03 またしても心配を掛けてしまったようです

 フランセットは侍女に事情を話して、侍医を自室に呼んできてもらった。
 侍医はこの道二十年のベテランで、貫禄に満ちた五十三歳である。家令のジョシュアとは、仕事終わりにブランデーをともに楽しむ仲らしい。

 そんな彼は、動物の怪我の具合よりもフランセットの手首のほうに大きな動揺を見せた。フランセットの侍女も同じで、「奥さまに噛み傷がー!!」と卒倒せんばかりに衝撃を受けていた。

 侍医と侍女から「このようなことは二度となさらないでください! 破傷風に罹る可能性もあるんですよ!」と何度も説教を受けつつ、フランセットは手首の手当てをしてもらった。動物はというと、「私は獣医ではないので、勝手がわからないのですが……」と言いつつも、侍医が真剣な表情で対応してくれている。

 大きな桶の中に布を敷き詰め、その上に動物を寝かせた状態だ。お腹周りの毛を剃って、むき出しにした患部を侍医が水で洗う。現れた傷口を見て眉を寄せた。

「これは縫わないといけないですね。おそらく捕食動物に襲われでもしたのでしょう。裂傷がひどい」

「お願いできるかしら?」

 包帯を巻かれた手首をさすりつつ、フランセットは侍医の後ろから桶を覗きこむ。動物は力なくぐったりとしているように見えた。

「できないことはないですが、麻酔の量の調節が難しいです。獣医を呼んだほうがいいかもしれません」

「でも、こんなにもぐったりしているわ。いまから獣医を呼んで、手遅れになったりしない?」

「なんとも言えません。国王宮のほうになら獣医がいるので、その者に連絡をとって呼ぶとなると、一時間ほどは掛かるでしょうか」

「一時間……」

 確かになんとも言えない時間だ。フランセットが迷っていると、侍医は片眼鏡の奥の目をこちらに向けてきた。

「この動物も心配ですが、なによりも気がかりなのは奥さまです。野ネズミに噛まれると、破傷風のほかに鼠口症という病気を発症することもある。どちらもとても恐ろしい感染症です。これらの病気には長い潜伏期間がありますので、今日から一ヶ月のあいだはご自身の体調にくれぐれもご注意ください。少しでも異常が見られた場合には、すぐに私にお知らせください」

 この注意事項を告げられたのはこれで三度目である。フランセットは慎重にうなずきながら「わかったわ、ごめんなさい」と伝えた。
 そして、話題を動物のほうに戻す。

「とり急ぎ獣医を呼びましょう。そのあいだに応急処置を進めて、もし間に合わないような状態になったら、麻酔なしで処置をしてもらってもいいかしら」

「承知いたしました。私としても、その方法が最善かと存じます」

 侍医はガーゼに消毒液を染みこませる。侍女が「獣医の手配をしてきます」と言って、扉のほうに向かったときだった。

「フランセット!」

 せっぱ詰まった声とともに外側から扉が開いて、黒髪の青年が部屋に飛びこんできた。均整の取れた長身がフランセットに駆け寄り、華奢な両肩をつかむ。

 突然のことにフランセットはびっくりしてしまって、「おかえりなさいませ」の言葉を言いそびれてしまった。

「帰ってきたとたんメイドからフランセットが怪我をしたと聞いて――、あなたはいつも無茶ばかりするんだから……! どこを怪我したのフランセット、痛いところを僕に見せて」

「め、メルヴィンさま」

 矢継ぎ早に言われてフランセットは焦った。自分でも、最近は無茶をせずにおとなしくできていると思っていたのだけれど、どうやらまた夫に心配を掛けてしまったらしい。

「ごめんなさい、メルヴィンさま。怪我をしたといっても、手負いの野ネズミにほんの少し噛みつかれただけです。侍医に処置をしてもらったので、もう大丈夫ですよ」

「野ネズミ!?」

 目の前にある、恐ろしいほどに整った顔立ちが蒼白になった。

 超大国ウィールライトの国王の長子にして、押しも押されぬ権勢を誇る王太子、メルヴィン・ウィールライト。甘やかな美貌と繊細な所作で見る者を魅了し、輝くような存在感と若獅子のように凛とした立ち姿で周囲を圧倒する。この世に生を受けたときから光の道を歩むことを約束された王太子は、その運命を補ってあまりあるほどの素養を身の内に宿し、父王に成り代わって国政に参与していた。

