25 エルサとルイス

第四章

 白髪の襲撃を受けてから、二日が経った。
 エルサは、ごく穏やかな朝を迎えた。

 三人の兄たちとの朝食を終え、自室で繕い物をしていると、マイアが来客を告げに来た。

「国王陛下がご到着されました。
 つきましては、エルサ様に会いたいと仰せになっております」

「アレス様が?」

 エルサは針を落としそうになってしまった。

「わたしに会いたいと?」

「はい、是非にと。
 応接間にお通ししようとしたのですが、庭で待つとおっしゃられて……あら、エルサ様、お顔が真っ赤になっていらっしゃいますよ」

 エルサはとっさに両手で自分の頬を隠した。
 今度こそ、針を布ごと絨毯に落としてしまった。

 マイアがクスクスと笑いながら、針と布を取ってくれる。

「カストル様は大層お怒りになって、陛下を追い出そうと躍起になっていらしたのですが、陛下は何処吹く風と言ったところでございました。
 本日カストル様は、王都より北にある村にお仕事に行かれる予定でしたので、先ほど出掛けられましたよ。
 ご安心ください、エルサ様。
 陛下はエルサ様に会うまで、王城にお帰りにならないこと確実ですわ」

 母代わりでもあるマイアには、エルサはとても敵わない。
 顔を赤くしたまま二の句を継げないでいると、マイアは外套をエルサに着せた。

「外は寒いので、暖かくしてくださいませ。
 さあ、庭へ参りましょう」

 どきどきする胸を押さえながら庭へ行くと、エントランス階段の下に、国王とその従者の姿があった。
 意外なことに、ルイスもいる。

 ルイスとアレスは、何事かを話し込んでいる様子だった。
 二人から数歩離れた位置で、帯剣した従者一人が控えている。

 会話を邪魔したらいけないような気がして、エルサはしばらく階段の上で待っていることにした。

 二人はすぐにエルサに気づいて、こちらを振り仰いだ。
 それから二、三言葉を交わしたのちに、ルイスだけが階段を昇ってくる。

「やあ、エルサ。
 国王に会いにきたのかい?」

「いえ、あの……陛下がお呼びになっていると、聞いたので」

 アレスに自ら会いにきたと思われたくなくて、エルサはしどろもどろに応えた。
 城塞外の男性に会おうとすることに、罪悪感があるからだ。

 ルイスは、エルサの心情を把握しているかのように優しくほほ笑んだ。

「近頃のエルサはとても生き生きしているね。
 そういうおまえを見るのは、僕も嬉しいよ」

「ルイス兄様――わたしは、お兄様たちにご心配をまた掛けていないでしょうか」

「妹を心配するのは兄の仕事だからね」

 ルイスは、エルサの頭にぽんと手を乗せた。
 瞳を和らげたまま、言う。

「エルサは国王のことが好きかい?」

「え……!?」

 予想もしていなかった問いに、エルサの顔は一瞬で真っ赤になった。

 その反応で、ルイスに答えを返しているようなものだ。
 エルサが慌てて取り繕おうとするのを、ルイスは止めた。

「いいんだよ、エルサ。
 おまえの気持ちを確かめたかっただけなんだ」

「わたしは――でも、『嘆きの魔女』にならないよう、外部の方と接触を持ってはいけないのに、このような気持ちを持ってしまって。
 お兄様たちにまたご迷惑を掛けてしまうかもしれないの。
 それが、とても心苦しくて……」

 動揺し切ったエルサがそう口走ると、ルイスは首を振った。

「おまえは迷惑などひとつも掛けていないよ。
 そんな風に思い詰めることで、おまえがつらい思いをするほうが余程嫌だ。
それに僕は、たとえエルサが『嘆きの魔女』に変貌したからといって、必ずしも」

