第四章
白髪の襲撃を受けてから、二日が経った。
エルサは、ごく穏やかな朝を迎えた。
三人の兄たちとの朝食を終え、自室で繕い物をしていると、マイアが来客を告げに来た。
「国王陛下がご到着されました。
つきましては、エルサ様に会いたいと仰せになっております」
「アレス様が?」
エルサは針を落としそうになってしまった。
「わたしに会いたいと?」
「はい、是非にと。
応接間にお通ししようとしたのですが、庭で待つとおっしゃられて……あら、エルサ様、お顔が真っ赤になっていらっしゃいますよ」
エルサはとっさに両手で自分の頬を隠した。
今度こそ、針を布ごと絨毯に落としてしまった。
マイアがクスクスと笑いながら、針と布を取ってくれる。
「カストル様は大層お怒りになって、陛下を追い出そうと躍起になっていらしたのですが、陛下は何処吹く風と言ったところでございました。
本日カストル様は、王都より北にある村にお仕事に行かれる予定でしたので、先ほど出掛けられましたよ。
ご安心ください、エルサ様。
陛下はエルサ様に会うまで、王城にお帰りにならないこと確実ですわ」
母代わりでもあるマイアには、エルサはとても敵わない。
顔を赤くしたまま二の句を継げないでいると、マイアは外套をエルサに着せた。
「外は寒いので、暖かくしてくださいませ。
さあ、庭へ参りましょう」
どきどきする胸を押さえながら庭へ行くと、エントランス階段の下に、国王とその従者の姿があった。
意外なことに、ルイスもいる。
ルイスとアレスは、何事かを話し込んでいる様子だった。
二人から数歩離れた位置で、帯剣した従者一人が控えている。
会話を邪魔したらいけないような気がして、エルサはしばらく階段の上で待っていることにした。
二人はすぐにエルサに気づいて、こちらを振り仰いだ。
それから二、三言葉を交わしたのちに、ルイスだけが階段を昇ってくる。
「やあ、エルサ。
国王に会いにきたのかい?」
「いえ、あの……陛下がお呼びになっていると、聞いたので」
アレスに自ら会いにきたと思われたくなくて、エルサはしどろもどろに応えた。
城塞外の男性に会おうとすることに、罪悪感があるからだ。
ルイスは、エルサの心情を把握しているかのように優しくほほ笑んだ。
「近頃のエルサはとても生き生きしているね。
そういうおまえを見るのは、僕も嬉しいよ」
「ルイス兄様――わたしは、お兄様たちにご心配をまた掛けていないでしょうか」
「妹を心配するのは兄の仕事だからね」
ルイスは、エルサの頭にぽんと手を乗せた。
瞳を和らげたまま、言う。
「エルサは国王のことが好きかい?」
「え……!?」
予想もしていなかった問いに、エルサの顔は一瞬で真っ赤になった。
その反応で、ルイスに答えを返しているようなものだ。
エルサが慌てて取り繕おうとするのを、ルイスは止めた。
「いいんだよ、エルサ。
おまえの気持ちを確かめたかっただけなんだ」
「わたしは――でも、『嘆きの魔女』にならないよう、外部の方と接触を持ってはいけないのに、このような気持ちを持ってしまって。
お兄様たちにまたご迷惑を掛けてしまうかもしれないの。
それが、とても心苦しくて……」
動揺し切ったエルサがそう口走ると、ルイスは首を振った。
「おまえは迷惑などひとつも掛けていないよ。
そんな風に思い詰めることで、おまえがつらい思いをするほうが余程嫌だ。
それに僕は、たとえエルサが『嘆きの魔女』に変貌したからといって、必ずしも」
そこでルイスは不自然に言葉を切った。
「ルイス兄様?」
「必ずしも――不幸だとは思わない。
喜びも幸せも、必ずそこにあるはずだ。生きている限りはね」
見慣れたはずの琥珀色の瞳が、不思議な色合いを帯びている。
「だからエルサも、心のままに生きるといい」
優しい口調とやわらかなほほ笑みは、いつもと同じ、変わらぬ兄のものだった。
しかし、カストルに次いで心配性のルイスが、このような言葉をエルサに掛けたことに、エルサは新鮮な衝撃を受けた。
