36 決意と衝動

「わたし、悪い魔女なんかじゃない」

「少なくとも、ルイスにとってはそうだろうね。
 けれど実際にきみは悪い子だよ。
 言いつけを破って外に出てしまったんだもの。
 僕がこの辺りを見張っていなかったら、いまごろは怖い魔術師たちに捕まっていたよ」

「ごめんなさい」

 ルイスに似ているけれど、ルイスではない男に近づかれて、アイリスは恐怖した。

 震える両脚でやっと立って、口走る。

「ごめんなさい、ちゃんと言うことを聞くから、ひどいことしないで」

「……。
 そうか。この姿できみの前に出たのは失敗だったな」

 青年は、よく意味のわからないことをつぶやいた。

「怖がらせるつもりはなかったんだ。
 ごめんね、アイリス」

 彼は優しくほほ笑んだ。
 それでもアイリスは、彼のことが怖くて仕方がなかった。

「わ、わたし、小屋にちゃんと、帰るから」

「うん、それがいい。
 ところでさっきから握りしめているそれはルイスの手袋かい?」

 アイリスが恐々うなずくと、青年は言った。

「これをルイスに届けようとしたんだね。
 けれど、なにもこんな夜更けに届けようとしなくても、明日にはルイスはここに戻ってくるでしょう?
 それを待てばよかったじゃないか」

「ル……ルイスは、今夜また来るって言ってて……でも、待ってても来ないから、手袋を探してるんじゃないかと思って」

「今夜?
 ――ああ、なるほど」

 彼は、しばし考え込むように沈黙した後、口を開いた。

「残念ながらそれは悪手だ。
 時期尚早というものだよ、アイリス。
 ルイスが、僕を締め上げる前に逃亡の旅に出る手段を取ったのは意外だけれど、あの優しい兄さんならありうることかな。
 いずれにせよ、もう少し待ってほしい。
 僕のほうにも計画というものがある」

 アイリスは、青年の言う意味を理解しようという努力すら放棄していた。
 早くルイスに戻ってきてほしかった。
 そして、この怖い青年を追い払ってほしかった。

「震えているね、アイリス。
 そんなに僕が怖い?」

 ルイスに似たくちびるで、彼は笑った。
 アイリスは、震えるような沈黙しか返せない。

「ふふ、ルイスはこの子兎をどうやって手懐けたのかな。
 詰めの甘いところのある兄さんだけれど、僕なんかよりよほど優しくて信頼が置けるんだろうね。
 わかるよ。
 さあアイリス、狩小屋にお戻り。
 その手袋は、僕がルイスに届けてあげるよ」

