アレスが『嘆きの魔女』の魔力を感じ取ったのは、城塞の結界が破砕されてすぐのことだった。
本館三階のバルコニーに出て、愛しい娘を腕に抱きながら外を警戒していたら、庭園で手当てを受けていたカストルが、こちらに大声を張り上げてきた。
「森でなにかがあったようだ。
様子を見てくるから、貴様はエルサを頼んだぞ」
「ちょっと待てカストル、一人で行く気か!」
お互い急所を外していたとはいえ、大怪我であることに変わりはない。
森の魔女が出現したと思われる森の中に、単身で乗り込むのは無謀である。
焦るアレスに、エルサは言った。
「アレス様、わたしのことは構わず、カストル兄様と一緒に森に行ってください。
きっと森にはルイス兄様がいます。
アレス様の部下もいらっしゃるのでしょう?
森の魔女が暴走したら、大変な被害になるかもしれません」
「しかし、きみを一人で置いてはいけない」
「では、わたしも連れて行ってください」
「そんなことはもっとできない!」
拒絶するアレスに、エルサは熱心に言った。
「わたしには森の魔女の嘆きが聞こえるのです。
彼女の混乱は、いまもっとも深まっています。
混乱しきって、泣きじゃくっています。
甚大な心の痛みを抱えているんです。
彼女になにがあったのか、とても気になるのです」
「それでも駄目だ。俺はここに残って――」
そのときバルコニーに小さなてんとう虫が飛んできた。
エルサとアレスが思わずそれを目で追うと、てんとう虫はロキの姿にとって変わった。
「森がものすごいことになっているよ。
アレス、きみの部下の不手際だ。
まったく、どうしてくれるんだよ!」
珍しくロキが怒っている。
頭からフードを取り払いつつ、アレスにまくしたてた。
「アレスはいますぐに森に向かってくれ。
エルサのことは僕が見ているから心配ないよ。
森の魔女が湖畔で魔力を暴走させている。
カストル兄さんだけじゃ戦力が足りないんだ。
ルイス兄さんもヤバすぎる状態だし、このままだと、僕の兄さんたちが全滅してしまうよ」
アレスは瞬時に状況を判断して、エルサをロキに託した。
「承知した、くれぐれも彼女を頼む。
エルサ、ロキから離れるなよ」
エルサはもどかしげにしながらもうなずいた。
きっと、いますぐにでも森に駆けつけたい気持ちなのだろう。
そんな彼女を元気づけるように、頬にキスをしてから、アレスは部屋を飛び出した。
庭園に出ると、後ろから従者のティムがついてくる。
アレスは彼に、城塞の使用人達の避難誘導を指示した。
馬に飛び乗り、森の中を駆ける。
すると、アレスよりも遅い速度で、カストルが乗馬して進んでいるのが見えた。
カストルがこちらに気づき、馬腹を並べる。
「エルサは?」
「ロキに預けてきた。
森の魔女は湖畔にいるそうだ」
「ロキか」
カストルは眉を寄せた。
湖畔は、想像を絶する有様だった。
湖全体とその周囲を、黄金の結界が覆っていた。
半球を描く美しい結界は、外部の人間が中に入ることを許さないものだった。
花模様のあいだから内部が見える。
嵐が吹き荒れ、黄金の雷がひっきりなしに落ち、地面を抉っている。
暴風に煽られているのは赤い炎で、芝や花々を燃やし尽くし、波打つ湖の上でさえも狂ったように踊っていた。
炎風の中心にいるのは、白髪の少女だった。
水際に座り込み、泣き叫んでいる様子だった。
彼女の声は、嵐の音にかき消されてこちらまで届かない。
「まずいな」
黄金の結界に手でふれて、カストルは舌打ちした。
「この結界はあの少女が張ったものだろうが、長くはもたないぞ。
結界が破られたら、あの凄まじい魔力が森中に解き放たれることになる。
最悪、街や城塞にも被害が及ぶかもしれない。
――おいアレス。
あそこに倒れているのは、貴様の部下じゃないのか?」
「ご明察だ。
ロキが言うには、あいつらがヘマをしたせいでこの事態になったということだが。
とにかくすぐに保護してやらないと、命が危ないな。
……ちょっと待て」
アレスの声が緊張した。
「森の魔女が抱えているのは、ルイスじゃないか?」
「え?」
雷と炎のせいで断続的にしか見えないが、森の魔女が膝に抱えているのは、黒いローブを纏った人物のように見える。
黒のローブはセーレの兄弟の目印のようなもので、カストルは隣にいるし、ロキは城塞だ。
残るはルイスだけと言うことになる。
カストルは、両手で黄金の柵をつかんだ。
表情がこわばっている。
「ルイス――ルイスだ。
あいつ、あんなところでなにをしている。
危ないじゃないか……!」
「すぐに結界を壊すぞ。
壊したのち、俺が援護するからおまえは森の魔女を眠らせろ。
あの少女には忍びないが、彼女は他者を傷つけすぎている。
眠らせることが、最善の策だ」
「眠らせ……?」
カストルはアレスを見た。
カストルは、アレスの素早い状況判断についていけていないようだった。
アレスは精神を集中し始める。
「よく見ろ、カストル。
ルイスは出血している。
それも尋常ではない量だ。
意識も失っているのだろう。
一刻の猶予もない状態の可能性が高い」
「出血……!?」
「結界を破壊する。
いったん下がれ」
アレスは、カストルの肩をつかんで下がらせる。
全身に魔力を漲らせ、呪文を詠唱して魔術を解放した。
甲高い音が鳴り響いて、黄金の結界が粉々に破砕される。
とたんに、結界内を暴れまわっていた魔術が四方八方に飛び出してきた。
アレスが、力技の魔術でそれを無理やり押さえ込み、カストルを怒鳴る。
「なにを呆けている!
