31 過保護の理由

「アレス様とわたしは、そのような関係ではないのです。
 だから、その……こ、恋人とは、違います」

「そのように頬を染めて言うのだからな。
 これまで女性関係に興味を示さなかったあいつが、初めて心を動かされたのが、深窓の初心な美少女とは。
 これをエロガキと表さずしてなんと言う」

 エルサはなんと返していいのかわからない。
 戸惑っていると、マルスが言った。

「あまり困らせては申し訳がないな。
 さて、エルサ。あれが戻ってくるまでここにいてもいいが、いかんせん寒いだろう。
 エントランスホールなら暖を取れるが、どうする?」

「わたしは、もう少し外にいたいです」

 カストルから贈られた、暖かい外套の胸元を引き合わせながらエルサは言った。

「マルス様がお寒いのでないのでしたら、よろしければ、もう少し外の空気を吸いたいです」

「ああ、そうか。
 貴女はカストルの長年隠していた姫君だったか。
 外に出たのは何年振りだい?」

「もう七年になります」

「七年――そうか」

 ふと、マルスが柳眉を寄せた。

「あのときは父が申し訳ないことをした。
 本来であればこちらから出向き、ご兄弟ともに謝罪を述べるべきだったが、その機会を設けることができず、今日まで来てしまった。
 遅きに失したが、いま心よりおわび申し上げる」

「いえ、それはもういいのです。
 お顔をお上げください、マルス様」

 エルサはやんわりとマルスに告げた。

「先代陛下は、心に闇を抱えていらしたのだとお聞きしております。
 誰しも、そういう不安に苛まれたときには、通常とは異なる言動をしてしまうもの。
 七年前は、それが極端な形で表れてしまったものだと感じております。
 わたしは、あのときのことについてなにも言うところはございません」

 マルスはしばらく言葉を発しなかった。
 驚きと感嘆の含まれているような沈黙ののち、マルスは表情をやわらげた。

「なんと透明な心持ちのご令嬢だろう。
 恥ずかしながら、私たち兄弟には多分に狭量なところがある。
 貴女を見習わなければならないな」

「そんな、身に余るお言葉です」

「外にしばらくいたいのだったね。
 私は寒さを感じないから、エルサがよければそのようにしよう」

「ありがとうございます。
 寒さを感じないとは、冬にお強いのですね」

「アレスと同じく、私は炎を操るからな。
 生まれてこのかた、寒さに打ち震えるという経験をしたことがないんだ」

 エルサはびっくりした。

「そうなのですね!
 羨ましい限りです。
 では、たとえば水を操る魔術師の方々は、夏の暑さとは無縁なのでしょうか」

「ああ、そうだよ。
 私たちは暑さが苦手だから、夏場はそういう者たちを近くに置いて、常に冷風を送らせているんだ」

「ふふ、それも羨ましいです」

「いつでも王城に来て涼んでいくといい。
 冬は私たちのどちらかが貴女の湯たんぽになろう。
 さあ、あそこのベンチに腰掛けるとしようか。
 ここから動いてもいいんだが、そうすると奴がうるさいからね。
 ベンチからは冬枯れの木々のほかに、ウィンタージャスミンの花壇やヴァイバーナムの木の花を観賞できる。
 エルサの気に入るといいんだが」

 マルスのエスコートを受けて、ほど近くにあるベンチに腰掛けた。
 座面は木製で、フレームは真鍮製の二人掛けベンチだ。

 マルスの言ったとおり、ここからは、遠くに冬枯れの広葉樹、もう少し近づいたところに噴水があり、その手前に整然と並ぶ花壇があって、低木樹のジャスミンがレモンイエローの花を生き生きと咲かせている。

