45 両翼

 一面の闇だった。

 これほどになにもない空間というものとを、エルサは経験したことがなかった。

 それでも、不思議と恐怖は感じなかった。

 この闇に、どうしてか親しみさえ覚えていた。

 エルサは、自分の体がほのかに発光していることに気づいた。
 そして、何も身につけていないことにも気づいた。
 纏っていたのは、唯一胸元のネックレスだけだった。

 自分の体さえ見失ってしまうかのような暗闇の中で、エルサは、うずくまって震えている少女を見つけた。

 エルサは少女に近づいていき、彼女のすぐ前にしゃがんだ。

「こんにちは、初めまして」

 無風の空間で、自分の声はクリアに響いた。

 初めましてという挨拶は、自分でもなんだかおかしく思えた。
 何度か会っているような気がしていたからだ。
 実際は、こうして対面するのは初めてのことだったから、間違ってはいないのだけれど。

「わたしの名前はエルサ。
 あなたは?」

 少女は、そろそろと顔を上げた。
 頬はひどく泣き濡れていて、片方しかない目は腫れぼったく潤んでいる。
 彼女もなにも着ていなくて、そして、胸元には漆黒の片翼が揺れていた。

 彼女を、とても愛らしい女の子だと思った。

 このような子が、重大な嘆きに苦しんで、闇に怯えているのは、あんまり可哀想だとも思った。

「わたし、は……」

 掠れた声で少女は言った。

「わたしは、アイリスというの」

 言いながら、アイリスの目にみるみる涙が溜まっていった。

「ルイスが死んでしまったの」

「ルイスとは、ルイス・セーレのこと?」

「ルイスが血まみれになってしまった。
 わたしのことを庇って、お腹に、氷の槍が突き刺さって」

 アイリスの顔が歪み、悲痛な泣き声が滲み出た。

「ルイスはちゃんと、自分の周りに、結界を張っていたのに。
 わたしが、たぶんわたしの力が、知らないうちに、かき消してしまっていたの。
 ごめんなさい。ごめんなさい、ルイス」

 涙をこぼし続け、悲しみに嘆き続けるアイリスを、エルサは両腕で抱きしめた。

「ルイス――ルイス」

 エルサの腕の中で、アイリスは泣きじゃくっている。

 彼女の想いが、過去が、そして、彼女がルイスと送った日々の光景が、エルサに流れ込んでくる。

 生まれたときかから片目がつぶれていて、周囲の者から虐げられていたこと。
 姉たちから暴言や暴行を受けていたこと。
 母が死んでしまったこと。
 それを、アイリスのせいだと責められたこと。

 死ぬ思いで娼館から逃げ出して、街で男たちから襲われそうになり、そこで『嘆きの魔女』に変貌したこと。
 一瞬で白髪のになるほどの恐怖とストレスを受け、嘆きと混乱の中、森の中へ逃げ込み、そしてルイスに出会ったこと。

 虐待に怯え、恐怖に惑い、孤独に泣き続けていたアイリスを、ルイスが包み込んでくれたこと。

 二人が交わす深い愛情と、悲痛と、互いを必要とする切望に、エルサの胸が切なく締め付けられた。

 そうして二人は、引き裂かれてしまったのだ。

 気づけばエルサも、アイリスと同様に涙を零していた。

「つらかったね、アイリス」

 エルサには兄たちがいた。
 両親を喪い、人々から蔑まれても、エルサには兄たちがいてくれた。

 けれどアイリスには、誰もいなかった。

 もしエルサがアイリスと同じ境遇で育ったなら、きっと彼女と同じようになっていただろう。

 そして、あの優しい兄にいつしか出会い、心を救われていただろう。

「ルイスが、いなくなったら――わたしはもう、生きていけない。
 ルイスに会いたい。会いたいよ」

「うん、そうだよね。
 会いたいよね」

 いまにも崩れ落ちてしまいそうなアイリスを、エルサは強く抱きしめた。
 アイリスは、エルサにしがみつくようにして抱きしめ返した。
 そうしたら、ふいにアイリスが、涙で濡れた顔を上げた。