 絵に描いたような王太子さまであるところのメルヴィンは、しかし、フランセットにとっては一人の愛しい男性であり、唯一無二の夫である。そんな彼が、顔面蒼白になって自分を心配しているのを見て、フランセットは申し訳なくて仕方なくなった。

「ごめんなさい、メルヴィンさま。野ネズミが大怪我をしていたものだから、つい抱き上げてしまったんです。少しでも早く手当てをしなければと思ってしまって――」

「そういうところはあなたらしくて素敵だと思うけれど、結婚以来、僕は何度もあなたに伝えてきたよね。いちばんに自分のことを大切にしてって、言ってきたよね」

 メルヴィンは早口にそう言いながら、フランセットの右手首をつかんだ。包帯の感触を確かめるようにふれつつ、侍医と侍女に視線を向ける。

「ごめんね、きみたちは下がってもらえるかな。あとのことは僕が引き受けるから、通常の仕事に戻っていいよ」

 彼の言葉に侍女は戸惑ったような表情になり、そして侍医は安心したように息をついた。

「かしこまりました、メルヴィン殿下。私どもは下がらせていただきます」

「ありがとう、先生。フランセットが世話を掛けたね」

 ねぎらうようにメルヴィンはほほ笑んだ。それと同時に、フランセットの手首にぬくもりが流れこんでくる。
 清浄な流水に、炎症を起こした部分を洗われるような感触だ。その心地よさに頭の芯がぼうっとなり、体の力が抜けていく。ひざが折れそうになるところを、メルヴィンの片腕が腰に回されて、さりげなく支えられた。

 爽やかな美貌に甘い笑みを浮かべているのが常である夫は、思いのほかたくましい体つきをしている。狩猟用のテイルコートとベストに包まれた体は、実用的な筋肉に覆われていることを、妻であるフランセットはよく知っていた。

 侍医は、恭しく一礼して部屋を辞した。医師として長くメルヴィンに仕えている彼は、メルヴィンの特異な能力のことを知っている。だからこそ、フランセットの怪我の手当てを主人に任せたのだ。
 その一方で、なにも知らない侍女はおずおず声を上げた。

「恐れ入りますが、王太子殿下。獣医をお呼びする手はずを整えてもよろしいでしょうか」

「ああ、野ネズミの治療だね。それもこちらで対処しておくから大丈夫だよ。獣医なみに動物に詳しい子が、この宮にちょうど遊びに来てくれているんだ」

 獣医なみに詳しい子?

 心当たりがなくて、それはいったい誰なのかということをフランセットはメルヴィン聞こうと思った。でも、メルヴィンから流れこんでくる力――傷ついた箇所を治癒する魔法――がフランセットの行動力をすっかり奪ってしまっていたため、夫にくたりと身をあずけること以外になにもできなかった。

 侍女は一礼して、メルヴィンの言葉に従い部屋を出ていく。彼女がいなくなってすぐに、別の人物が入室してきた。十代半ばほどの少年だ。

 フランセットは、ぼうっとした頭で彼の姿を視界に映す。治癒魔法がかけ終わったのか、メルヴィンがフランセットの手首から手を離した。
 少年は、遠慮がちにカーペットを踏みしめつつも、どこか余裕を感じさせる表情でほほ笑む。

「おひさしぶりです、フランセットさま。ふたたびお会いできて光栄です」

 耳触りのいい声を聞いて――そして少年の顔立ちを見て、フランセットは目を見開いた。

「事前に連絡を入れずにお邪魔してしまってすみません。途中で雨に降られてしまって、兄上からこちらに寄るように言われたんです。――ああ、その桶の中にいる子が、怪我をした野ネズミですね。なるほど、確かに齧歯類(げっしるい)ではありますが、この子はネズミではありませんよ。ロロットという種類の動物です」

 少年は、絹糸のように美しい黒髪を持っていた。

 精巧に作られた人形のように整った顔立ちをして、赤いくちびるにはおだやかなほほ笑みを浮かべている。兄たちによく似た黒い瞳を甘くゆるめ、少年はフランセットに目を合わせた。

 彼の名をフランセットはよく知っている。夫であるメルヴィンの三番目の弟にして、この王国の第四王子。そして、現国王の愛妾の腹から生まれた王子、レイス・ウィールライトだ。