 青年は、黒のローブに包まれた右手をこちらに伸ばしてきた。
 彼の言葉を理解していなかったアイリスは、それが自分を捕らえようとするものだと、とっさに判断した。

 恐怖で目の前が真っ暗になり、アイリスの体の奥底で、なにか黒いものが暴れ出ようとした。
 自分を取り巻く夜の闇が、大きくざわめいたような気がした。

 青年が、ハッと息を飲んで後ずさる。
 アイリスは、湧き上がる恐怖のままに叫んだ。

「わたしに触らないで……!!」

 青年が後ろに飛び退いたのと同時に、アイリスの体内から大きな力が爆発した。

 周囲の木々をなぎ倒すだろうほどの破壊力を秘めたその力は、しかし、アイリスの足元から一息に編み上げられた黄金の籠によって封じ込められた。

 籠の中で荒れ狂う魔力はアイリスを傷つけはしなかったが、アイリスの体力を一瞬で奪った。アイリスは、世にも美しい黄金の結界に守られながら、両膝をついてへたり込んだ。

 この金色は、ルイスのものだ。
 ルイスが戻ってきてくれたのだ。

 アイリスは安堵を感じながら、胸元で手袋を握り込んだ。
 なにかを殴りつける音が耳に届いたのは、その直後のことだった。

「ロキ、おまえ、アイリスになにをした!」

 アイリスが顔を上げると、怒りに満ちたルイスの背中と、その目前で尻餅をつく青年の姿が目に入った。

 ローブを身に纏ったルイスは、同じものを着ている青年の襟元をつかみ上げ、無理やり立たせた。
 右の頬を赤く腫れさせた青年は、慌てたように言う。

「ちょっと待って兄さん、誤解だよ。
 僕はアイリスを小屋に戻そうとしただけなんだ」

「それだけのことをするのに、アイリスをこんなにも怯えさせる必要がどこにある!」

「いや、だって、元はと言えばルイスの帰りが遅いから――、ああでも、僕も悪かったよ、ごめん。
 アイリスのことをつい構いたくなってしまったんだ。
 僕に対してあんなにも怯えるあの子が、ルイスには心を開いているんでしょう?
 それがどうにも嬉しくなってしまって、つい長々と構ってしまったんだよ。
 ごめんよ、兄さん」

 謝罪する青年――ロキと呼ばれていた――を、ルイスは突き飛ばすようにして解放した。

「――それが嬉しくて、どうしてアイリスを構う結果になるのか、僕にはまったく理解できない」

「僕はいい加減な人間だから、誠実な人間性にふれる機会を得ると嬉しくなってしまうんだ。
 それが自分の兄さんのことだから、余計にね」

 右頬を痛そうにさすりながら、ロキは言った。

「それにしても、やることがちょっとハデすぎるんじゃないの?
 国王の飼い犬に勘付かれたら厄介だよ」

「この一帯にも結界を張った。
 気づかれる心配はない」

「ああ、そう。
 で、遅れた理由はなに?」

「エルサのことで、カストル兄さんに呼び止められたんだ。
 エルサがひどく落ち込んでいると」

 ルイスが声を低めた。
 ロキは沈黙する。

 それからルイスは、アイリスを振り返ってこちらに駆け寄ってきた。

「アイリス」

 黄金の結界が消えた。
 しゃがみこんでいるアイリスの前に膝をついて、頬に手を添える。

「遅くなってすまない。
 怪我はないか?」

「うん……」

 アイリスはうなずいて、涙で潤む瞳をルイスに向けた。

「うん、どこも怪我してない。
 これをルイスに届けに行こうと思ったの」

 手袋を差し出すと、ルイスはそれを受け取ってローブの懐に入れた。
 「ありがとう、アイリス」と言って、頬にキスをする。
 そのままアイリスを抱き上げると、背後のロキを振り返った。

「やり方はどうあれ、この子を止めてくれたことには感謝するよ。
 けれどおまえは城塞に戻ったほうがいい。
 エルサのそばにいてやってくれ」

「もちろんそうするつもりだけれど、兄さんも、もうしばらくは城塞か狩小屋のどちらかに身を置いていてほしい。
 まだどこにも行かないで、ルイス。
 国王の動きが心配なら、彼は大怪我を負って十日は動けない状態なんだ。
 根性出せば五日で動き出せるかもしれないけれど、猶予はまだある。
 もう少しだけ待っていてくれないか」

「――――」

 ルイスは眉を寄せて考え込んでいる様子だ。

 アイリスは不安になった。
 出発を遅らせるのは嫌だった。

 しかしルイスは、慎重な声で言った。

「それは、アイリスの救済に関わることなのか?」

「それ以外のなにがあるって言うのさ」

 わたしの救済?

