60.5 シン(3)

 リオウとスオウも後ろから追ってきた。馬首を並べたその前後を、9匹の狼が走っている。

 駈足(かけあし)で馬を駆りつつ、先ほど考えた推論を三人に明かしてみた。
 リオウは楽しそうな表情で「そうくる?」と言っている。そんなリオウにユーマは「もとはと言えばおまえのせいだろう!」と怒っている。
 スオウは軽く笑った。

「まあ記憶が戻れば全部解決するだろう。戻らなくても解決すると思うがな。なにしろオレたちだって、出会ってまだ少ししか経っていないんだ。ゼロからやり直すのだって、そう苦じゃないさ。それよりも今は楓子だ」

 この様子だと、推論はどうやら間違っているようだ。
 ここから二手に別れてフウコを探すことになったが、なかなか見つからない。

「もう正午か」

 合流地点に一旦集まった。
 スオウは空を見上げる。

「夕刻までには見つけ出そう。アスカの手の者に見つかったら厄介だ」

 オレの推論が間違っていたとして、ではどうしてオレは草原に転がっていて、フウコの行方がしれないのだろう。
 スオウたちは再度、自分たちの狼に捜索の指示を出している。ずいぶんと賢い狼たちだ。

 ふいに、何かに呼ばれた気がして西の方を見た。最初に遠目で見つけたクランの方向だ。そちらから、二頭の馬がこちらに向かって駆けてきた。
 乗っているのは女と男だ。
 そのうちの一方、小柄な少女の方に、オレの目は吸い寄せられた。

 オレの視線に気づいたのか、ユーマたちもその馬を見る。

「楓子!」

 ユーマがそう呼んで、馬で駆け出した。フウコ? あれが?
 向こうもこちらを見つけたのか、距離がぐんぐん迫ってゆく。途中から小柄な少女が馬から降り、こちらへ駆けてきた。
 オレたちは馬を止め、地面へ降りる。

 駆けてくる少女は、黒い髪に白い肌をした、愛らしい姿をしていた。
 これがオレの大嫌いな人物……?
 強烈な違和感が湧きあがった。

 そうして腕の中に飛び込んできた少女を、オレは戸惑いながらも受けとめた。

「良かったシン! 無事でよかった。探したんだよ」

 少女はオレにしがみつくようにして、涙混じりの声でそう言った。
 リオウが肩をすくめ、スオウは安堵のため息をつく。

「探したのはこっちだ。一人でフラつくなと何度も言っているだろう、楓子」

 やはりこの少女がフウコなのか。
 オレは彼女の頬を包んで、上向かせた。黒い瞳に、ふっくらした唇。オレが彼女を嫌うだなんて、考えられない。
 そうだ、むしろ――

「他のクランの方(かた)が見てるぞ、おまえたち」

 唸るような低い声で、フウコと引き離された。
 くそ、もっとあのやわらかさを感じていたかったのに。思わずそれをしたユーマを睨みつけると、向こうも負けじと鋭い目線を向けてくる。

「見つかったのかね。それなら良かった」

 馬上から安堵したように言ったのは、壮年の男性だ。フウコは彼を振りかえり「一緒に探してくださってどうもありがとうございました」と頭を下げている。彼は笑みをかえしつつその場を立ち去っていった。

 ユーマが低い声で言う。

「おい楓子。あまり外部の者と接触するなといつも言っているだろう」

「だって緊急事態だったの。あんなことになっちゃって、あたしどうしていいのか分からなくて」

「オレたちもさ、今シンがこんなことになっちゃって、どうしようかと思ってるところなんだよね」

 ここでリオウが楓子に事情を説明した。

「えっほんとに? シン、記憶がなくなってしまったの?」

 楓子が必死の様子で語りかけてきた。
 オレは自然と楓子の髪に手を触れてしまう。

「すまない。何も思い出せないんだ」

「あたしのことも?」

「ああ……――いや、ばっちり覚えてる。オレはおまえが好きだ、フウコ」

 涙があふれそうな瞳を見て、オレはとっさに嘘をついた。しかしその後の告白は紛れもない本心だ。
 何しろかわいい。彼女の周りだけ、やわらかな色彩で輝いている。もうひと目見ただけで好きだと即断した。

「うわー、記憶を失ってもこういう単純さは変わんないんだね。ある意味尊敬」

「何も覚えてないくせに出まかせを言うな。そしてその手を離せ。」

 ユーマがいきり立っている。さっきからうるさい。
 そこでスオウが族長らしく場を静めた。

「感動の再会とヤジはここまでだ。さあ楓子、どうしてこうなったのか、事情を説明してくれるな?」

 今朝のことだ。
 オレが狩りに出たあと、フウコはオレが水筒を忘れたことに気づき、慌てて馬で追いかけたそうだ。
 オレは単独行動をしていたらしい。楓子が馬上越しに水筒を渡そうとしたところ、落馬しそうになった。それを庇ったオレが頭を打って気絶してしまったとのことだ。

「シンを月狼のクランに運ぼうと思ったんだけど、あたしひとりの力じゃ動かせなくて。それで近くに別のクランがあったから、オウルに見張りをお願いして、急いで協力を呼びに行ったの。でも戻ってきたらシンとオウルが消えてて、それであのおじさんが一緒に探してくれたんだよ」

 これが真相というわけだ。オレのむちゃくちゃな推論よりも、よっぽど説得力がある。

 しかし、フウコの説明を聞いているうちに、徐々に頭痛が増してきた。しまいには顔を上げられないほどになり、オレは片手で額を覆ってうつむいた。

「どうしたの、シン?」

 心配そうにフウコがオレを覗きこんでくる。その綺麗な瞳を見つめた時、オレの記憶が清流も濁流もすべて合わせて、脳の中になだれ込んできた。

「シン?」

「――楓子」

 オレはゆっくりと額から手を離し、彼女の頬を撫でた。

「おまえのことを、一時でも忘れるなんて」

 切ない思いでいっぱいになりながら、オレは楓子を抱きしめる。オレの脳と体は、すべての記憶をとり戻していた。
 なぜ忘れることができたんだろう。楓子は華奢でやわらかくて、少しでも力をこめたら壊してしまいそうだ。

「あーあ、やっぱりこうなっちゃう?」

「ははっ、オレは読んでたがな」

「…………。」

 楓子はオレの背中に手を回して、きゅっと抱きしめかえしてくれた。

「記憶が戻って良かった、シン」

 この思い出だけで、ベイズ5枚はいける。
 

 改めて近くのクランにお礼に行ったあと、オレたちは月狼のクランに帰った。
 もちろん、デタラメを言ってオレを混乱させたリオウにはお返しをしておいた。今頃兄に傷の手当てをしてもらっているだろう。

 そして、もうひとつ。

「シン、忘れ物はない?」

 ゲルを出る前に、楓子が可愛らしい笑顔でそう聞いてくれる習慣がついた。
 その姿に、オレはすぐさま彼女を寝台に引き戻したい衝動に駆られる。が、ぐっとそれを抑えこむところまでが、習慣になったことは、オレだけの秘密である。

 とにもかくにも、幸せなひと時であることに変わりはないのだから。

fin.