04 第四王子レイス

 この王子が目の前に現れたことにフランセットが驚いたのには理由がある。彼は、上流階級の社交の場はおろか、王族の公的な行事にすらいっさい顔を出さないし、プライベートな場にもめったに姿を現さないからだ。

(メルヴィンさまの、一番目と二番目の弟であるエスターやアレンにはしょっちゅう会っているけれど、レイスさまとお会いしたのはいまが二度目だわ。結婚して一年経つのに、義弟と会うのがこれで二度目だなんて、ものすごく珍しいのではないかしら)

 メルヴィンの下には、エスター、アレン、レイスのほかに、正妻の産んだ二人の王子がいる。彼らには何度か会っているのだが、レイスは家族が集まる場にまったく出てこないので、顔を合わせる機会が皆無だったのだ。

 それだけに、レイスに会えたことにフランセットは感激した。ウィールライト王族の家族関係が複雑であることは重々承知しているが、やはり家族全員が仲良く集まることのできる関係性であるほうがいいに決まっている。とくに、夫のメルヴィンは弟たち全員を溺愛するブラコンでもあるので、義弟たちのことはフランセットもつねに気に掛けているのだ。

 フランセットは、レイスの顔をひさしぶりに見ることのできた嬉しさを噛みしめつつ、フランセットは彼に笑みを向けた。

「こんにちは、レイス殿下。お会いできてとっても嬉しいです」

「僕もです、フランセットさま」

 やわらかくほほ笑むレイスは、下界に降りてきた天使のような愛らしさである。ここの兄弟は皆、神から愛されまくった容姿をしていて、そのまなざしひとつで世の女性たちをメロメロにしているのだ。

 その筆頭・長男メルヴィンを夫に持つフランセットでさえ、兄弟王子たちの美形っぷりにはいまだに慣れない。中性的な愛らしいほほ笑みにくらくらしつつも、フランセットはなんとか頭を切り替えた。

(めったに王太子宮に現れないレイス殿下が、どうして今日は訪れにきたのか聞きたいところだけれど……、いまはそれよりも、この野ネズミだわ)

 出血してぐったりした状態でいるのに、侍医は傷口を縫うことなく下がってしまったし、獣医を呼ぶのをメルヴィンが断ってしまった。いったいどうしたらいいのだろう。

 フランセットの戸惑いを悟ったのか、となりでメルヴィンが告げた。

「レイスを狩猟会に連れてきていて本当に良かったよ。この子を宮に連れ帰ってきたのは偶然だったんだけど、野ネズミが怪我をしているのならレイスの力を借りるのがいちばんいい。僕の治癒魔法で治せるのは人間だけだからね。小さい頃からレイスは動物が好きで、動物学者並みの知識を持っているんだ」

「えっ、そうなんですか!?」

 フランセットは驚いた。メルヴィンはうなずく。

「うん。僕ら兄弟の中で、レイスはいちばん心根の優しい子なんだよ。それを動物のほうも感じるのか、レイスの前だと獰猛な動物も大人しくなるんだ。そういう特技を生かして、アレンについて各地を回って、さまざまな野生動物についての報告書を作成してくれるんだよ。まだ十五歳だというのに、頼りになる弟でしょう? 学者肌であるのに加えて武術のほうも優秀で、あのアレンも舌を巻くほどの敏捷性が持ち味の――」

 ブラコンであるところのメルヴィンは、弟を褒める機会を与えられるととたんに生き生きしだすという習性を持っている。フランセットは慣れているので、適度に聞き流しつつレイスを振り向いた。

「それでしたらぜひ、この野ネズミの手当てをお願いできますか、レイス殿下」

「もちろんです。桶の中にいるこの子を、僕もさっきから気になっていて……。ああそうだ、先ほども言いましたが、この子は野ネズミではなくロロットです。ネズミと違って草食で、とても大人しい種類の子ですよ」

 言いながら、レイスは長い脚を折り曲げて桶の前に片ひざをついた。白い手袋を引き抜いて、ポケットからゴム製の手袋をとり出して身につける。その慣れた動作を見て、もしかしたらゴム手袋をいつも持ち歩いているのかもしれないとフランセットは思った。

