扉の開く音で目が覚めた。燭台の灯りさえ消えた、暗すぎる室内だ。
フランセットは長椅子に横たわっていた。ラグの上に読みかけの書物が落ちている。どうやらいつのまにか眠ってしまったようだ。
「新しい本を持ってきたよ」
手燭の明かりが、フランセットの目を眩ませた。メルヴィンはテーブルの上にそれを置いて、フランセットの前に片膝をつく。
「寝ていた?」
「……はい」
ここに閉じ込められてから、恐らく三日が経つ。
「本を読んだり、外を眺めたりするくらいしか、することがなくて。頭がぼうっとします」
メイドらは、フランセットと会話することを極力禁止されているようだった。恐らく、彼女らがフランセットに同情していろんなことを喋るのを、メルヴィンが警戒しているのだろう。
体を動かせないから、頭の機能も低下する。しかしぼうっとしてしまうのはそれだけのせいではなかった。夜ごと蹂躙されるような激しい抱き方をされ、気を失うように眠る。朝起きたら指一本動かすのすら億劫という状態だ。
(いつもは、殿下が治癒魔法をかけていてくれたもの)
けれど今回は、そうしてくれない。
体力を奪って、フランセットの意思を挫くように。そんな意図が垣間見える。
「不自由な思いをさせてごめんね。何か他に欲しいものは?」
メルヴィンがフランセットの髪を撫でる。その優しい仕草に、フランセットは確かに癒やされるのだ。
「もうすぐ出してあげられると思うから」
この言い方に、フランセットは目を伏せた。
(やっぱり、わたしはメルヴィン殿下の心の持ちようだけで、ここに閉じ込められているわけではないのだわ)
メルヴィンの過剰な心配と、男の独占欲だけが理由で囲われているわけではないのだ。
フランセットが出られない、出してはいけない事情が、他にあるのだろう。
恐らく、あの夜馬車を襲撃してきた一味に関係があると予想できる。
(殿下は、優しいから)
いつもフランセットを、守ってくれている。
彼がここにいない間、メルヴィンの過去を思う時があった。国王の不貞によって王宮内が荒れていたであろう時期、恐らくメルヴィンは、まだ六歳かそこらだった。
そう。フランセットと初めて出会った時期だ。
「アレンが美味しいお菓子を買ってきてくれたんだ。一緒に食べよう。それと」
フランセットはメルヴィンの隣に腰を下ろして、微笑んだ。
「少し話をしようか」
*
小さな窓からは、小さな空しか見えない。
今夜は澄んだ星空で、風もなかった。
「寂しい部屋だね」
彼の横顔は、燭台の炎に照らされている。まるで絵画のように綺麗で、けれど切なげな表情は生きている人間のそれだった。
「僕は毎日のようにここに遊びに来ていたんだ。アレンの母君は物静かな優しい人でね。僕はなついていた。赤ちゃんのアレンも、僕の顔を見て笑ってくれるのがかわいくて」
昔をなぞる言葉は、愛情に満ちている。
「王妃は――母上は、僕の行動を黙認していた。心中は穏やかじゃなかったと思うよ。国王の外遊中に、妾をここへ追いやったのは彼女だからね。でも、僕は王妃に溺愛されていた。彼女が産んだ、この国唯一の、王太子だったからだ。僕は、彼女の王妃としての一生の、象徴だった」
フランセットは胸に痛みを覚えて、その上でてのひらを握り込んだ。メルヴィンは彼女を振り返り、微笑む。
「けれど母親としての愛情も深い女性だったよ。僕も母を愛していた。そう、僕はね、だれのことも嫌いじゃなかったんだ。赤ちゃんのアレンはエスターと同じくらいかわいかったし、父の愛妾は優しくて、でもほんの少し心が弱くて気がかりだった。大国を治める偉大な父を尊敬もしていた」
それは、六歳という幼さから起因する無邪気さなのかもしれなかった。けれどメルヴィンの気質自体が愛情深く、優しいものだからこそ、持ちうる感情だとも思う。