「エルサは、ルイスの妹……?」

「ルイス兄様が、アイリスのことをどれほど愛しているか知っているよ」

 エルサは、アイリスの涙を指先で拭った。

「ルイスと同じ匂いがする。
 指の感触も、声の響き方も、似てる」

「小さい頃は、エルサはルイスに似ているねって言われていたの。
 大きくなってからは、言われなくなったけれど」

 アイリスは切なげに笑った。

「いまも似てるよ。
 ルイスと同じ、温かくて優しい気配がする」

「ルイス兄様も、あなたに会いたいと思っているよ」

「でも……ルイスは、ママみたいに動かなくなってしまったから、もう会えないよ」

 ふたたびアイリスの表情が悲しげに歪んだ。
 エルサはほほ笑んだ。

「信じて、アイリス。
 ルイス兄様はあなたの名前をずっと呼んでいるよ。
 耳を澄まして」

「怖いよ。
 聞こえないかもしれないもの」

「大丈夫、わたしがそばにいるから」

 エルサは、アイリスの片翼のペンダントに指でふれた。

「これと同じものを、わたしも持っているわ。この翼の片方よ。
 ね、こうして合わせると、ぴったりでしょう?」

「本当だ。
 翼になった。
 これは、ルイスがわたしにプレゼントしてくれたものなの」

 アイリスの表情に、ほほ笑みが戻る。

「月の綺麗な夜だった。
 湖がきらきらして、すごく綺麗だった」

「ほら、聞こえるでしょう、アイリス。
 ルイス兄様が、あなたをずっと呼んでいるよ」

「……うん」

 アイリスは、不安そうにしながらも耳を澄ませた。

 やがて、濡れた頬に血色が戻ってくる。

「本当だ、聞こえる。
 ルイスの声が聞こえる。
 わたしを呼んでる」

 アイリスは、エルサを見上げた。

「それに、もう一つ、エルサを呼ぶ男の人も声も聞こえるよ」

「……うん、そうだね。
 聞こえるね」

 エルサは微笑した。

 合わせた両翼が白い燐光を帯び、黒から透明色へと変わっていく。

「エルサも、あの男の人のことが大好きなの?」

「うん。大好きだよ」

「ごめんなさい。
 わたし、エルサとその人のことを、傷つけたことがあるかもしれない」

「いいの。
 アイリスが悪いのではないのだから」

 エルサは、アイリスの白髪を優しく撫でた。

「あの声のところに戻ろうか」

「大丈夫かな。
 ルイスは怒っていないかな」

「ルイス兄様はただ、あなたを愛しているだけよ」

 エルサとアイリスは、互いのひたいを合わせた。

 二人の体が光を帯びて、その背から、一枚ずつ、純白の翼が生えて広がった。

 エルサとアイリスが眠りについてから、七十七日後。
 新月の夜のことであった。

 同時時刻、硝子質の少女たちの胸元に、ヒビが入った。
 やがてそのヒビは、瞠目するルイスとアレスの目の前で、全身に広がり、そして割れた。

 暖炉の火の光にきらきらと輝く硝子の欠片の中で、エルサとアイリスはゆっくりと瞼を開いた。

 片翼のペンダントは、透明に戻っていた。

「アイリス――」

 ルイスは、ぽつりとつぶやいたまま動かなかった。

 アイリスはふかふかのベッドに横たわっていて、その隣にガウン姿のルイスが、上体を起こした格好で茫然としていた。

「ルイス」

 アイリスが起き上がると、毛布の上に散らばった硝子片がカチャカチャと音を立てた。
 ルイスが慌てたように手を伸ばしてアイリスを抱き寄せて、硝子片から遠ざけた。

「いきなり動いたら危ないよ、アイリス。
 怪我はない?」

「うん、大丈夫」

「まったくきみは、硝子の上を突然動いたりして、それに、いや、そうじゃなくて、その上――」

 ルイスは、混乱が極まったように声を上ずらせた。

「その上、目を覚ますだなんて」

「会いたかったよ、ルイス」

 アイリスはルイスに抱きついた。
 温かい体温が嬉しくて、泣きたくなった。

 ルイスは体を強張らせたが、やがて恐る恐るアイリスを抱きしめ返した。

「ちゃんと――戻ってきてくれるなんて。
 アイリス。僕も、きみに会いたかった」

 ルイスの声は震えていた。

「横たわるきみを前にして、気が狂いそうな毎日だった。
 いっそそうなってしまったほうが、楽なんじゃないかと」

「ねえルイス、これからはずっと一緒にいられる?」

「ああ、もちろんだよ」

 ルイスは、アイリスの頬に手を添えた。
 彼の琥珀色の瞳からは、涙がこぼれていた。

「ずっと一緒だ、アイリス。
 きみを愛してる。いままでもこれからも、きみをなによりも愛してるよ」

 くちびるがふれた。

 優しい恋情が溶け合って、重なり合う二人を、新月の夜が静かに隠していった。

 目覚めたとき、自分が王城にいることに、エルサは気づいた。

 時間帯は夜で、暖炉には火が焚かれていた。

 夜だったからか、室内にはアレスが寝る準備をしていたようだった。
 目覚めた直後、言葉を発する前に彼に強く抱きしめられて、エルサは「帰ってきたのだ」と感じた。

「ただいま戻りました、アレス様」

 瞳を涙で潤ませながら、エルサは愛する人に向けて告げた。

「アレス様が好きです。
 大好きです。
 まだ間に合うのであれば、アレス様からの求婚をお受けいたします。
 わたしをアレス様の花嫁に、妃にしてください」

 エルサの願いは、情熱的な口づけによって受け入れられた。

「結婚式を挙げよう」

 エルサを抱きすくめながら、キスの合間にアレスは言った。

「世界でいちばん綺麗なきみを、俺に見せてくれ」