さっさとやれ!!」
「――くそっ」
カストルは我に返り、まぶたを閉じて詠唱を開始した。
『嘆きの魔女』を封印する魔術は甚大な集中力を必要とするようで、カストルは無防備な状態になっている。
彼の周囲に結界を張ってやりつつ、アレスは、魔女の暴走の押さえ込みに努めた。
カストルから黄金色の燐光が生じる。
きらきらと輝くそれに乗せるように、古代語の呪文が詠唱されていく。
やがて、彼の全身に魔力が満ち、長い詠唱が終わって、カストルは金色の瞳を開いた。
直後、混乱の只中にしゃがみこんでいる少女の、その泣き声が、悲鳴に変わった。
ひどく怯え、恐怖していて、そしてまだ幼いともいえる悲鳴だった。
聞いているこちらの胸が掻き毟られるほど、悲痛な叫びだった。
「早く、眠ってくれ……!!」
彼女の悲鳴を聞くに耐えない、といった様子でカストルが呻いた。
それから数秒後、唐突に、理外の魔術の暴走がやんだ。
嘘のように静まり返った湖畔で、アレスとカストルの荒い息遣いだけが聞こえている。
アレスが体勢を立て直しながら、短く聞いた。
「封印は成功したのか?」
「ああ、多分……。
けれど僕も、初めての経験だから」
「様子を見にいくぞ。
一緒に来い」
湖の周囲は荒れ果てていた。
草花に覆われていた緑色の湖畔は、いまは茶色い土が抉り返されて見る影もない。
透明度の高かった湖も、土や枝葉に濁ってしまっていた。
アレスの部下の青年たち三人は、気を失って重症だったが、命に別状はなさそうだった。
まもなくティムが、手勢を連れて駆けつけてくるだろうから、怪我の処置は彼らに任せればいい。
部下たちがなにをどう間違えて、この状況を発生させてしまったのか、その尋問と処罰は体が回復してからだ。
「ルイス……」
茫然とした声が聞こえて、アレスは振り返った。
水際に倒れている二人を前に、カストルは立ち竦んでいた。
アレスはカストルの肩に手を置いて、それから二人の傍に片膝をつく。
ロキの言っていたとおり、ルイスは危険な状態だということが一見してわかった。
部下の魔術師たちよりも早急な対処が必要だ。
下手をすると、命が失われる可能性もある。
まずは血止めと消毒をしなければならない。
アレスは自分の軍服を脱いでそれを裂きながら、ルイスの隣で眠る少女に目を向けた。
彼女は、信じられないほどに美しかった。
全身を硝子質に変え、なめらかに透きとおっていた。
おだやかな陽光を身に受けて、きらきらと煌めいていた。
片方しかない目は静かに閉ざされ、両手を胸のあたりに重ね置いていた。
身にまとっている可憐なワンピースも、編み上げのブーツやレースの靴下も、硝子質に変化している。
そして胸元には片翼を象ったペンダントがあって、それだけが漆黒をしていた。
「これが、硝子の棺――」
アレスはつぶやいた。
なんて美しいのだろう。
無垢で静謐な硝子の少女の周りには、いつのまにか、森の小動物たちが集まってきていた。
雪兎や野鼠、鳥の親子などが、匂いをかいだり、少女に体をすり寄せている。
まるで、彼女を心配しているかのようだ。
そして、少女の腰のあたりには、ルイスの腕が回されていた。
彼女を守るように、ルイスは少女に寄り添っていた。
少女が硝子に変じたとき、ルイスの意識はとうになかっただろう。
それでもルイスは、彼女を抱き寄せようとしたのだ。
この光景を見ただけで、二人がどのような関係にあったのか推察できた。
ルイスは守ろうとしたのだ。
引き止めようとしたのだ。
硝子に封印されていく少女を、引き止めようとしたのだ。
「ルイス、おまえ、どうして」
カストルが、がくりと両膝を地についた。
「僕は――、兄失格だ」
カストルの涙を、アレスは見ないようにした。
えぐられるような胸の痛みを抑え込みながら、ルイスの応急処置を始めた。