上空だ。
半球状に城砦を覆っている結界が、割れた。
エルサは遅れてそのことに思い至った。
この城砦を守るためにルイスが張っている結界の一部が、何者かの魔力によって破壊されたのだ。
ルイスの結界が破られるとは、ただ事ではない。
一体誰の仕業なのか――。
ふいに、エルサの視界の端で赤色が躍ったと思ったら、突如として気温が一気に上がった。
アレスを中心に、炎が立ち昇り、渦となって轟音を響かせる。
エルサが怯えて身を固くすると、アレスがさらにエルサを抱き込んで囁いた。
「俺の炎はきみを焼かない。
怖がらないで、これはきみを守る力だ」
従者のティムが「上から来ます!」と警告を放った。
アレスの腕の中で、エルサはふたたび空を見た。
巨大な髪の束のようなものが、蛇のようにうねりながら、ものすごいスピードで落ちて来た。
髪の色は白だった。
髪の束は、エルサとアレスめがけて突進してくる。
同時にアレスの炎が、歓喜して湧き上り、髪の束を迎え撃った。
火花が散り、光が弾け、髪の焼ける音が生じた。
アレスが呪文を詠唱する。
渦巻く炎が膨張し、大きく脈動する。
巨鳥の形を取り、飛翔した。
炎の嘴から火柱を吐き、翼から熱風を生み出して、白髪に襲い掛かった。
髪の束はヒステリックな動きを見せ、狂ったように暴れ回る。
両者のぶつかり合う音は、白髪の断末魔のように聞こえた。
白髪は明らかに劣勢で、みるみるうちに炎に呑まれ、焼き尽くされていく。
従者のティムが腰に帯びていた剣を抜き、跳躍した。
炎から逃れようとする髪を切り落とし、かざした片手から迸る炎で消炭にした。
城砦の扉番も同じようにし、白髪はすべて消滅するかと思われた。
しかし、少しずれた位置の上空から、ふたたび結界の割れる音が響いた。
アレスが、エルサを抱きかかえたまま階段から飛び降り、第二撃に備えた。
割れた部分から、真新しい毛の束が、凄まじいスピードで襲い掛かってくる。
またしても、標的はエルサとアレスのようだった。
そのとき、蒼天に稲光が走った。
天雷が撃ち落とされる直前に、アレスとエルサ、ティムと扉番は、美しい紋様を描く黄金の結界に包まれた。
雷(いかづち)は、白髪を千々に引き裂き、焦がし尽くした。
カストルの怒りに満ちた凄まじい一撃は、しかし、エルサたちを少しも傷つけなかった。
ルイスの巧緻な結界が、完璧に守りとおしたからだ。
襲撃を沈めた庭園に、埋み火の燻る音がしていた。
それが、エルサの耳にはどうしてか、少女のすすり泣く声に聞こえた。
声は、エルサの心の奥底に食い込んできた。直後、両脚からストンと力が抜けた。
アレスの腕の中で、エルサは気を失った。
何度呼び掛けても、エルサは目を覚まさなかった。
医術師に診せたが、外傷はどこにもない。
よって、内心性のショックから来るものだろうと結論づけられた。
彼女の部屋までは、アレスが横抱きにして運んだ。
ベッドに横たわる寝顔は、安らかとは言えないものの、苦しそうな様子ではない。
カストルが言うには、この様子だとエルサが『嘆きの魔女』に変貌してしまうことはないようだ。
安堵しつつ、また心配を残しつつも、アレスはセーレの兄弟とともに部屋を出た。
扉の前にティムを見張りとして立たせ、カストルの執務室に向かう。
ロキはどこをほっつき歩いているのか、姿を見せない。
「森に変事なしとは、よく言ったものだな」
ソファの背もたれに行儀悪く腰掛けつつ、アレスが笑った。
嫌味を多分に含んだ言い方になるのは、致し方のないことだ。
危うくエルサが傷つけられるところだった。
あの白髪がエルサを狙ったのかどうか定かではないが、もしそうであった場合、自分があの場にいなかったらどうなっていたことか。
