第三章
『結び目の城砦』が国王の再訪を受けたのは、ヒキガエル事件から三日後のことだった。
彼の姿を目に入れたとき、エルサはひどく焦った。
とっさに身を隠そうとしたが、名を呼ばれてしまったため、留まることを余儀なくされた。
場所は庭園の遊歩道、時は早朝のことである。
開門を許したのは、どうやらロキのようだ。
後からカストルに大目玉を食らうだろう――ロキはへっちゃらだろうが。
「この時間を狙って来てよかった。
散歩をしているところを捕まえられたらいいと思っていたんだ。
カストルに先に見つかるとうるさいからな」
爽やかに笑みながら、長い脚でアレスはエルサに近づいた。
エルサは、遊歩道の上で釘付けになっていた。
今日のアレスは王様らしい格好をしている。
軍服仕様の黒い衣装に、裏地が赤のマントを付けている。
房飾りは金色で、ベルトは白だ。明るい金髪と青い瞳は以前見たときと変わらず、雄々しい華やかさを放っている。
対してエルサは、外套は真新しく可憐ながら、中に着ているドレスは質素な物である。
髪も、櫛を入れただけで飾り立てていない。
アクセサリーは片翼のネックレスのみで、しかも外套の中に入れている。
エルサは、自分の出で立ちが突然気になり始めた。
これまで気にしなことがなかったから、余計に動揺してしまう。
頼みのマイアは、礼を取ってから後ろに下がってしまった。
園丁たちも同様である。
「森の魔女はあれきり現れていないようだが、その後は大事なかったか?」
エルサの焦りをよそに、優しい声でアレスが言う。
「カストルの報告はそっけなさすぎて、具体的なことがなに一つわからないからこうして直接訪ねて来たんだ。
どれほどそっけないか教えよう。
使いが運んできたのは、力任せに破ったと見られるメモ用紙一枚、書かれていたのはたった一文、『森に変事なし』」
カストルのやりそうなことだ。
動揺を忘れて、エルサは思わず笑みを零した。
丁寧に頭を下げる。
「兄が失礼をいたしまして、申し訳ございません」
「その失礼のおかげで、ここを再訪する口実ができたというわけだから、カストルにはむしろ感謝を伝えたいくらいさ。
またきみに会えて嬉しいよ、エルサ」
アレスはエルサの手をとり、手袋の上から甲にキスを落とした。
エルサの頬が赤く染まる。
「わたしのようなものに対して、畏れ多いお言葉です」
「そんなに固くならないでくれ。
きみは俺の命の恩人なのだから、俺に対してもっと偉そうにするべきだ」
アレスは明るい調子で無理難題を言う。
彼の背後には、群青色の軍服に身を包んだ従者がひっそりと控えている。
今回の来訪は、国王としての正式なものなのかもしれない。
エルサは背すじを正した。
「すぐに兄をお呼びいたします。
客間にお茶をご用意いたしますので、どうぞこちらへ。
お付きの方もぜひ」
「だ、そうだ。
よかったなティム」
アレスが従者を振り返ると、従者は礼儀正しい仕草で「どうもありがとうございます」とエルサに頭を下げた。
実直そうな、二十代後半くらいの青年だ。
エルサはマイアを振り向くと、彼女は了承の意を示して去っていった。
客間を整える指示をメイドに出しに行くのだ。
エントランスに向けて、エルサはアレスとともに遊歩道を歩き始めた。
三歩後ろを従者のティムが付いてくる。
「カストルは森に問題なしと報告してきたが、エルサの見解はどうだ?」
エルサに意見を求めてくるのは、彼の気遣いだろうか。
エルサは遠慮がちに首を振った。
「わたしには魔力がございませんから、森の中でなにかが起こっても察知できないのです」
「ああ、そういうことではないよ。
例えばの話だが、使用人や、ここを訪れてくる商人たちの中に、怪しげな動きをしている者がいなかったかということだ」
「使用人の関与を疑っていらっしゃるのですか?」
エルサは眉を寄せた。アレスは苦笑する。
「すまない。
きみが使用人を家族同然と感じているのは知っている。
だからこそ、エルサの情報が欲しかったんだ。
