城砦の外へ出る妹の姿を見たのは、何年振りだろう。
ルイスは、アレスの馬に相乗りをして門を出て行くエルサを見送りながら、感慨に耽った。
先代国王の暴言を受けたのは七年前のことだ。
エルサが『嘆きの魔女』に変貌しかけたことが元で、それ以来、エルサは一歩も外に出たことがなかった。
そして、七年経ったいま、先代の息子である現国王に連れられて、門の外に足を踏み出した。
ルイスにはそれが、奇跡の出来事のように思えるのだ。
不安がないわけではない。
七年前、不当に傷つけられたせいで妹が『嘆きの魔女』になりかけたときの、身の凍るような恐ろしさを、ルイスはまだ覚えている。
けれど、自分は知ったのだ。
『嘆きの魔女』に変貌した少女が、いかに愛らしく愛おしいかを。
変貌は、決して破滅ではない。
アイリスが魔力を制御できない以上、状況が八方塞がりであるのは事実だ。
でも、破滅ではない。
救えるはずだ。
幸福に生きられるはずだ。
その方法が、きっとどこかにあるはずだ。
エルサが『嘆きの魔女』にならないに越したことはないし、もっとも安全な道は、城砦に閉じ込めておくことだともわかっている。
カストルの気持ちも、弟の自分には痛いほどわかる。
でもエルサは、いつまでも子どもではない。
小さかったエルサは――兄たちの存在が世界のすべてであったエルサは、その純粋な瞳に別の人物を映すようになった。
それはきっと喜ばしいことだ。
祝福すべきことだ。
以前までは、ルイスはそのことこそが怖かった。
初めての恋にエルサが傷つくことばかりを恐れていた。
恋情が与えてくれる喜びを、その大きさのほどを、ルイスは知らなかったからだ。
「カストル兄さんにバレたら、大目玉どころじゃすまないな」
エルサとアレスは、遠ざかって姿を消した。
ルイスはくちびるに笑みを浮かべる。
「ロキあたりは、よくやったと大喜びしそうだけれど」
それからルイスもまた、門のほうへ足を向けた。
森に入るために、妹が通り抜けた道を反対方面に進む。
国王の部下に気づかれないよう細心の注意を払いながら、ルイスは狩小屋に辿り着いた。
結界に守られたその周囲は、アイリスの存在ごと、ルイス以外の者の目には映らないようになっている。
国王の部下は手練れ揃いだったが、セーレの魔術師であるルイスには及ばない。
狩小屋の結界に異常がないのを確かめてから、ルイスは中に入った。
するとアイリスは、食卓に突っ伏して眠っていた。
朝食は食べてあるようだ。
覗き込んでみると、彼女の下に絵本が敷いてある。
読みながら寝てしまったらしい。
子どものような無邪気さは、彼女の生まれ育った環境から来るのだろう。
大人のなり方を教えられぬまま、娼館の一室に閉じ込もって生きてきたからだ。
痛ましい事実ではあるが、アイリスの魅力でもあると感じる。
ルイスは笑みを零しながら、彼女を抱き上げた。
ベッドに運ぶ途中で、アイリスは目を覚ました。
緑色の左目が、眠そうに瞬きをする。
「ルイスだー……」
「おはよう、アイリス。
今朝の僕の言うことをちゃんと聞いていたみたいだね」
「うん。小屋から出なかったよ。
湖に行くのも我慢した」
ルイスはアイリスをベッドに下ろした。
すると「もう眠くないよ」と言って、上体を起こす。
嬉しそうに言った。
「ルイス、今日来るの二回目だね。
どうして?」
国王の手の者の動向が気になったからだ。
アイリスが小屋の中で大人しくしてくれているかを確認することも含んでいる。
ルイスは、アイリスの隣に腰掛けた。
「アイリスの様子が気になったんだよ」
「こっそり外で遊んでるかもって思った?」
「そうだったら困るな、と思ったんだ。
今朝も言ったけれど、いま、外には物騒な男たちがうろついているからね。
彼らに姿を見られたらいけないよ」
アイリスは表情を曇らせた。
「そういうの、怖いな」
「ここにいる限り安全だよ。
大丈夫」
アイリスの白髪を撫でながら、ルイスは言った。
「それに、今日は昼までならここにいられそうなんだ」
「お昼を過ぎたら城砦に帰っちゃうの?」
アイリスはひどく不安そうな様子である。
彼女の心を乱してはいけないと思い、ルイスは明るい声を出した。
「お昼までまだ時間はたっぷりある。
カードを持ってきたから、ゲームをして遊ぼうか」
「遊ぶ!」
アイリスはすぐさま食いついた。
それから、「やり方は知らないけど」と小さく付け加える。
「教えるよ」
ローブの懐からカードを取り出して切りながら、ルイスはほほ笑む。
カストルの帰宅予定は夕方だが、エルサが帰ってくるのは昼頃だろう。
ロキはいつものように姿を見せないので、エルサの帰宅までには城砦に戻らなければならない。
さらに、二日前のこともある。
アイリスがエルサを無意識のうちに攻撃しないよう、なるべく長く、アイリスの気を逸らす必要があった。