狙われたのはアレスだということも考えられるが、しかし、今回の標的はエルサだろう。
あの白髪は、そういう動きをしていた。
「通常であれば――」
憔悴した顔つきで、カストルは口を開く。
妹が倒れたことが堪えているのだろう。
彼は、執務机の前に突っ立っている。
「敵方の魔術の発動を、直前に察知することが僕らには可能だ。
遅くとも二秒前には感じ取ることができる。
そして、攻撃魔術を事前に食い止めることができる。
そのはずなのに、今回はできなかった。
結界が破られたことも、あの忌々しい髪の束が襲い掛かってきたことも、執務室にいた僕には感知することができなかったからだ」
「相当に大きな音が、庭中に響いていたはずだが?」
アレスの問いに、カストルは眉を歪めた。
「聞こえなかった。僕にとっては、いつもどおりの静かな朝だった。
二度目の襲撃に気づけたのは、直感としか言いようがない。
胸騒ぎがしてここから窓の外を覗いたら、酷い事態になっていた。
雷を放ったのはその直後だ。
現場に駆け込むルイスの姿も見えていたから、結界の生成を託した上での詠唱だった」
アレスはルイスに視線を移した。
彼は、壁に背を預け、腕を組んで立っている。
兄と同じく憔悴しているものの、顔つきには鋭さが生じていた。
アレスの記憶では、次男のルイスは三兄弟の中でもっとも穏やかな性質をしているはずだ。
しかし、いまの彼は穏やかとは程遠い状態にあるように感じ取れた。
彼が口を開く。
「僕は昨夜から森の調査をしていました。
兄と同じく襲撃に気づくことはできませんでした。
庭の状態を目にして初めて気づき、兄が魔術を放つ気配を感じたので陛下たちに結界を張りました」
「常時、城塞に結界を張っているのはおまえなのだろう、ルイス?」
アレスは慎重に問う。
「結界が破られたことにも気づくことができなかったのか?
結界生成の名手と名高いおまえが察知できなかった理由があるなら、教えてもらいたい」
「面目もございません。
陛下の御身を危険に晒してしまったこと、平にお詫びしたく――」
「責めているわけじゃない。
あの襲撃は森の魔女によるものなのかどうか、おまえの考えを聞きたい。
当該事案はおまえに一任してある。
昨夜も一晩中調査に出ていたのなら、少しでもいいから前進が見られているならありがたいのだが」
「本日の襲撃は、森の魔女の仕業に相違ないかと」
静かな声でルイスは言った。
「僕らセーレの魔術師が察知できなかったことも鑑みて、『嘆きの魔女』の為せる業とも確言できます」
アレスはうなずいた。
「森に潜む『嘆きの魔女』の居所の特定は?」
「まだです。『嘆きの魔女』は結界の効果を打ち消します。
網に引っかかりません。そのため、動物を使います」
「動物?」
ルイスはうなずいた。
いつもほほ笑んでいるような男のはずだが、いまは無表情を保っている。
「森を住処とする一頭、一匹、一羽ずつ、すべての個体に結界を張ります。
野生の動物は人間の動きに敏感に反応します。
彼らの動きを観測していれば、どこに人間が潜んでいるのか推測できるはずです。
『嘆きの魔女』といえども、動物たちにとっては人間である以外何者でもないのですから」
「なるほど、妙案だな」
アレスはしばらく考えを巡らせた。
「その案を取ると、王城麾下の魔術師や兵士を森に遣わすことは、今後も不要になるか」
「森に潜む人間が魔女一人だけという前提でもって、動物の動きを追うことになりますので。
調査開始時より、森は立ち入り禁止の処置を取っています」
「いずれにしても、時間が掛かりそうだな。
俺はカストルほど短気ではないが、気が長いというわけでもない。
あまり遅いようなら俺のほうでも対応させてもらうぞ」
「……。
はい、承知いたしました」