一面の闇だった。
これほどになにもない空間というものとを、エルサは経験したことがなかった。
それでも、不思議と恐怖は感じなかった。
この闇に、どうしてか親しみさえ覚えていた。
エルサは、自分の体がほのかに発光していることに気づいた。
そして、何も身につけていないことにも気づいた。
纏っていたのは、唯一胸元のネックレスだけだった。
自分の体さえ見失ってしまうかのような暗闇の中で、エルサは、うずくまって震えている少女を見つけた。
エルサは少女に近づいていき、彼女のすぐ前にしゃがんだ。
「こんにちは、初めまして」
無風の空間で、自分の声はクリアに響いた。
初めましてという挨拶は、自分でもなんだかおかしく思えた。
何度か会っているような気がしていたからだ。
実際は、こうして対面するのは初めてのことだったから、間違ってはいないのだけれど。
「わたしの名前はエルサ。
あなたは?」
少女は、そろそろと顔を上げた。
頬はひどく泣き濡れていて、片方しかない目は腫れぼったく潤んでいる。
彼女もなにも着ていなくて、そして、胸元には漆黒の片翼が揺れていた。
彼女を、とても愛らしい女の子だと思った。
このような子が、重大な嘆きに苦しんで、闇に怯えているのは、あんまり可哀想だとも思った。
「わたし、は……」
掠れた声で少女は言った。
「わたしは、アイリスというの」
言いながら、アイリスの目にみるみる涙が溜まっていった。
「ルイスが死んでしまったの」
「ルイスとは、ルイス・セーレのこと?」
「ルイスが血まみれになってしまった。
わたしのことを庇って、お腹に、氷の槍が突き刺さって」
アイリスの顔が歪み、悲痛な泣き声が滲み出た。
「ルイスはちゃんと、自分の周りに、結界を張っていたのに。
わたしが、たぶんわたしの力が、知らないうちに、かき消してしまっていたの。
ごめんなさい。ごめんなさい、ルイス」
涙をこぼし続け、悲しみに嘆き続けるアイリスを、エルサは両腕で抱きしめた。
「ルイス――ルイス」
エルサの腕の中で、アイリスは泣きじゃくっている。
彼女の想いが、過去が、そして、彼女がルイスと送った日々の光景が、エルサに流れ込んでくる。
生まれたときかから片目がつぶれていて、周囲の者から虐げられていたこと。
姉たちから暴言や暴行を受けていたこと。
母が死んでしまったこと。
それを、アイリスのせいだと責められたこと。
死ぬ思いで娼館から逃げ出して、街で男たちから襲われそうになり、そこで『嘆きの魔女』に変貌したこと。
一瞬で白髪のになるほどの恐怖とストレスを受け、嘆きと混乱の中、森の中へ逃げ込み、そしてルイスに出会ったこと。
虐待に怯え、恐怖に惑い、孤独に泣き続けていたアイリスを、ルイスが包み込んでくれたこと。
二人が交わす深い愛情と、悲痛と、互いを必要とする切望に、エルサの胸が切なく締め付けられた。
そうして二人は、引き裂かれてしまったのだ。
気づけばエルサも、アイリスと同様に涙を零していた。
「つらかったね、アイリス」
エルサには兄たちがいた。
両親を喪い、人々から蔑まれても、エルサには兄たちがいてくれた。
けれどアイリスには、誰もいなかった。
もしエルサがアイリスと同じ境遇で育ったなら、きっと彼女と同じようになっていただろう。
そして、あの優しい兄にいつしか出会い、心を救われていただろう。
「ルイスが、いなくなったら――わたしはもう、生きていけない。
ルイスに会いたい。会いたいよ」
「うん、そうだよね。
会いたいよね」
いまにも崩れ落ちてしまいそうなアイリスを、エルサは強く抱きしめた。
アイリスは、エルサにしがみつくようにして抱きしめ返した。
そうしたら、ふいにアイリスが、涙で濡れた顔を上げた。
「エルサは、ルイスの妹……?」
「ルイス兄様が、アイリスのことをどれほど愛しているか知っているよ」
エルサは、アイリスの涙を指先で拭った。
「ルイスと同じ匂いがする。
指の感触も、声の響き方も、似てる」
「小さい頃は、エルサはルイスに似ているねって言われていたの。
大きくなってからは、言われなくなったけれど」
アイリスは切なげに笑った。
「いまも似てるよ。
ルイスと同じ、温かくて優しい気配がする」
「ルイス兄様も、あなたに会いたいと思っているよ」
「でも……ルイスは、ママみたいに動かなくなってしまったから、もう会えないよ」
ふたたびアイリスの表情が悲しげに歪んだ。
エルサはほほ笑んだ。
「信じて、アイリス。
