「お風呂に入ったし、夕食も食べたし、あとは寝るだけだねフランセット!」
煌めく星々も真っ青のキラキラした笑顔で、メルヴィンは屈託なく笑う。フランセットは別の意味で顔色を失いながら、ネグリジェの胸のあたりを握りしめた。
(というか……このネグリジェ!)
生地が薄い。
いくら暖かい春の夜とはいえ、薄い。
(透けてない? これ、透けてるわよね)
胸下切り替えのフルレングスから、うっすらと体のラインが見えているような気がする。
コルセットはなく、シュミーズすら与えられなかった。薄い絹の下は真っ裸なのである。
あのお輿入れ騒動で、フランセットは私物をほとんど持ってこられなかった。だからこの寝間着は、メルヴィン側が用意してくれたものだ。着付けてくれたのも、メルヴィン側の侍女である。
「どうして壁に張り付いているの、フランセット?」
メルヴィンは不思議そうに首を傾げている。彼のたたずまいを見て、いっそうフランセットは居たたまれなくなった。
(綺麗なお顔立ちを、されているのに)
ガウンの合わせから覗く胸筋が、たくましい。触れたらきっと、とても固いのだろう。
(触れたら、って)
また体温が上がる。
フランセットは恋愛経験皆無とはいえ、れっきとした二十五歳だ。男女の閨ごとについての知識は、当然ある。
結婚した男女が、初めて迎える夜。それは、
(し……し……初夜……?!)
「フランセット?」
突然目の前に、とんでもなく綺麗な顔が現れて、フランセットは「ひっ」とのけぞった。
メルヴィンは眉を寄せた。この王太子は、なにかと表情豊かだ。
「その反応、傷つくなぁ」
「も、申し訳ありません。でもわたし、殿下におはなししたいことがあって」
「うん、なに?」
ふわりとメルヴィンは笑う。こんなに綺麗に笑う人に、男性の欲望など存在するのだろうか。フランセットは一瞬だけそう思ったが、飴玉にまつわるあれこれを思い出して、即座にその考えを却下した。
とにかく話を、と口を開きかけた時、とん、と彼が、フランセットの顔の横に手をつく。
「ねえ、フランセット」
彼はフランセットを見下ろしているから、整った面差しに影が差していた。サラサラした黒髪は少しだけ湿っていて、男らしいうなじに張り付いている。その様子が、どうしてかなまめかしい。
フランセットの頭の中は、もう大変なことになっていた。心臓がばくばくして、頭から湯気が出そうだ。きっと顔は真っ赤になっているだろう。
フランセットの様子を見て何を思ったのか、ふいにメルヴィンは小さく笑った。彼の赤い舌が、ちらりと自身の唇を舐める。
それをフランセットは、ぞくりとする感情の中で、ただ見上げていた。
彼から目をそらすべきだ。心臓がもたない。けれど、綺麗な双眸の奥に、小さく灯る熱が見え隠れするような気がして、そこから目を離せない。
メルヴィンは年下なのに。
男なのに。
(なんでわたしよりも、色気があるのよ……!)
「このまま一息に、食べてしまおうかな」
「っ――」
キスされる、と思ってとっさに顔をそらした。キスが嫌だったのではなくて、ただびっくりしただけの反応だった。自分のその心境に、フランセットは目を見開く。
直後、晒したうなじに熱が落ちた。
フランセットは息を呑み、全身をこわばらせる。
肌を唇で辿られて、それから軽く吸われて、フランセットの背すじにぞくりと熱が走った。
「待っ……、王太子、殿下」
「広場では名前を呼んでくれたのに、もうそうしてくれないの?」
彼の指先が、唇に触れる。メルヴィンは顔を上げて、フランセットを見つめた。
その双眸がひたむきに見えて、切ないくらいにフランセットの胸を締め付けてくる。
(本当に、ずるいわ)
こんな目をされてしまったら、拒めない。
「フランセット」
乞われるように呼ばれる。彼の指が触れている唇が、疼くように熱い。
「……メルヴィン、様」
彼の望みに、応えたのに。
メルヴィンはなぜか、切なげに眉を寄せて、フランセットを片腕で抱き寄せた。
唇の端へ、彼の指が滑る。それに代わって、今度はメルヴィンの唇が触れた。
やわらかくて甘い。その感触に呑まれそうになり、フランセットは怖じ気づく。身を引こうとしたら、咎めるように軽く、歯を立てられた。
「……っ」
「逃げないで、僕から」
熱い吐息の下で、メルヴィンが言う。
「ひどいことをしたくなる」
ネグリジェの生地をふっくらと押し上げる胸に、彼の指が這わされた。
乳房にやわらかく沈む彼の手の、その大きさと固さに、フランセットは肩を震わせる。
(待っ……て)
肌に触れられることに、嫌悪感がない。
むしろ、人の体温が心地いいとさえ感じてしまう。
そんな自分に、フランセットは恐れを感じてしまう。
(わたし、まだ。その覚悟が)
震える視界で、メルヴィンを見上げた。漆黒の双眸と目があって、その彼の眉が、わずかにひそめられる。
男らしい彼の五指が、薄い絹ごしに、胸のふくらみを優しく揉み始めた。時折指先で先端を擦り上げられて、ぞくぞくした熱が下腹部のあたりまで駆け下りていく。
「や……」
この言葉にならない感情を訴えるために、メルヴィンのガウンを、フランセットは握り込んだ。耳もとを掠めた彼の唇が、ふと笑った気がした、その直後――
がぶりと噛みつかれた。首すじを。
「い……?!」
思わずメルヴィンの胸板を押し返したら、あっけなく彼は離れた。フランセットはてのひらで噛まれたところを押さえて、涙が零れそうな瞳で彼を見上げる。
「な、なにするんですか!」
「ごめんね、つい」
メルヴィンは首を傾げて笑った。
その仕草で、フランセットは彼が逃がしてくれたことを悟る。
かぁっと羞恥に頬が熱くなった。両手で自分の方を抱きながら、フランセットはメルヴィンから視線をそらす。
「ごめんなさい。わたし、まだ……」
「フランセットの話というのは、僕たちの婚姻についてのこと?」
フランセットは目を見開いた。伏せていた顔を上げて、メルヴィンを見る。
彼はひどく寂しげに、微笑んでいた。
「約束したのに?」
フランセットは言葉に詰まる。
「毎日花を届けたら結婚してくれるって、あなたは僕に言ったんだよ」
彼の言葉に、フランセットは返す言葉もない。
(子供の言うことだからって)
深く考えずに、約束を交わしたのは、確かに自分だ。
「でも、そうだね。嘘つきのあなたが僕を拒む可能性を考えて、ああいうことをした僕も、いけないね」
彼の指が再び伸ばされる。フランセットの心臓がどくりと高鳴る。全身が熱くなって、息が苦しい。
メルヴィンが笑う。そこにはもう、傷ついたような影はなかった。熱を帯びた光が、漆黒の瞳に灯っていた。
「ただ、フランセット。僕はあなたを逃がす気はないから。あきらめて」
くすぐるような囁きが耳に触れる。動くことのできないフランセットを置いて、メルヴィンは静かにこの部屋を出ていった。