心のままに生きるということを、頭で理解するのではなく、心と体で実践するよう、ルイスは求めているのだ。
いまのエルサにとって、それはとても難しいことである。
けれど、もし実行することができたら、目の前が開けるような心地になるのかもしれない。
そこへふと、ひとつの疑問が落ちて来た。
どうしていま、この疑問を思いついたのか、エルサにはわからなかった。
気付いたときには、もう口に出していた。
「兄様。
朝食ののち、どちらへ行かれていたのですか?」
ルイスは目を見開いた。
朝食をいちばん先に食べ終えて、ルイスは食堂を後にしていた。
それからいままで、一時間ほどの開きがある。
「ルイス兄様は、森に出掛けていたの?」
「うん、そうだよ。
森の魔女の調査をしなければならないからね」
「昨日も一日ずっと、森に行っていたでしょう。
夜遅くまで毎日のように、森の魔女を調査して……。
最近のルイス兄様は顔色がとてもお悪いわ。
何日かお休みになられたほうがいいのではないですか」
「そうもいかないよ。
調査は国王陛下からの勅命でもあるし、森の魔女はこの城砦やおまえを襲ったのだからね」
「悩み事があるのではないですか、お兄様」
ルイスは絶句したようだった。
エルサは続けた。
「ずっと気になっていたの。
アレス様がヒキガエルになってこの城砦に現れた夜から、ルイス兄様の様子がおかしいと感じていたわ。
日に日にお顔の色が悪くなるし、雰囲気が、なんというか……鋭くなっていくような気がするの。
思いつめているようなことがあるなら、エルサに話してください。
微力だけれど、少しでも力になりたいの」
必死に言い募るエルサを前に、ルイスはしばらく無言でいた。
やがて、いつもどおりの優しい声音で告げる。
「ありがとう、エルサ。気に掛けてくれて嬉しいよ。
けれど大丈夫だから心配しないで。
僕は大丈夫。
自分のやるべきことを、最後までやるよ」
「これは誰にも言っていなかったのですけど……わたしの勘違いかもしれないし。
けれど、調査を行なっているルイス兄様にはお伝えしておきます。
二日前の襲撃のとき、わたしは森の魔女の声を聞いたの」
「――え?」
ルイスの纏う空気がざらりと変化した。
やわらかいものから、切羽詰まったような感じになって、エルサに問う。
「声って、どんな?」
「泣き声です。慟哭ではなく、すすり泣きでした。
それがとても寂しそうで、苦しげで、わたしはいたたまれなくなって……、その声が体の内側を反響するまでになって、ふつりと気を失ったの」
そのとき、ルイスの瞳に走ったのは確かに痛みだった。
ルイスは一度目を伏せ、それからエルサを見つめた。
痛みはもう見出せなかった。
「おまえは、ただでさえ感受性に優れている上に、森の魔女とは『嘆きの魔女』としての性質を同一にしているから、彼女の心を感知できるのかもしれないね」
「ルイス兄様、わたしを一度、森の調査に同行させてはもらえませんか」
エルサは、ルイスのローブをつかんで訴えた。
ルイスは面食らった表情になる。
「突然なにを言い出すの、エルサ」
「あの泣き声を聞いてから、心に棘が刺さったように、ずっと離れないの。
姿も見たことのない森の魔女の後ろ姿が、この目に見えるようなのよ。
その彼女は、うずくまって泣いているばかりで、一度も顔を上げてくれない。
青黒い空間の中でポツリと浮いて、一人きりで泣いているの。
あのように寂しい背中を、わたしはこれまで見たことがないわ」
ルイスはなにかを耐えるようにくちびるを噛んだ。
「魔力を持たないわたしに、なにができるとも思えない。
ルイス兄様の足手まといになるだけかもしれない。
でも、このままではいられないの。
ルイス兄様、どうかわたしを森に連れていってください。
森の魔女に一目会いたいの」
「いいかい、エルサ。
よく聞いてくれ」
ルイスは、エルサの両肩をつかむようにして言った。