01 セーレの末娘

第一章

 エルサは今日も、質素なドレスを選んで身に付ける。
 その上から羽織るのは、裾のあたりが擦り切れている外套(がいとう)だ。

 身支度を整えたのち、城塞の庭園に出た。
 午前七時、朝食前の時間帯である。

 空は薄青く、吐く息は白い。
 エルサは外套の襟(えり)を引き合わせてつぶやいた。

「冬の本番はこれからなのに、もうこんなに寒いのね」

「ですから、毛皮のコートを新しく仕立てましょうと、何度も申し上げておりますのに」

 苦笑まじりに答えたのは、侍女のマイア・キュレネーだ。
 彼女は二十七歳で、エルサの十歳上である。

 エルサはマイアを振り向いて、ほほ笑んだ。

「いいの。
 これがまだ充分に着られるし、とても動きやすいもの。
 雪がちらつき始めたら、毛皮の手袋を出すわ。
 ふわふわの襟巻きも巻けば、きっと暖かく過ごせるでしょう?」

「加えて、朝食には温かいスープをご用意いたしますね。
 お風邪を召してしまうようなことがあったら大変ですもの。
 お兄様方が大層ご心配になりますわ。
 もちろん、このわたくしもですけれど」

「そうね、気をつけなくちゃ。
 ありがとうマイア」

 花壇や木々を、数人の園丁(えんてい)が手入れしている。
 エルサが通りかかると、皆が手を止めて恭しく会釈した。

 エルサは一人一人と名を呼び交わし、彼らと親しくお喋りをした。

 これがエルサの日課であり、毎朝の楽しみである。
 しかしマイアに言わせれば、貴族がすることではないらしい。

 それでもエルサは、人とおしゃべりをするひと時が好きだった。

 冬に咲く花の手入れの仕方を、老齢の園丁から教えてもらう。
 春のそれとはまた違った手順で興味深い。

 両膝に手を当てて花壇を覗き込むと、長い銀髪がサラサラと肩から落ちた。

 エルサの肌は、乾燥した空気の中にあっても瑞々しく潤っている。
 頬はほんのりとピンク色に上気して、すみれ色の瞳は花壇の花びらを映している。

 体つきは華奢で、大人の女性にまだなりきれていなかった。

「教えてくれてありがとう、ジョン。
 あなたの説明はいつもとてもわかりやすいわ」

「もったいないお言葉です。
 お嬢様がご聡明でいらっしゃるおかげです」

 ジョンは、四十年前から庭の手入れを担当してくれている。

 エルサは、コートの懐から小さなケースを取り出した。
 丸い形をした陶器製で、唐草模様が描かれている。

「あなたのお孫さんが、ひどい切り傷を脚に負ったと、マイアから聞いたの。
 よかったら、朝晩にこれを塗ってあげて。
 医術師様に処方していただいた塗り薬よ。
 切り傷によく効くようなの」

「い、いえ、お嬢様。
 このような高価なものをいただくわけには」

 上等な品だとひと目でわかったからか、ジョンは慌てて首を振る。

 しかしエルサは、厚手の作業手袋をはめた彼の手に、ケースをそっと握らせた。

「深い切り傷は、くっつきづらいから治りにくいものよ。
 ジョンのお孫さんがつらい思いをするのは、わたしもつらいの。
 わたしのためだと思って、どうか受け取ってちょうだい」

「お嬢様……」

 ジョンは感極まった表情になり、それから深く頭を下げた。

「ありがとうございます、お嬢様。
 実は、孫の傷を町医者に診せてもいっかな良くならず、どうしたものかと困り果てていたのです」

「この薬でよくならなかったら、今度は医術師様に直接診てもらいましょう」

「本当にありがとうございます……!」

 ジョンは何度も頭を下げた。

「お礼はいいの。
 怪我が治ったら、お孫さんをお庭にまた遊びに連れてきてね」

 エルサはそう告げて、マイアを伴って遊歩道をふたたび歩き始める。

「今日の朝食のメニューは確か、カストル兄様のお好きなオーツケーキよね。
 なら昼食は、ルイス兄様のお好きなフィッシュパイを焼こうかしら」

 食事作りも、貴族の令嬢はどうやらしないらしい。
 けれどこれもエルサの日常だ。

「ルイス様が大変お喜びになると思いますよ。
 けれどそうなると、夕食はもうお一方(ひとかた)のお好みに合わせるべきですね。
 でないと、テーブルの上のすべてのフォークを、木の枝に変えられてしまいますわ」

 エルサはくすくすと笑った。

「そうね。
 ロキ兄様にはよくよく注意を払っておかなくちゃ」

「僕なら、そうだな。
 チキンのローストさえあれば、晩餐の卓がしっちゃかめっちゃかになることはないと約束するよ」

 すぐ右横から声が掛かって、エルサはびっくりした。
 寸前まで、そこには誰もいなかったからだ。

 遊歩道の上、エルサと十センチも開いていない距離だ。
 立っているのは一人の青年である。
 スラリとした長身に、端整な面差しをしている。

 彼は漆黒のローブを纏っていた。
 金糸の刺繍で縁取りがなされたものだ。
 フードが付いているが、いまは被っていない。

 また、青年の瞳は琥珀色で、艶のある短い黒髪をしていた。
 エルサは銀髪と薄紫色の瞳をしているので、彼のとまったく違っている。

 似たところがないものの、彼は確かにエルサの実兄であった。

「ロキ兄様、もう少し普通に現れてください。
 隣に突然現れると、驚いてしまうわ」

「驚いてもらえたなら本望だよ。
 おはようエルサ、僕の可愛い妹。
 朝いちばんに言葉を交わした相手がきみで嬉しいよ」

 言いながら、エルサの頬にロキはキスをする。