 レイスは、形のいい眉を寄せつつ真剣な表情で患部を調べていたが、やがて顔を上げた。

「縫合します。兄さん、いまから言う薬と道具をそろえてもらえますか」

「ああ、わかった」

 メルヴィンが承知すると、次いでレイスはフランセットに視線を移した。

「フランセットさまは別室でお待ちいただけますか? 処置の場面は女性に見せるべきものではありませんので……」

 レイスの気遣いにフランセットは首を振った。

「わたしもここで見守ります。この子を拾ったのはわたしですもの」

 レイスは戸惑ったようにメルヴィンに目を向けたが、彼がうなずいたのを確認して、フランセットに視線を戻した。

「わかりました。でも、ご気分が悪くなるようでしたらすぐに退室してくださいね」

「はい」

 心配そうなレイスにフランセットはほほ笑んだ。

 レイスの指示のもと、道具と薬をそろえてから、五分程度で処置は終了した。当然のことながら、フランセットの気分は悪くなることなく――ひどい怪我の様子を見て心を痛めはしたが――最後まで見守った。

 レイスの手際の良さは予想以上で、熟練の獣医を思わせる技巧にフランセットはほれぼれしたほどだ。

 予後がよければ五日後に抜糸する予定だとレイスは言った。ロロットは、患部を舐めないように首もとをぐるりと囲う傘のようなものをつけられた。その姿は可哀想に思えたが、同時にとっても可愛かった。

 野生動物は、怪我を負ったときはじっとして動かないようにする。大人しくしているロロットを、鉄柵の籠に入れて、フランセットとメルヴィンは、弟を応接室に案内した。ロロットの籠は、揺らさないように気をつけながらメルヴィンが抱えて持ってきた。

 テーブルにはお茶の用意がされている。雨足が強くなってきたので、窓は閉めきられていて、燭台の蝋燭に火がつけられていた。

 氷の入った紅茶を口に含んでから、メルヴィンが言う。

「狩猟会が始まったとたんに雨が降り出したんだ。この時期はいつ雨が降るのかわからないから屋外の催しは極力控えなければならないんだけどね。毎日毎晩、午餐会や舞踏会ばかりだとみんな息が詰まってしまうでしょう? だからときおり計画するんだけど、今日はハズレだったな」

「急な雨に降られて慌てて逃げ帰ることも、いい思い出になりますよ」

 フランセットはくすくすと笑った。足もとにはロロットの籠を置いている。
 そのとなりで、レイスは困ったようにほほ笑んだ。

「僕は今回、初めての参加だったんです。メルヴィン兄さんに誘われて、最初は断ったんですけど、エスター兄さんやアレン兄さんにも『おまえは十五歳になったんだから、そろろそろ顔を出すようにしろ』と言われてしまって、逆らいきれなかったんです」

 なるほど、いつもは人前に姿を現さないレイスが狩猟会に参加したのは、そういう事情があったからなのか。フランセットは納得した。三人の兄弟から圧を掛けられたら、フランセットも逆らえる自信はない。

 けれど、メルヴィンやエスターはともかく、アレンがそれをレイスに言うのかと突っこみたくなる。アレンの社交嫌いはこの国でも有名だからだ。

「アレンは一応、王族として最低限の仕事はしているしね。僕の手足にもなってくれているし」

 フランセットの考えを呼んだのか、メルヴィンが三男坊のフォローを入れる。それから、優しいまなざしをレイスに向けた。

「おまえはこれからだね、レイス。無理を強いるつもりはないから、社交の場に少しずつ慣れていこう」

「はい、兄さん」

 見目麗しい美形兄弟が、互いを思い合ってほほ笑みを交わしている。海よりも深い兄弟愛を間近に見て、フランセットの胸が熱くなった。

 ウィールライトの兄弟王子たちのブラコン度は、目を覆わんばかりの重症レベルなのだが、こういう場面を見るとやはり感動してしまう。フランセットには、口から先に生まれたような弟がいる。生意気なことばかり言う弟だが、愛情はもちろんある。メルヴィンたち兄弟を見ていると、弟に無性に会いたくなってくるから不思議だ。