アイリスがエルサを攻撃するのは、ルイスの妹だからということがあるのだろう。
しかしそれだけでは、あのようにヒステリックな攻撃を仕掛けてくる理由には足りないような気がする。
エルサが、アイリスと同じ『嘆きの魔女』の因子を持っているからだろうか。
エルサの言葉を思い出す。
エルサは、アイリスの泣き声が聞こえてきたと言っていた。
とても悲しげな泣き声だったと。
アイリスのことがどうしても気になるから、森に連れて行ってほしいとも言っていた。
その申し出は、カストルの命令に背くことでもある。森は城砦の外にあるからだ。
これまでエルサは、言いつけを破るようなことをしようとは決してしなかった。
アレスと、そしてアイリス。この二人の存在が、まるで、エルサを外に引き出すための強い磁力を放出しているようだった。
アイリスとカード遊びにしばらく興じていると、ルイスの意識に不快な気配がざくりと食い込んできた。
手を止めて、ベッド脇の窓を見る。遠くに城砦の尖塔、その次に湖面、もっとも近くにあるのは落葉した広葉樹だ。
湖畔のあたりに人がいる。
四人、いや五人。魔術師だ。
「ルイスの番だよ」
アイリスが促す。
「ああ」と返事をして、シーツの上のカードの山に、手持ちの一枚を放った。
アイリスは難しそうな顔をして、ルイスの放ったカードと自分のカードと見比べている。
湖畔をうろつく魔術師たちは、アイリスを探しているようだった。国王の手下だろうと思われる。
彼らは今朝まで、城砦を挟んだ反対側を捜索していたので、ここに辿り着くにはまだ時間がかかるだろうと思っていた。
ルイスの計算違いだったようだ。
さすがは国王の選別した魔術師たちだと言ったところか。
アイリスが手持ちのカードを山の上に置いた。
自分が劣勢だということをわかっているようで、難しい表情は継続中である。
この狩小屋には二重の結界を張っている。
狩小屋自体を見えなくするもので、その中にいるアイリスのことも、魔術師たちからは当然見えない。
ルイスの結界を看破する実力も、彼らは持ち合わせていないだろう。
(ロキなら入り込めるのだろうが――)
あの弟は、湖畔に張ったルイスの結界を、黒兎の姿ですり抜けて、アイリスと接触している。
変身魔術を得意とするロキの、潜在的な魔力量に関しては、ルイスだけでなくカストルにも、昔から測りきれないところがあった。
しかしルイスは、ロキがアイリスを国王の手に差し出すようなことは絶対にしないという確信がある。
いたずら好きで、突拍子もないことばかりをする弟だが、人の自由を強制的に奪うという行為に関しては、非常な嫌悪を示す質なのだ。
だから、エルサを閉じ込めておくというカストルの方針に対して、いつも逆らってばかりいるのである。
弟についての見解を思い巡らせていると、なんの偶然か、その当人の気配が湖畔に突如加わった。
上空から急降下してギャアギャアとけたたましく鳴いている。
「鳥の声だ。
鷹かな、鷲かな」
実際に鳴き声を耳にして、アイリスは窓に顔を向けた。
「あんなに鳴くなんて珍しいんだよ。
ねえ、様子を見に行ってもいい?」
「だめだよ。
なにがあっても小屋の中にいるようにと、さっきも言ったばかりだろう?」
咎めながら、ルイスもまた窓の外を注視した。
あいにく、魔術師たちと鳥の姿は、木々が邪魔して目視できない。
鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。
魔術師たちは、その猛禽類がロキだと見破ることができないようだ。
騒がしさを嫌って、湖畔から退いていく。
魔術師たちの気配が充分に遠ざかったことを確認して、ルイスはベッドから立ち上がった。
アイリスが、びっくりした顔で見上げてくる。
「どうしたの、ルイス」
「ごめんアイリス、この続きは今夜にしよう。
急用を思い出したんだ」
ロキが飛び立ってしまわないうちに、湖畔に急ぐ必要があった。
ロキがアイリスに不利なことをしないと確信はあるが、ロキとは一度話し合う必要があると感じていた。
「まだ昼になってないのに、帰っちゃうの?」
アイリスは泣きそうな顔になった。
ルイスの心は痛んだが、カストルやエルサに勘付かれないうちにロキと話をするチャンスを逃せない。
「本当にごめん。
夜に必ず来るから」
「うん……」
「暖炉の火を絶やしてはいけないよ。
今日も一日冷え込みそうだからね」
アイリスの頭にキスを落として、ルイスは狩小屋を出た。
寒風の中(なか)歩を進めていくと、湖の間際に、見慣れた黒衣の青年が立っている。
フードは、ルイスと同じく被っていない。
不遜な様子で腕を組み、ロキはルイスを出迎えた。
「やあルイス、この色男。
きみが目下独占中の乙女を、僕に紹介してくれるのはいつ頃だい?
このままじゃ待ちくたびれて、ジイさんになってしまうよ」