22 相思相愛の夫婦、のはずなのだけれど

 宮へ向かう上り坂を、馬に相乗りしつつ登っている最中だった。ずっと考えごとをしていたので、ここまで来た過程があいまいだ。しっかりしなければ。

「ええと、ごめん。なんの話をしていたんだっけ?」

「噴水広場での話ですよ」

 フランセットは、上の空だったメルヴィンにあきれることことなく続けた。

「クリストフと話をさせてくださったでしょう?」

「ああ、そのこと」

 メルヴィンは、まさか礼を言われるとは思っていなかったからうろたえた。

 確かにクリストフとふたりきりになることを許したが、心のなかでは嫉妬心を抑えるのに必死だったからだ。アレンが偶然話しかけてこなかったら、ものの数分で会話に割り込んでいたかもしれない。

「礼なんていらないよ。いつも思うんだけどフランセットは、ささいなことでありがとうを言いすぎる。僕が調子に乗るから、あんまり使わないで」

 狼狽をごまかすために冗談めかして言うと、フランセットは肩ごしにふり返り、困ったように笑った。

「ささいなことではないですよ。だって、逆の立場だったらわたしはたぶんゆるせないですもの」

「え?」

 フランセットの言う意味がわからない。メルヴィンがまばたきをすると、フランセットは告げた。

「メルヴィンさまが、ほかの女性とふたりきりで話し込んでいるのを見てしまったら、きっとやきもちをやいてイライラして、その場に乱入してしまうわ」

 そうくるとは思わなかった。
 メルヴィンの頭のなかが、数秒間真っ白になる。

「だから、お礼を言ったんです。それとも、メルヴィンさまの人間性の高さを褒めたほうがよかったのかしら」

「ちがうよ、フランセット。買いかぶりすぎだよ」

 メルヴィンは首をふった。

「クリストフは、フランセットの近衛だったと同時に友だちでもあるんでしょう? だから、優しいあなたが友だちをむげにできないのも知ってる。だから僕はがまんした、それだけだよ。やきもちなら、もちろんたっぷりやいてたよ。アレンが通りかからなかったら、フランセットの言うように乱入していたかもしれない」

「アレンが来ていたのですか? どこでだれに見られているか、わかったものではないですね」

 フランセットは、困ったようにほほ笑んだ。
 彼女を囲うようにたづなを持っていたメルヴィンは、片腕でフランセットを抱きしめる。

「そうだよ。あなたは弟に、浮気現場をばっちりと見られてしまっていたわけだ。それに関する弁明を、どう作る?」

「弁明ですか。弁明……」

 真剣な顔をして考えていたようだったが、フランセットはやがて耳を赤くさせた。メルヴィンから目をそらすように正面に向きなおり、ぼそぼそとした声で言う。

「……なのは、メルヴィンさまだけです」

「え?」

 聞き取れなくて首をかしげると、思いきったようにフランセットはこちらをふり返った。

「わたしが愛しているのは、メルヴィンさまだけです!」

「……」

 メルヴィンがびっくりしすぎて沈黙すると、フランセットは恥ずかしそうにさらに顔を赤くさせた。
「こ、この弁明ではだめですか……?」

「いや。――そんなことない」

 ややあってメルヴィンは、フランセットを抱いていた片腕に力をこめた。

「そんなことない。これ以上効果的な弁明は存在しないよ。完璧だ。すくなくとも、僕にとっては」

 クリストフはフランセットの友人だ。愛する女性の友人を自分もたいせつにしたいという、大いなる理想はメルヴィンにもある。

「僕の奥さんは、きれいでかわいくて優しくて勇気があって行動力があって――」

「え、ちょ、メルヴィンさま、さすがに言いすぎなのでは」

「行動力がありすぎてたまにハラハラするしイライラもするけれど」

「それは申し訳ありません、毎回反省しています」

「ことあるごとに僕の弱いところを刺激してくるから、僕はあなたに結局負けてしまうんだ」

「えええ……どちらかというと、負けっぱなしなのはこちらのほうだと思うんですけど」

 メルヴィンは、麦わら帽子にキスを落とした。

「あなたに敵わないのは充分身にしみたから、別のところに今後は防衛線を引くことにするよ」

「別のところ? どういう意味です?」

 いぶかしげにするフランセットに、軽く笑むだけで答えを返さないまま、メルヴィンは馬を走らせた。
 外で羽を伸ばした分、王太子宮に戻ったあとは、フランセットとメルヴィンはお互いに忙しくしていたので顔をあわせる機会はほとんどなかった。

(羽を伸ばしたというか、なんというか……。メルヴィンさまと外を歩くのは、確かに楽しかったけれど)

 その夜、メルヴィンより先にベッドに入ったフランセットは、泥のように寝入ってしまったらしい。朝起きるとすでにメルヴィンは着替え終わっていて、寝ぼけまなこのフランセットの頬にキスを落としてくる。