 視界の左端にはヴァイパーナムが林立していて、薄桃色の花びらを開いていた。

「すごく素敵な景色ですね」

 エルサは感嘆した。

 おそらく、景観を計算してここにベンチを置いているのだろう。
 傍らには丸いガーデンテーブルもあり、お茶の時間を過ごせるようにもなっている。

「気に入ってもらえたようで嬉しいよ。
 花は春と言ったものだが、灰空の下の淡い彩りにも趣深いものがある」

「おっしゃるとおりだと思います」

 エルサは、庭からマルスに視線を移してほほ笑んだ。

 アレスと異なり、マルスは植物に関する造詣が深かった。
 植物だけでなく、動物や昆虫に至るまで、この庭園で知らぬところはないという博識ぶりだ。

 いろいろと話し込み、アレスが戻ると言った十分をすっかり過ぎて、三十分以上が経ってしまった。

 マルスは言った。

「どうやらアレスは、十分では到底解放してもらえないようだな。
 可哀想に」

「国王陛下のご職務は大変重いものなのですね。
 ご多忙が過ぎて、お身体を壊されなければいいのですが」

 エルサが心配していると、マルスが長い脚を組みながらこちらを覗き込んできた。

「ところでエルサ。
 貴女は、兄である私が国王の座に着くのではなく、弟のアレスが即位していることについて、なにも疑問に思わないのかな?」

 エルサはまばたきをした。

 言われてみれば、確かにそうだ。

 セーレ家では、長男であるカストルが跡を継いで公爵となった。
 次男であるルイスや、三男であるロキが当主になったほうがいいとは誰も言わなかったし、長男が継ぐのが当然だと、エルサも含めて誰もが思っていた。

 マルスは笑う。

「貴女は人の心の機微に聡いようだが、世間ズレしていないところもあるね。
 普通の者であれば、弟であるアレスが王位を継いだという情報を耳に入れた時点で、密かに探りを入れてくるものだ」

「探り……ですか」

「どうして兄ではなく弟が即位したのか。
 その理由はなんなのか。
 弟が飛び抜けて優秀であったのか、もしくは、兄が極めて愚かな出来損ないだったのか――」

「そんなこと」

 エルサは愕然とした。

「そのようなこと、考えません。マルス様と一言でも言葉を交わしたのであればわかることです。
 マルス様は優れたお方です」

「エルサがそうであっても、その他はそうではない。
 なまじ国王は最大の権力を有するものだから、人々の好奇心や、利害計算の餌食になる。
 王家にはそういう側面がついて回るんだよ」

「そういうことも、あるのかもしれないですが……」

 エルサの気持ちが沈んだ。
 自分が恐れる外の世界とは、こういうことを指すのだ。

 うつむきながら、苦しい心境をエルサは吐露する。

「わたしは、優秀な魔術師である兄たちの影にずっといて、人々から後ろ指を指される立場にいました。
 ですから、そういうことを勝手に思ったり言ったりする人々を、ただ怖いと感じます」

「怖いか。
 私たちとは違う感性だな。
 エルサはきっと、優しいのだろう」

 エルサは顔を上げた。

「では、マルス様とアレス様はどうお感じになるのですか?」

「怒りだ」

 静かな低音でもって発された言葉に、エルサは息を飲んだ。

 ややあって、マルスが表情をやわらげる。

「男女の違いというのもあるかもしれないな。
 エルサに対する世間の声に、カストルは怒っただろう?
 それと同じだよ」

「ああ……そうですね。
 そうかもしれません」

 エルサは弱々しく首肯した。

 それから改めてマルスを見て、あることを思い出した。

 マルスとアレスはどこを取ってもそっくりだ。
 けれどマルスのほうが、体の線が若干細い。

「もしかしたら、マルス様はお体が――」

 ぴくりとマルスの肩が動いた。

「マルス様は、ご健康にご不安を抱えていらっしゃるのですか。
 だから、アレス様に王位を譲られたのですか」

「驚いたな」

 ぽつりとマルスが言った。

「初対面でそれを見破ったのは貴女が初めてだ。
 観察眼が非常に優れているのか、感受性が鋭いのか。
 エルサは本当に、七年ものあいだ城塞に閉じこもっていたのかい?
 多くの人に会わなければ、人に対する観察眼は磨かれないだろう」