 と、黒目がちの瞳をレイスがこちらに向けて、口を開いた。

「フランセットさま。そのロロットは、怪我が治ったあともおそばに置くおつもりですか?」

「それはまだ考えていなかったけれど……そうね、どうしようかしら」

 フランセットは、足もとの籠を見下ろしつつ考えた。

「もともとは野生動物なのだから、怪我が治ったら自然に帰すのが定石よね。ただ、大怪我だったことが気になるわ。レイスさま、この子は抜糸後に野生に帰しても、ちゃんとやっていけそうでしょうか」

「ええと……そうですね。あの、フランセットさま。それにお答えする前に、ひとつよろしいでしょうか」

 遠慮がちにレイスが言った。

「僕はフランセットさまの弟の立場なので、敬語をつかっていただかなくてもいいですよ。なんだか申し訳なくなってしまいます」

「言われてみればそうですね。エスターとアレンにも、同じようなことを言われていたのだったわ。じゃあ、お言葉に甘えて普通の言葉遣いで話させてもらうわね」

「はい、そうしてください」

 嬉しそうに笑うレイスは、とんでもなく可愛かった。十五歳は、大人と子どもの中間にあたるお年頃である。この時期の少年は反抗期に入って可愛くなくなったりするらしいのだが、レイスには当てはまらないようだ。

「レイスも、よかったら普通の言葉で話してね。エスターもアレンも、それはもう好き勝手にわたしに話しかけてくるものだから、あなたも遠慮はいらないわ」

「はい。じゃあ、ええと――」

 レイスは、耳をちょっとだけ赤らめながら言った。

「フランセット姉さま、とお呼びしてもいいですか?」

 この瞬間、フランセットはこの王族兄弟の義理の姉になって本当によかったと心の底から思うことができた。なにしろ、普段から親しく接しているふたりの義弟は、可愛いところもあるにはあるが、とにかく食えない存在なのだ。

 フランセットは目を輝かせながら、レイスの白い手をとった。

「もちろんよ、レイス。これから仲良くしてね」

「こちらこそよろしくお願いします。姉さんは僕より十一歳年上なんですよね。王太子妃としてものすごくしっかりされているといううわさも聞いています。僕は王宮のことに関して無知なので、いろいろと教えてくださいね」

「あっ……そうね……わたしは十一歳年上なのよね……」

 いま気づいたが、ひと回り近く年下の義弟である。年の差の大きさを思い、フランセットは遠い目になった。

 一方でメルヴィンは、妻と弟の仲睦まじい様子をにこにこと見守っているようだった。

「大好きな奥さんと大切な弟が仲良くしていると、僕はとっても幸せな気持ちになるよ」

「レイスと話せてわたしも嬉しいわ。今度からはもっとたくさん遊びに来てね。いつでも歓迎よ」

「ありがとうございます。僕の家にも、いつでも遊びに来てくださいね。僕は、エスター兄さんやアレン兄さんとちがって、国王宮に住んでいないので、訪れるのに不便かもしれないんですけれど……」

 王太子であるメルヴィン以外の王子たちは、国王宮の中に自室を持っている。しかし、レイスだけは実母の住む家に居を置いているのだ。

 国王の――つまり、フランセットの義父の愛妾が住むその家を、フランセットは一度も訪れたことがない。

 国王の妾はフィーリアという名の元踊り子で、いまは『王家の丘』の麓近くに建つ屋敷に住んでいるという。フランセットは彼女と一度も会ったことがない。フィーリアに悪印象を持っているわけではないのだが、正妃である義母の手前、積極的に会おうとする行為
憚られたからだ。

(アレンのお母さまでもあるのだし、一度はごあいさつに行ったほうがいいとは思うのだけど……)

 もしかしたらフランセット自身が、フィーリアに会うのを恐れているのかもしれなかった。

 その理由は自分でもわかっている。彼女が、超大国の王の心をひと目で射止め、正妻と子がありながらも、道ならぬ恋に走らせた女性だからだ。

 どんな事情があろうとも、フランセットにとって不倫は道理に悖(もと)る行為である。王太子の正妃という立場からしても、そういった女性の存在は脅威でもあった。

(メルヴィンさまを信じているからそのあたりは大丈夫なのだけど……。つい身構えてしまうのは、女の本能から来る警戒心かしら)

 けれど、こういった心境は、レイスやアレンにまったく関係のないことだ。
 後ろめたい心地になりつつ、フランセットはほほ笑みながらうなずいた。

「ええ、ぜひ遊びに行かせてね」