 そこでルイスは不自然に言葉を切った。

「ルイス兄様?」

「必ずしも――不幸だとは思わない。
 喜びも幸せも、必ずそこにあるはずだ。生きている限りはね」

 見慣れたはずの琥珀色の瞳が、不思議な色合いを帯びている。

「だからエルサも、心のままに生きるといい」

 優しい口調とやわらかなほほ笑みは、いつもと同じ、変わらぬ兄のものだった。

 しかし、カストルに次いで心配性のルイスが、このような言葉をエルサに掛けたことに、エルサは新鮮な衝撃を受けた。

 心のままに生きるということを、頭で理解するのではなく、心と体で実践するよう、ルイスは求めているのだ。

 いまのエルサにとって、それはとても難しいことである。
 けれど、もし実行することができたら、目の前が開けるような心地になるのかもしれない。

 そこへふと、ひとつの疑問が落ちて来た。

 どうしていま、この疑問を思いついたのか、エルサにはわからなかった。
 気付いたときには、もう口に出していた。

「兄様。
 朝食ののち、どちらへ行かれていたのですか?」

 ルイスは目を見開いた。

 朝食をいちばん先に食べ終えて、ルイスは食堂を後にしていた。
 それからいままで、一時間ほどの開きがある。

「ルイス兄様は、森に出掛けていたの?」

「うん、そうだよ。
 森の魔女の調査をしなければならないからね」

「昨日も一日ずっと、森に行っていたでしょう。
 夜遅くまで毎日のように、森の魔女を調査して……。
 最近のルイス兄様は顔色がとてもお悪いわ。
 何日かお休みになられたほうがいいのではないですか」

「そうもいかないよ。
 調査は国王陛下からの勅命でもあるし、森の魔女はこの城砦やおまえを襲ったのだからね」

「悩み事があるのではないですか、お兄様」

 ルイスは絶句したようだった。

 エルサは続けた。

「ずっと気になっていたの。
 アレス様がヒキガエルになってこの城砦に現れた夜から、ルイス兄様の様子がおかしいと感じていたわ。
 日に日にお顔の色が悪くなるし、雰囲気が、なんというか……鋭くなっていくような気がするの。
 思いつめているようなことがあるなら、エルサに話してください。
 微力だけれど、少しでも力になりたいの」

 必死に言い募るエルサを前に、ルイスはしばらく無言でいた。

 やがて、いつもどおりの優しい声音で告げる。

「ありがとう、エルサ。気に掛けてくれて嬉しいよ。
 けれど大丈夫だから心配しないで。
 僕は大丈夫。
 自分のやるべきことを、最後までやるよ」

「これは誰にも言っていなかったのですけど……わたしの勘違いかもしれないし。
 けれど、調査を行なっているルイス兄様にはお伝えしておきます。
 二日前の襲撃のとき、わたしは森の魔女の声を聞いたの」

「――え?」

 ルイスの纏う空気がざらりと変化した。

 やわらかいものから、切羽詰まったような感じになって、エルサに問う。

「声って、どんな?」

「泣き声です。慟哭ではなく、すすり泣きでした。
 それがとても寂しそうで、苦しげで、わたしはいたたまれなくなって……、その声が体の内側を反響するまでになって、ふつりと気を失ったの」

 そのとき、ルイスの瞳に走ったのは確かに痛みだった。

 ルイスは一度目を伏せ、それからエルサを見つめた。
 痛みはもう見出せなかった。

「おまえは、ただでさえ感受性に優れている上に、森の魔女とは『嘆きの魔女』としての性質を同一にしているから、彼女の心を感知できるのかもしれないね」

「ルイス兄様、わたしを一度、森の調査に同行させてはもらえませんか」

 エルサは、ルイスのローブをつかんで訴えた。

 ルイスは面食らった表情になる。

「突然なにを言い出すの、エルサ」

「あの泣き声を聞いてから、心に棘が刺さったように、ずっと離れないの。
 姿も見たことのない森の魔女の後ろ姿が、この目に見えるようなのよ。
 その彼女は、うずくまって泣いているばかりで、一度も顔を上げてくれない。
 青黒い空間の中でポツリと浮いて、一人きりで泣いているの。
 あのように寂しい背中を、わたしはこれまで見たことがないわ」

 ルイスはなにかを耐えるようにくちびるを噛んだ。

「魔力を持たないわたしに、なにができるとも思えない。
 ルイス兄様の足手まといになるだけかもしれない。
 でも、このままではいられないの。
 ルイス兄様、どうかわたしを森に連れていってください。
 森の魔女に一目会いたいの」

「いいかい、エルサ。
 よく聞いてくれ」

 ルイスは、エルサの両肩をつかむようにして言った。