彼らといちばん接しているのはきみだからね」
アレスの立場上、確認しておかなくてはならない点なのだろう。
家族同然の使用人たちだが、エルサは色眼鏡を外すよう努力して考えてみた。
「使用人は皆、いつもどおり変わりありませんでした」
「ありがとう、参考になるよ」
アレスはほほ笑んだ。
「兄上方は変わりないかな?」
「ええ、特には。
ルイス兄様が最近忙しそうにしていますけれど、そういう時期が続くことは良くあることなので」
「彼は結界を張るのが得意だったな。この城砦や森の結界も彼が?」
「はい。
依頼を受けて、町や村に、対盗賊や獣用の結界を張りに行くこともあります。
遠い場所だと泊りがけの場合もあります」
「そのようだな。
セーレの仕事は『守護の天幕』の維持だけではないというわけだ。
天幕は国外から王国を守るためのものだ。内側からの脅威には、その都度対応していかなければならない。
国王として頭が下がる思いだよ」
アレスはこう言うが、国王が執る務めも尋常なものではないだろう。
セーレの主な役割は専守防衛だ。攻めてくるのを退ければ、それで良しとされる。
しかし国王は違う。それだけで済まない。
攻められたのを押し戻したのち、ふたたび攻められることのないよう対策を立てなければならない。
人災だけでなく、災害に対しても策が必要だ。
緻密な計画を立て、予算と人手を振り分け、失敗のないよう進めなければならない。
また、経済・産業の安定と発展を図り、外交を調整するのも国王の仕事である。
国内では、各地の領主と密に連携を取り、有識者だけでなく平民からも分け隔てなく意見を聴き、流動的に対応していかなければならない。
国民の生活がかかっているので手堅く行くことが定石だが、時には思い切った決断や、ユニークな策も必要になってくるだろう。
外国に対しては、交易はもちろんのこと、近隣諸国の治安を安定させることも重要な課題となる。
そのために、外国を助けるための派兵や、難民の受け入れだけでなく、技術者の派遣と受け入れ、留学生や芸術家などによる文化的交流を橋渡しすることにも手を抜いてはならない。
改めて考えてみると、アレスは多忙を極めているはずだ。
城砦には、密なスケジュールの合間を縫って訪れているはずである。
「森の魔女の調査は、兄に――カストルに一任されているのですか?」
「いや、ルイスだ。
本人からの希望でね」
「ルイス兄様の希望ですか」
珍しい、とエルサは感じた。
二番目の兄は控えめな性格なので、自分の希望を表すことは滅多にない。
上と下の兄弟が、自分の意見ばかりを押しとおそうとする傾向にあるので、自然とそういう性格が身についたのかもしれないのだが。
「カストルからの報告は、ルイスの調査結果を記したものだろう。
できればカストルだけでなく、ルイスからの話も聞きたいと思っているのだが、彼とは会えそうかな」
「それが、また泊りがけの依頼があったようで、昨夜から戻ってきていないのです。
連絡もなしに二晩あけることはないので、今日中には戻ってくると思うのですが……」
「そうか。間が悪かったな」
国王の多忙さを思って、エルサは申し訳なくなった。
「よろしければ、ルイス兄様に王城へ出向くようお伝えしますが」
「それは余計な気遣いというものだよ、エルサ。
きみに会いにここを訪れる絶好の口実を、ほかでもないきみの手で俺から奪わないでくれ」
アレスの口調は冗談めいているから、エルサはどう返していいのかわからない。
結局、頬を赤らめるだけの結果になってしまう。
エントランスの小階段に辿り着いた。扉番の魔術師が一礼する。
アレスが差し出した手に、躊躇しながらもエルサは自身のそれを重ねた。
彼にエスコートされつつ階段に足を掛けたとき、アレスの動きがピタリと止まった。
不思議に感じる間もなく、エルサは手を引かれて彼の胸に収まっていた。
アレスは二段目の階段に立っていたから、よろけたところを抱き支えられる。
窓ガラスの割れるような音が耳をつんざいたのは、その直後だった。