42 硝子の棺

 アレスが『嘆きの魔女』の魔力を感じ取ったのは、城塞の結界が破砕されてすぐのことだった。

 本館三階のバルコニーに出て、愛しい娘を腕に抱きながら外を警戒していたら、庭園で手当てを受けていたカストルが、こちらに大声を張り上げてきた。

「森でなにかがあったようだ。
 様子を見てくるから、貴様はエルサを頼んだぞ」

「ちょっと待てカストル、一人で行く気か!」

 お互い急所を外していたとはいえ、大怪我であることに変わりはない。
 森の魔女が出現したと思われる森の中に、単身で乗り込むのは無謀である。

 焦るアレスに、エルサは言った。

「アレス様、わたしのことは構わず、カストル兄様と一緒に森に行ってください。
 きっと森にはルイス兄様がいます。
 アレス様の部下もいらっしゃるのでしょう?
 森の魔女が暴走したら、大変な被害になるかもしれません」

「しかし、きみを一人で置いてはいけない」

「では、わたしも連れて行ってください」

「そんなことはもっとできない!」

 拒絶するアレスに、エルサは熱心に言った。

「わたしには森の魔女の嘆きが聞こえるのです。
 彼女の混乱は、いまもっとも深まっています。
 混乱しきって、泣きじゃくっています。
 甚大な心の痛みを抱えているんです。
 彼女になにがあったのか、とても気になるのです」

「それでも駄目だ。俺はここに残って――」

 そのときバルコニーに小さなてんとう虫が飛んできた。
 エルサとアレスが思わずそれを目で追うと、てんとう虫はロキの姿にとって変わった。

「森がものすごいことになっているよ。
 アレス、きみの部下の不手際だ。
 まったく、どうしてくれるんだよ!」

 珍しくロキが怒っている。
 頭からフードを取り払いつつ、アレスにまくしたてた。

「アレスはいますぐに森に向かってくれ。
 エルサのことは僕が見ているから心配ないよ。
 森の魔女が湖畔で魔力を暴走させている。
 カストル兄さんだけじゃ戦力が足りないんだ。
 ルイス兄さんもヤバすぎる状態だし、このままだと、僕の兄さんたちが全滅してしまうよ」

 アレスは瞬時に状況を判断して、エルサをロキに託した。

「承知した、くれぐれも彼女を頼む。
 エルサ、ロキから離れるなよ」

 エルサはもどかしげにしながらもうなずいた。
 きっと、いますぐにでも森に駆けつけたい気持ちなのだろう。

 そんな彼女を元気づけるように、頬にキスをしてから、アレスは部屋を飛び出した。

 庭園に出ると、後ろから従者のティムがついてくる。
 アレスは彼に、城塞の使用人達の避難誘導を指示した。

 馬に飛び乗り、森の中を駆ける。
 すると、アレスよりも遅い速度で、カストルが乗馬して進んでいるのが見えた。

 カストルがこちらに気づき、馬腹を並べる。

「エルサは?」

「ロキに預けてきた。
 森の魔女は湖畔にいるそうだ」

「ロキか」

 カストルは眉を寄せた。

 湖畔は、想像を絶する有様だった。

 湖全体とその周囲を、黄金の結界が覆っていた。
 半球を描く美しい結界は、外部の人間が中に入ることを許さないものだった。

 花模様のあいだから内部が見える。
 嵐が吹き荒れ、黄金の雷がひっきりなしに落ち、地面を抉っている。
 暴風に煽られているのは赤い炎で、芝や花々を燃やし尽くし、波打つ湖の上でさえも狂ったように踊っていた。

 炎風の中心にいるのは、白髪の少女だった。
 水際に座り込み、泣き叫んでいる様子だった。
 彼女の声は、嵐の音にかき消されてこちらまで届かない。

「まずいな」

 黄金の結界に手でふれて、カストルは舌打ちした。

「この結界はあの少女が張ったものだろうが、長くはもたないぞ。
 結界が破られたら、あの凄まじい魔力が森中に解き放たれることになる。
 最悪、街や城塞にも被害が及ぶかもしれない。
 ――おいアレス。
 あそこに倒れているのは、貴様の部下じゃないのか?」

「ご明察だ。
 ロキが言うには、あいつらがヘマをしたせいでこの事態になったということだが。
 とにかくすぐに保護してやらないと、命が危ないな。
 ……ちょっと待て」

 アレスの声が緊張した。

「森の魔女が抱えているのは、ルイスじゃないか?」

「え?」

 雷と炎のせいで断続的にしか見えないが、森の魔女が膝に抱えているのは、黒いローブを纏った人物のように見える。

 黒のローブはセーレの兄弟の目印のようなもので、カストルは隣にいるし、ロキは城塞だ。
 残るはルイスだけと言うことになる。

 カストルは、両手で黄金の柵をつかんだ。
 表情がこわばっている。

「ルイス――ルイスだ。
 あいつ、あんなところでなにをしている。
 危ないじゃないか……!」

「すぐに結界を壊すぞ。
 壊したのち、俺が援護するからおまえは森の魔女を眠らせろ。
 あの少女には忍びないが、彼女は他者を傷つけすぎている。
 眠らせることが、最善の策だ」

