちを広場に放し、その少年に事情を説明した。

「えっ記憶喪失? 面白そー!」

「面白いじゃないだろ、リオウ。ああシン、こいつの名はリオウ。族長の弟だ」

「オレがいいこと教えてあげるよ。シンには世界で一番キライな人間がいて、それはソウゲツノミコっていうんだよ」

 ユーマが呆れたような眼差しをリオウに向けている。
 一方オレは、ふいに胸を刺した切ない痛みに戸惑った。

「む、胸が痛む……なぜだ」

 そこへもう一人、ガタイのいい男が現れた。

「シン、ユーマ、リオウ。楓子の姿が見えないんだが、おまえら知らないか?」

「フウコとは誰だ」

 聞きかえしながらも、なんとなく知っているような名だとも思う。
 そして不可解な胸の痛みがさらに増していた。
 しかし『フウコ』とは変わった名だ。男か女かも分からない。

 俺の隣でリオウが答えた。

「シンの嫌いなミコの名前だよ」

「そうか。嫌いだから胸が痛むのか」

「いい加減にしろよ、リオウ。シンもいちいち真に受けるな」

「おいおい何だ? 話が見えないんだが」

 ここで再びユーマがガタイのいい男に説明をしてくれた。

「記憶喪失? はは、それでそんな難しい顔してやがるのか、ユーマ」

「実際ややこしい事態だろう。鋼の王がこんな状態では儀式が」

「だがおまえに連れられておとなしくこのクランまで来たんだろう? 普通、見知らぬ人間にホイホイついていかない。そこがクリアできているのであれば問題ないさ。
 ああシン、オレはスオウという。このクランの族長だ。よろしくな」

 スオウと名乗る男は笑みを見せた。なかなか貫禄のある男だ。
 ユーマは苦々しい表情で、スオウを見上げた。

「そんなことよりスオウ。楓子を見かけないってどういうことだ?」

「ああ、それな。まだ午前中だしそんなに騒ぐことでもないんだが、楓子の馬がなくなってる。一人でどこかに出かけたようなんだ。昨夜はシンの儀式の番だったんだが、おまえに心あたりは――あるはずないよな」

「探しに行ってくる」

 言うが早いか、ユーマが3匹の狼を引きつれて厩(うまや)へ駆けだした。

 ユーマの背を目で追いながら、オレは今までの情報を頭の中でまとめていた。
 オレはこのクランに住んでいて、鋼の王と呼ばれている。
 ソウゲツノミコ(フウコ)とやらが大嫌いだが、昨夜は『儀式』とやらを二人で行っていたようだ。

 そしてここからは推論だが、オレがフウコを嫌いなら、フウコもオレを嫌っていたのではないだろうか。
 だから儀式のあと、何か理由をつけてフウコにこっそり草原まで連れ出され、襲われたのかもしれない。

 であれば、フウコは屈強な男だ。たとえ背後から襲われても、女の力で昏倒するようなオレではないはずだ。

 もしこの推論が正しければ、きっちり落とし前をつけなければならない。うやむやにして、またこのようなことをされたらたまらない。

「待てユーマ、オレも行く」

 厩のオウルを連れて、オレたちは再び草原に出た。