「外遊から帰った父は、塔に押し込められた愛妾と赤子を見て驚いていたよ。すぐに出そうとした。僕もその方がいいと思った。この部屋は寂しすぎる。けれど、彼女自身が拒絶した。『ここにいたい、ここなら何からも傷つけられずに穏やかに過ごせるから』と。父は彼女の精神状態を心配して、窓を小さくした」
フランセットは妃の――正妻の立場だから、妾であった彼女の心境を、充分に推し量ることはできなかった。けれどこんな寂しい部屋に閉じ込められることが幸せなのだと感じるほど、彼女は不幸だったのだ。
「そんな状態になってしまって、当然家族の間はギスギスしていた。僕にできることは、誰のことも以前と同じように愛したままでいることだった」
だからずっと笑顔でいた。一日に一回は必ず家族一人一人と顔を合わせて、大事なことも、他愛ないことも、ゆっくりと話し合った。
時にエスターを塔の上に誘って、赤子のアレンと彼女を囲んでお茶会を開いたりもした。
メルヴィンは懐かしそうに昔を語る。
「寂しい思いをするであろう母には、不慣れながらケーキを焼いて一緒に食べたり、買い物に付き合ったりしたよ。根っから国王気質の父からは、帝王学の教えを請うたり、剣や魔法の練習を見てもらったり。――あきらめたら、駄目だと思っていたから」
彼は形のいい眉を、苦しげに寄せた。
「男女関係の難しさを、幼い僕は理解できていなかった。だから、いつかみんなで仲良くできる日がくるって信じていたんだ。その日が早く来るように、絆を結び続けようと思っていた」
慎重に、優しく。決して無理強いはせず、我慢強く。
過去の状況が、今のメルヴィンを作ったのだろう。
(殿下は表情が豊かだけれど)
それも、人に対してつねに心を開こうとする思いの表れなのかもしれなかった。
僕はあなたに心を開いている。だからあなたも、僕を信じて。
「でも、現状はいっこうに良くならなかった。だからさすがに疲れてきてね。あきらめたら駄目だと思いつつも、投げやりになりかけたんだ。長男として、本当に駄目だと思うんだけど……」
メルヴィンは自嘲混じりに微笑む。フランセットは思わず、彼を抱きしめたくなった。
そんなに背負わなくても、よかったのに。
まだたった六歳の少年が。
「でもそんな時に、フランセット。あなたに出会ったんだよ」
メルヴィンの手が伸びて、フランセットの頬を包んだ。フランセットよりも少しだけ高い、いつもの体温だった。
「言いたいことを言い合える家族。怖じけることのないまっすぐな眼差し。毅然とした言葉と、優しい声。フランセットのすべてが眩しかった。僕に、あの頃の僕らにないものを、すべてあなたは持っていた。フランセットの家族になりたかったし、家族にしてほしかった」
毎日贈られてきた花。
メッセージカードも何もなく、ただ色とりどりの花が、毎日フランセットの手の中に届いた。
メルヴィンは笑う。
「今も昔も、僕は甘ったれだね」
フランセットの目から涙が零れた。けれど幼かった頃のメルヴィンも、泣きたかったに違いなかった。それでも涙を見せなかったのだろう、誰にも。皆のために。
フランセットは両腕を伸ばした。膝立ちになって、メルヴィンの頭を抱え込むように、抱きしめた。
頬にさらさらした黒髪が触れる。ぴくんと彼が身じろぎをして、それから力を抜いたようだった。
「メルヴィン様」
彼の力になりたいだなんて。
支えになりたいだなんて。
それはきっと、違うのだ。
ただずっと隣にいてほしい、そう願うメルヴィンの想いは、傷ついてきた先に宿ったものなのだろう。
どうしてその願いを、ただそれだけのものと跳ね返すことができたのか。
「好きです、メルヴィン様」
言葉になりきらない想いをこめて、フランセットはメルヴィンを抱きしめる。