「眠らせ……?」

 カストルはアレスを見た。
 カストルは、アレスの素早い状況判断についていけていないようだった。

 アレスは精神を集中し始める。

「よく見ろ、カストル。
 ルイスは出血している。
 それも尋常ではない量だ。
 意識も失っているのだろう。
 一刻の猶予もない状態の可能性が高い」

「出血……!?」

「結界を破壊する。
 いったん下がれ」

 アレスは、カストルの肩をつかんで下がらせる。
 全身に魔力を漲らせ、呪文を詠唱して魔術を解放した。

 甲高い音が鳴り響いて、黄金の結界が粉々に破砕される。
 とたんに、結界内を暴れまわっていた魔術が四方八方に飛び出してきた。

 アレスが、力技の魔術でそれを無理やり押さえ込み、カストルを怒鳴る。

「なにを呆けている!
 さっさとやれ!!」

「――くそっ」

 カストルは我に返り、まぶたを閉じて詠唱を開始した。

 『嘆きの魔女』を封印する魔術は甚大な集中力を必要とするようで、カストルは無防備な状態になっている。
 彼の周囲に結界を張ってやりつつ、アレスは、魔女の暴走の押さえ込みに努めた。

 カストルから黄金色の燐光が生じる。
 きらきらと輝くそれに乗せるように、古代語の呪文が詠唱されていく。

 やがて、彼の全身に魔力が満ち、長い詠唱が終わって、カストルは金色の瞳を開いた。

 直後、混乱の只中にしゃがみこんでいる少女の、その泣き声が、悲鳴に変わった。

 ひどく怯え、恐怖していて、そしてまだ幼いともいえる悲鳴だった。

 聞いているこちらの胸が掻き毟られるほど、悲痛な叫びだった。

「早く、眠ってくれ……!!」

 彼女の悲鳴を聞くに耐えない、といった様子でカストルが呻いた。

 それから数秒後、唐突に、理外の魔術の暴走がやんだ。

 嘘のように静まり返った湖畔で、アレスとカストルの荒い息遣いだけが聞こえている。

 アレスが体勢を立て直しながら、短く聞いた。

「封印は成功したのか?」

「ああ、多分……。
 けれど僕も、初めての経験だから」

「様子を見にいくぞ。
 一緒に来い」

 湖の周囲は荒れ果てていた。
 草花に覆われていた緑色の湖畔は、いまは茶色い土が抉り返されて見る影もない。
 透明度の高かった湖も、土や枝葉に濁ってしまっていた。

 アレスの部下の青年たち三人は、気を失って重症だったが、命に別状はなさそうだった。

 まもなくティムが、手勢を連れて駆けつけてくるだろうから、怪我の処置は彼らに任せればいい。
 部下たちがなにをどう間違えて、この状況を発生させてしまったのか、その尋問と処罰は体が回復してからだ。

「ルイス……」

 茫然とした声が聞こえて、アレスは振り返った。

 水際に倒れている二人を前に、カストルは立ち竦んでいた。

 アレスはカストルの肩に手を置いて、それから二人の傍に片膝をつく。

 ロキの言っていたとおり、ルイスは危険な状態だということが一見してわかった。
 部下の魔術師たちよりも早急な対処が必要だ。
 下手をすると、命が失われる可能性もある。

 まずは血止めと消毒をしなければならない。
 アレスは自分の軍服を脱いでそれを裂きながら、ルイスの隣で眠る少女に目を向けた。

 彼女は、信じられないほどに美しかった。

 全身を硝子質に変え、なめらかに透きとおっていた。
 おだやかな陽光を身に受けて、きらきらと煌めいていた。

 片方しかない目は静かに閉ざされ、両手を胸のあたりに重ね置いていた。
 身にまとっている可憐なワンピースも、編み上げのブーツやレースの靴下も、硝子質に変化している。
 そして胸元には片翼を象ったペンダントがあって、それだけが漆黒をしていた。

「これが、硝子の棺――」

 アレスはつぶやいた。

 なんて美しいのだろう。

 無垢で静謐な硝子の少女の周りには、いつのまにか、森の小動物たちが集まってきていた。
 雪兎や野鼠、鳥の親子などが、匂いをかいだり、少女に体をすり寄せている。
 まるで、彼女を心配しているかのようだ。

 そして、少女の腰のあたりには、ルイスの腕が回されていた。

 彼女を守るように、ルイスは少女に寄り添っていた。

 少女が硝子に変じたとき、ルイスの意識はとうになかっただろう。
 それでもルイスは、彼女を抱き寄せようとしたのだ。

 この光景を見ただけで、二人がどのような関係にあったのか推察できた。
 ルイスは守ろうとしたのだ。
 引き止めようとしたのだ。
 硝子に封印されていく少女を、引き止めようとしたのだ。

「ルイス、おまえ、どうして」

 カストルが、がくりと両膝を地についた。

「僕は――、兄失格だ」

 カストルの涙を、アレスは見ないようにした。

 えぐられるような胸の痛みを抑え込みながら、ルイスの応急処置を始めた。