 アイリスは、ルイスを見上げた。
 ルイスは難しい顔をして黙したあと、言った。

「五日待てばいいんだな」

 アイリスはショックを受けた。
 ロキが、ちらりとアイリスを一瞥した。

「――そうだね。
 それくらいあればいいと思う。
 でも、行く前は僕に一言告げてほしい。
 行き先まで教えろとは言わないよ」

「わかった」

 ルイスはうなずいた。
 それから二人は、二言三言(ふたことみこと)話してから別れた。
 ロキは城塞のほうへ踵を返し、ルイスはアイリスを抱き上げたまま荷物を持って、狩小屋に入る。

「ルイス。
 ねえ、ルイス」

 寝室の扉を開けるルイスに、アイリスは必死に言った。

「旅に出るのは五日後なの?
 今夜じゃないの?
 どうして?
 あの人がそう言ったから?
 あの人は誰?」

「彼はロキと言って、僕の弟なんだ」

 ベッドにアイリスを下ろして、ルイスは答えた。
 ベッド脇に荷物を下ろし、それから暖炉の火に目を向ける。

「部屋は暖まっているようだね」

「弟なの?
 なんで弟の言うことをすぐに聞いちゃうの。
 五日後なんて嫌。
 いますぐがいい」

「アイリス」

 ルイスはアイリスのとなりに腰を下ろした。
 琥珀色の瞳が、薄闇の中で光っている。

「予定を変えてごめん。
 逃亡の旅は最終手段なんだ。
 もししなくて済むのなら、しないほうがいい」

「どうして!?」

 身を乗り出すアイリスの、外套のボタンをルイスは外し始めた。
 暖かい室内ではすぐに外套を脱がないと、汗をかいて良くない。
 彼は常々そう言っていた。

「寒い冬に、寝場所を転々とするような生活をアイリスにさせたくない。
 本当は、この小屋にいさせたくないくらいなんだ。
 もっと広くて、清潔で、明るさに満ちた部屋に住まわせて、食べ物も着る物も、娯楽だって存分にあるような、そういう生活を僕はきみに送ってほしいと願っているんだよ」

「ルイスがなにを言っているのか、全然わかんない」

「なにより、きみの身と心の安全を。
 これは僕のためでもあるのだけれど」

 アイリスの腕から外套の袖が引き抜かれた。
 ワンピース姿に戻ったアイリスは、泣きそうになってしまう。

「生活とか安全とか、全然わかんない。
 だってルイスは今日も城塞に帰っちゃうということでしょ。
 五日後にするということは、そういうことでしょ?」

「ごめん、アイリス。
 きみは、きみ自身が思っている以上に危険な立場にあるんだ。
 だから、そういう状態からアイリスを救い出すためには、状況を見て判断を――」

「そんなの知らない!」

 アイリスは怒鳴った。癇癪を起こしていた。

「ルイスの嘘つき、ずっとそばにいるって、言ったじゃない!」

「嘘じゃないアイリス、僕は」

「ルイスなんてもういい、ルイスなんか嫌い、大嫌い。あっちに行って。
 出て行って!」

 ルイスは、不可思議な光を瞳にたたえてアイリスを見つめた。
 アイリスはなぜか、そのまなざしを怖いと感じた。

「僕はきみのことがなによりも大切だ。
 きみがなにを言おうと、僕はきみのそばにいるよ、アイリス」

「……信じない」

 怖気づきつつも、アイリスは首を振った。
 涙がぽろぽろと零れた。

「信じない、ルイスは嘘つきだもの。
 ルイスが出ていかないなら、わたしが出ていく。
 ルイスの顔なんて、もう見たくない」

 言い捨てて、アイリスはベッドから飛び降りた。
 しかしドアノブを握る直前で、後ろから左の手首をつかまれる。

「やだ、離してルイ――」

 手首を強く引かれて片腕に腰を取られ、体を反転させられた。
 そして抗議の声は、ルイスのくちびるに塞がれた。

「っ……――」

 腰を抱く片腕に、力が込められる。

 熱いくちびるがアイリスのそれに押し当てられ、それから顎を掴まれた。
 上向かされ、いっそう深く重ね合わされる。

 滾るような情熱をぶつけ、容赦なく流し込んでくるような口づけだった。
 アイリスは、抗う力をすべて奪い取られた。

「アイリス」

 荒い息の下、キスの角度を変える合間にルイスは言った。

「きみを愛してる」