30 恋人のような

「ご兄弟なのですか?
 こちらのお方は、アレス様のお兄様でいらっしゃるのですか」

 エルサの問いに、アレスはうなずいた。

「ああ、そうだよ。
 知らなかったのかい?」

「物を知らずお恥ずかしい限りです。
 申し訳ございません」

「謝る必要はないよ、エルサ。
 大方、カストルあたりが王家の情報をきみに一切入れなかったんだろう。
 あれはマルスといって、俺の兄に当たる男だ」

 であれば、彼は王兄ということになる。
 エルサは慌てて身じろぎをした。

「あの、アレス様。
 腕をお離しになっていただけませんか」

「どうして?」

「マルス様にご挨拶をしたいのです。
 このままでは無礼になります」

「この場合、俺の願望を打ち砕くという形で、最初に無礼を働いたのは奴のほうだ。
 気にすることはないさ」

 アレスはなかなかエルサを離してくれない。
 力では到底敵わないので無理やり離れることもできず、エルサは困惑する。

 アレスは笑みながら、エルサの髪にくちびるを押し当てた。

「困った顔も可愛いね、きみは」

「ア、アレス様!」

「俺の望みはこのあたりで妥協するよ。
 今後は不用意に俺を煽らないように。
 俺の理性に信頼を置いてくれているのであれば光栄な話だが、きみの見込み違いということも大いにありうるからね」

「理性に信頼?」

 意味がよくわからない。
 エルサが眉をひそめていると、マルスが忍び笑った。

「これはなかなかに面白い見世物だな、アレス。
 そういうおまえを見るのは生まれて初めてのことだよ」

「心寂しいおまえにいつでも見せつけることができるよう、今後も精一杯努力するよ」

 軽口を取り交わしつつ、アレスはエルサから腕をほどいた。
 温かさから離れて、冬の寒さが一息に戻ってくる。

 エルサは、アレスの名残を恋しく感じながらも、マルスのほうを改めて見返って、丁寧に礼をとった。
 
「いまさっきのご無礼をお許しください。
 お初にお目にかかります、わたくしは、カストル・セーレ公爵が妹、エルサと申します。
 マルス様への拝謁の機会をいただきまして、光栄の限りにございます」

「こちらこそ、お会いできて光栄だ。
 やはり、貴女がエルサ嬢なのだね」

 マルスは穏やかに言った。

 先ほどまでアレスに向けていた、からかうような笑みとは違って、優しげな表情になっている。

「アレスがヒキガエルになった事件については、彼から概要を聞いている。その犯人の魔女のこともね。
 弟を助けてくれてありがとう、エルサ。
 兄として、そして一臣民として礼を申し上げるよ」

「いえ、わたしではなく、兄たちがアレス様を元の姿に戻して差し上げたのです」

 エルサはほほ笑んだ。

「アレス様には、その後とてもよくしていただきました。
 わたしのほうこそ、心より感謝しております」

「健気なご令嬢だ。我が弟が得るには少々純白すぎるかな。
 アレスなどよりも私はどうだい、エルサ。
 見た目はこの通り変わるところがないし、中身は私のほうが慎重で上品だよ。
 加えて私にしておけば、王妃などという厄介な重荷を背負わなくてすむ」

「俺に呼び出しが掛かっているんじゃなかったのか、マルス」

 これ見よがしにエルサの肩を抱き寄せながらアレスが言った。
 マルスは弟のほうに視線を移す。

「そうだった、忘れていたよ。
 おまえの手の者から報告があるそうだ。
 詳しいことはティムから申し伝えるそうだよ。
 場所はおまえの執務室だ」

「エルサとの時間を楽しんでいたというのに、これか」

 アレスは肩をすくめた。
 マルスは腕を組みつつ笑う。

「あきらめることだ、国王陛下。
 多忙が王の人生だよ。
 おまえが戻るまでエルサ嬢は私が引き受けよう。
 構わないだろうか、エルサ?」

「はい、もちろんです。
 けれどマルス様のご迷惑になるのではないでしょうか」
 
 エルサは、アレスが行ってしまうことを寂しく思った。
 けれど、王事に励む彼を応援したいとも思った。

 マルスは言う。

「迷惑とはとんでもない。
 可憐な乙女のお相手をさせていただくこと以上に重要で素晴らしい事項など、この世にはないよ。
 さあおいで、エルサ」

「はい、あの……ありがとうございます」

 口がうまいのは、この兄弟の特徴なのかもしれない。

 アレスを窺いつつ、エルサは彼の腕の下から出ようとした。
 が、アレスは離してくれない。

 不機嫌なまま、彼はマルスに言った。

「乙女の相手という言葉をおまえが使うと、下衆な意味でしか取れないのだが?」

「ははっ、考えすぎだよ、アレス。
 少し疲れが出ているんだろう。
 報告を聞いた後はゆっくり休んでいるといい。
 そのあいだ、エルサはわたしが預かるから安心しておいで」

「まったく、どいつもこいつも俺からエルサを取り上げようとして……」

 アレスがため息をついて、エルサのほうを見下ろした。
 アレスが疲れている、という言葉を聞いて、エルサはにわかに心配になる。

「お疲れのところを付き合わせてしまい、大変申し訳ありませんでした。
 わたしのことはお気になさらず、どうかごゆっくりお休みください」

「…………」

 アレスはしばらくエルサを見つめていたが、やがてぽつりと言った。

「懐に入れて、どこへ行くにも連れ歩きたい……」

「え?」

「エルサ。
 報告を聞くことなど十分で終わらせることができる。
 すぐに戻るから、この場で待っていてくれ。
 寒かったらエントランスホールに暖炉が焚かれているから、そこにいてくれ。
 マルスとふたりきりでフラフラと出歩くようなことは決してしないでくれ。
 あいつは先ほど、自分の性質を慎重かつ上品などとぬかしたが、それは表の顔に過ぎない。
 中身は下衆だ。
 俺の言うことがわかるな?」

 ひどく真剣な表情でアレスは言った。
 エルサはなんとかうなずく。

「はい、承知いたしました」

 王兄を下衆であるなどとはとても言えないが、アレスの真剣さに押されてしまった。

 アレスは安堵したような表情になって、エルサの頬を撫でた。

「それじゃあ行ってくるよ。
 どうか待っていてくれ。
 体を冷やさないようにな」

「はい」

 彼の優しい言葉に頬をピンク色に染めて、エルサはうなずいた。

 アレスは名残惜しそうにしながらも、エルサから手を離した。
 踵を返して、本館のほうに立ち去っていく。
 途中、近衛と見られる青年らがアレスに随伴した。

 アレスの後ろ姿が見えなくなるまで見送っていると、マルスが背後でくすくすと笑った。

「十年会えない恋人たちの態だな」

「マ、マルス様」

 エルサは慌てて振り返る。