「いえ、そのように大層な理由ではないのです。
 ただ、恐れながら体の線がマルス様のほうがアレス様よりも細くていらっしゃることと、あとは、庭園の草花たちについて、とてもお詳しくいらっしゃるから、そうではないかと思ったのです」

「草花に詳しい?」

 エルサはうなずいた。

「先ほどお話しして感じたのですが、マルス様は草花というだけでなく、この広大な庭園にあるすべてのことついて、とてもお詳しくいらっしゃいます。
 一方でアレス様は、動物や昆虫、建造物についての造詣は深くあられましたが、植物についてはそこまでご存知ないようでした。動物や昆虫、大きな建物は、恐れながら男の子にとって興味の対象ですので、アレス様がお詳しくても不思議ではありません。
 兄たちもそうでしたから。
 でも、マルス様は、それに加えて草花の知識もたくさんお持ちでした」

 マルスは静かにエルサの話を聞いている。

 エルサは続けた。

「わたしも、城塞の庭に植わっている植物や、住み着いている動物と虫などに詳しいのです。
 外を出歩かないものですから、城塞の中にあるものについて、どうしても詳しくなってしまうのです。
 このようなことを申し上げるのは恐れ多いのですが、もしかしたらマルス様も、わたしと同じような理由で、王城の庭園にある動植物たちの知識を蓄えられていったのかもしれないと感じました」

「王城の中にずっといて、外を出歩く機会が少ないと?」

「はい。
 お痩せになっていることを加味して、もしかしたらご健康にご不安をお持ちになっているのではないかと思ったのです。
 ご無礼なことを口にして申し訳ございません」

「いや、いいんだ。
 まったくそのとおりだよ」

 マルスは小さく笑った。

「貴女の言うとおりだ、エルサ。
 私は幼少時からの虚弱体質が元で、貴族議会や臣下たちの不安を募らせてしまった。
 なにしろ、外での王事が半日も続けば翌日は発熱して寝込む、という体たらくだからな。
 私自身、努力はしたのだが、こればかりはどうにもならない。
 臣下から苦言を呈されたのち、自分から申し出て、弟の第二位王位継承権と自分のとを交換したのだ。
 父亡き後、アレスは立派に跡を継いでくれた。奴には感謝しているよ」

「ということは、アレス様もマルス様も、お二方ご納得の上で?」

「そういうことになる。
 むしろ私は、重荷から解き放たれてほっとしたよ。
 しかし、アレスはそう気楽にはいかなったようだな。
 いまでも一人で悩みを抱えているようだ」

「悩み、ですか……」

 悩みのない人間などこの世にいない。
 それをわかっていてもエルサは、どんなことでもものともしない強さを持っているようなアレスが、悩みを抱えている姿を想像するのは難しかった。

「悩みというよりも、罪悪感かな。
 奴は見てきているからね。
 幼い頃から王になるべく不断の努力を続けてきた私の姿を、誰よりもいちばん近くで見てきている。
 それを横から奪ってしまったことについて、罪の意識を持っているのだよ」

 マルスは脚を組み直して、咲き誇るウィンタージャスミンに視線を移した。

「そのようなことを感じる必要は、露ほどもないというのに。
 私は奴に、確かに助けられているのだから」

 マルスの思いが心に染み入って、エルサの胸が痛んだ。

 沈黙ののち、彼はいたずらっぽくこちらに目を向けた。

「アレスはお節介だろう?
 世話焼きで過保護で、なにかと強引に引っ張ってくるだろう?」

「えっ。
 いえ、そのようなことは」

 エルサが視線を泳がせると、マルスは笑った。

「奴のそういった性格は、もともとの気質によるところもあるが、罪悪感からきている部分も大きい。
 動かずにはいられないのだよ。
 王国民も含めて、自身の大切な人が思い悩んでいるのを見て見ぬ振りをすることができないんだ。
 ただ黙って見守るということが、奴のもっとも苦手とするところだ。
 自分よりも、相手を遥かに優先してしまうのだよ」