ルイス兄様はあなたの名前をずっと呼んでいるよ。
耳を澄まして」
「怖いよ。
聞こえないかもしれないもの」
「大丈夫、わたしがそばにいるから」
エルサは、アイリスの片翼のペンダントに指でふれた。
「これと同じものを、わたしも持っているわ。この翼の片方よ。
ね、こうして合わせると、ぴったりでしょう?」
「本当だ。
翼になった。
これは、ルイスがわたしにプレゼントしてくれたものなの」
アイリスの表情に、ほほ笑みが戻る。
「月の綺麗な夜だった。
湖がきらきらして、すごく綺麗だった」
「ほら、聞こえるでしょう、アイリス。
ルイス兄様が、あなたをずっと呼んでいるよ」
「……うん」
アイリスは、不安そうにしながらも耳を澄ませた。
やがて、濡れた頬に血色が戻ってくる。
「本当だ、聞こえる。
ルイスの声が聞こえる。
わたしを呼んでる」
アイリスは、エルサを見上げた。
「それに、もう一つ、エルサを呼ぶ男の人も声も聞こえるよ」
「……うん、そうだね。
聞こえるね」
エルサは微笑した。
合わせた両翼が白い燐光を帯び、黒から透明色へと変わっていく。
「エルサも、あの男の人のことが大好きなの?」
「うん。大好きだよ」
「ごめんなさい。
わたし、エルサとその人のことを、傷つけたことがあるかもしれない」
「いいの。
アイリスが悪いのではないのだから」
エルサは、アイリスの白髪を優しく撫でた。
「あの声のところに戻ろうか」
「大丈夫かな。
ルイスは怒っていないかな」
「ルイス兄様はただ、あなたを愛しているだけよ」
エルサとアイリスは、互いのひたいを合わせた。
二人の体が光を帯びて、その背から、一枚ずつ、純白の翼が生えて広がった。
エルサとアイリスが眠りについてから、七十七日後。
新月の夜のことであった。
同時時刻、硝子質の少女たちの胸元に、ヒビが入った。
やがてそのヒビは、瞠目するルイスとアレスの目の前で、全身に広がり、そして割れた。
暖炉の火の光にきらきらと輝く硝子の欠片の中で、エルサとアイリスはゆっくりと瞼を開いた。
片翼のペンダントは、透明に戻っていた。
「アイリス――」
ルイスは、ぽつりとつぶやいたまま動かなかった。
アイリスはふかふかのベッドに横たわっていて、その隣にガウン姿のルイスが、上体を起こした格好で茫然としていた。
「ルイス」
アイリスが起き上がると、毛布の上に散らばった硝子片がカチャカチャと音を立てた。
ルイスが慌てたように手を伸ばしてアイリスを抱き寄せて、硝子片から遠ざけた。
「いきなり動いたら危ないよ、アイリス。
怪我はない?」
「うん、大丈夫」
「まったくきみは、硝子の上を突然動いたりして、それに、いや、そうじゃなくて、その上――」
ルイスは、混乱が極まったように声を上ずらせた。
「その上、目を覚ますだなんて」
「会いたかったよ、ルイス」
アイリスはルイスに抱きついた。
温かい体温が嬉しくて、泣きたくなった。
ルイスは体を強張らせたが、やがて恐る恐るアイリスを抱きしめ返した。
「ちゃんと――戻ってきてくれるなんて。
アイリス。僕も、きみに会いたかった」
ルイスの声は震えていた。
「横たわるきみを前にして、気が狂いそうな毎日だった。
いっそそうなってしまったほうが、楽なんじゃないかと」
「ねえルイス、これからはずっと一緒にいられる?」
「ああ、もちろんだよ」
ルイスは、アイリスの頬に手を添えた。
彼の琥珀色の瞳からは、涙がこぼれていた。
「ずっと一緒だ、アイリス。
きみを愛してる。いままでもこれからも、きみをなによりも愛してるよ」
くちびるがふれた。
優しい恋情が溶け合って、重なり合う二人を、新月の夜が静かに隠していった。
目覚めたとき、自分が王城にいることに、エルサは気づいた。
時間帯は夜で、暖炉には火が焚かれていた。
夜だったからか、室内にはアレスが寝る準備をしていたようだった。
目覚めた直後、言葉を発する前に彼に強く抱きしめられて、エルサは「帰ってきたのだ」と感じた。
「ただいま戻りました、アレス様」
瞳を涙で潤ませながら、エルサは愛する人に向けて告げた。
「アレス様が好きです。
大好きです。
まだ間に合うのであれば、アレス様からの求婚をお受けいたします。
わたしをアレス様の花嫁に、妃にしてください」
エルサの願いは、情熱的な口づけによって受け入れられた。
「結婚式を挙げよう」
エルサを抱きすくめながら、キスの合間にアレスは言った。
「世界でいちばん綺麗なきみを、俺に見せてくれ」