「おはよう、フランセット。まだ寝ていてもいいよ。僕は、今日は剣士団寮の視察に行ってくるね」

 前回のメシマズ事件について、メルヴィンは対応をアレンに任せていた。その後ちゃんと処理できているかどうか確認の意味も込めているという。

 メルヴィンを見送ってから、フランセットは侍女を呼んで着替えを手伝ってもらった。眠っているあいだにメルヴィンが魔法をかけていてくれたのだろう、昨日の疲れはすっかりとれて、元気になっている。

「元気にしてもらったのに寝坊するだなんて不覚だわ。……きっと、夢見が悪かったせいね」

 淡いブルーのドレスをまとって、絹の長手袋に腕を通す。弧を描く髪は下ろしたまま、こまやかなレースとリボンのヘッドピースをつけた。

 身だしなみをととのえると、気分がしゃきっとする。自分の書斎に朝食を運んでもらって、ソファに腰を下ろしながらフランセットは考えをめぐらせた。

(昨日クリストフに言われた言葉は、メルヴィン殿下には聞かれていなかったわよね)

 メルヴィンは、風に乗せて内緒話を耳に入れるという特技を持っている。過去にやられたことがあるけれど、今回はしなかったようだ。

(もし聞かれていたとしたら、あんなにおだやかではいらっしゃらなかったと思うもの)

 紅茶を口にふくみつつ、フランセットは昨日のクリストフの言葉を思い起こした。

『叶わぬ想いだとわかっています。けれどフランセットさま、私はあなたをお慕いしています』

 せつなさを帯びた声で真摯に、迷いなく、クリストフはそう告げた。

『この想いをお伝えすることは未来永劫ないと思っていましたし、決めていました。けれど、先日街で、体を張って妃の務めをはたそうとされていたフランセットさまを拝見したとき、私はたまらなくなったのです。あなたは聡明で心優しく美しい、大陸一の姫君です。このような苦労を背負わねばならないようなお方ではありません』

 子どもたちの笑い声が、おだやかに晴れた空へ吸い込まれていった。フランセットがなにかを言う前に、わずかにほほ笑んでクリストフは言った。

『だからこの先、フランセットさまがつらい思いをお抱えになったときは、このクリストフを迷わず頼ってください』

『ありがとう。でも、ごめんなさいクリストフ。わたしはメルヴィン殿下のことを愛しているの』

 クリストフの告白はあまりにも意外だったので、フランセットはなかなか声を出せずにいた。我に返ったとき、伝えなければとまず思った言葉はこれだった。

 自分は、政略結婚の末に、義務としてメルヴィンとともにいるわけではない。彼のことを、なによりも愛しているのだということを伝えなければならないと思った。

 フランセットの言葉を受けて、クリストフは数秒沈黙した。一度目を伏せて、それからフランセットを見つめてほほ笑む。

『ご安心ください。それもわかっています。でも、だからこそ気がかりなのです。フランセットさまはあきらかにご無理をされている。思い悩んで、ご無理をされているから、先日のような無謀な行動をおとりになったのでしょう? フランセットさまらしくない行為です』

 それは確かにあっている。メルヴィンに好かれるためにかわいげを研究したいと思うことはすなわち、自分に自信がないからだ。メルヴィンのとなりにいるにふさわしい女だと、自分で自分を認めることができない。すべてはそこにつながっている。

『あなたは、メルヴィン殿下を支えようと一生けんめいになって、余裕なくされている。それを、メルヴィン殿下はご理解なさっているようには思えません。だからこそ私は、痛々しい気持ちになるのです』

 痛々しいという表現に、フランセットは大きく傷ついた。

『私の想いをお伝えしたのは、フランセットさまが逃げこめる場所を差し出したかったからです。なにかあったら私がかならずお力になります。フランセットさまを全力でお守りします』

 クリストフの話はここまでだった。
 朝の陽光に照らされる静かな書斎で、フランセットの心はずーんと沈み込む。

(痛々しい……。痛々しいって、アレよね。必死すぎる努力がまったく報われていなくてかわいそうすぎるということよね)

 もちろん、秘めた想いをクリストフはフランセットに向けてくれていたといいうから、彼がこちらを心配しすぎているという側面もあるだろう。

 そして、彼の想いに応えられないということに罪悪感を覚える自分も、確かにいる。
 フランセットも恋をしている。
 もしメルヴィンが、フランセット以外の女性を好きになってしまったら、苦しすぎて死んでしまいそうになるかもしれない。

(だから、痛々しくなるのはしかたないんだってば……!)

 熱い紅茶をうっかりがぶ飲みしてしまい、フランセットはせきこんだ。ハンカチで口もとをぬぐいつつ、さらなる自己嫌悪にへこんでいると、書斎がノックされると同時にだれかが入ってくる。